25 薔薇の園遊会(ヘザー視点)
王宮主催の薔薇会が催される五月、毎年欠かさずイルミナからの使者がフェルディナンドを訪れる。
百年前、薔薇を広めたイルミナ出身の王妃は、その母国でも大変な人気者らしい。彼女の名レティシアは代々のイルミナ王室で踏襲され、現在も一人、同じく「レティシア」の名を持つ十七歳の王女がいる。
この王女が、今回、イルミナ使節団の中に驚いたことに同行していた。
誰もが、未だ空席のまま放置されている王太子妃の座を狙ってきたのだろう……と考えたが、イルミナ本国の意図はともかく、王女自身にどうやらその気は全くないようだった。
「こんなに長い旅行、初めてです!」
と実に無邪気に喜んでいる。
あまりの天晴れな無関心っぷりに、初めは露骨に警戒していた王太子殿下までもが、「何だあの態度は!?」と怒り出す始末である。ちやほやされないと、されないなりに面白くないらしい。
面倒くさい人ね、と、私がぼろっと本音を漏らすと、素直なんですよ、と、カイルが笑った。
「上に立つ者なのに、裏表がなく親しみやすい方です。私はあの方が次代の王で良かったと思いますよ」
まずはその次代王に挨拶に行きましょう、と、会場入りして直後、カイルが私の手を取った。
確かに付き合いやすい殿下ではあるけれど、やはり大国フェルディナンドの頂点に立つ御方だ。一見闊達な性格とは裏腹に、人を見る目は鋭く厳しいとも聞き及ぶ。
私はにわかに緊張した。
園遊会には似つかわしくないと気後れしていた赤の礼装を、自らを奮い立たせる武装と見なし、人垣を割りつつ歩き進む。王太子殿下は取り巻きに厚く囲まれ、いまだその姿は遠かった。
「いつも通りにしていて下さい。何も心配いりませんから」
カイルがふんわりと私の手を握ってくれた。
ちらりと横に立つ彼を見上げると、緊張感など欠片もない、穏やかな眼差しがそこにある。
強張っていた肩から力が抜けた。ほっと息を吐き出した時、不意に人の波が左右に引いた。
「カイル! よく来たな!」
殊更に王太子殿下が大きな声を出す。カイルも破顔してそれに応じた。
「ご招待、感謝いたします。アルベルト殿下」
「ふむ。そちらが自慢の婚約者殿か。なるほどなるほど……」
顎を撫でつつ、殿下が片方の唇の端を吊り上げた。中身はともかく顔立ちは美丈夫と評判の従兄君メルトレファス公爵閣下に似たところがあるので、さすがに様になっている。
「お前が俺のところになかなか来なかった理由が、ようやくわかった。実に見事な赤薔薇だから、一人で眺めて楽しんでいたわけだ」
婚約者? と、周囲の人がざわめき始める。
私は気が気ではなかった。まだ正式に発表したわけでもないのに、堂々と口に出しすぎだろう、この王子様は!
「ええ。もう少し心行くまで一人で鑑賞したかったのですが、周りも五月蠅くなってきましたし、そろそろ潮時かと。……こうして参上した次第に存じます」
カイルが少し私の手を高く掲げた。
王太子殿下の御前、そうそうたる大貴族と有識者たちが居並ぶ中、凛として涼しげな眉目はそのままに……はっきりと、彼は言った。
「私、カイル・ファルクス・マードックは、ここにいるヘザー・ルーベリア・ディオフランシスを正式にマードック辺境伯夫人として迎えることをご報告申し上げます」
おめでとうございます! と、拍手の渦が巻き起こる中、ただただ茫然として、私はそこに突っ立っていた。
「は……ぇ?」
とてつもなく間抜けな声まで出してしまい、慌てて両手で口に蓋をした。落ち着け自分。
(や。ちょっと。聞いていないんですけど……っ!)
静かな水面に岩を百個落とすような仰天発表なのに、当事者の私が今の今まで知らなかったって、どういうこと? 心の準備が……。
そこでハッとした。不自然極まりない兄とサヴァナの態度。クラリッサも。
そういう事か。なんて家族だ。わざと黙っていたな……!
楽しい不意打ちのつもりで彼らは計画したのだろうが、楽しいを通り越してもはや心臓に悪すぎる苛めである。首から上の血の気が引いて、何だかその場に倒れて伏してしまいたい気分だった。
「大丈夫ですか? ここで気を失ったら、私に抱き上げられて退場することになりますよ。……私は一向に構いませんが」
とのカイルの言葉に、私はふらつく足を励まして貧血に耐えた。
そんな末代まで伝説として残りかねない大失態、犯してたまるか……!
「き、聞いてなかったのよ!」
「面白い家族ですよねぇ」
「カイルも教えてくれなかったじゃない!」
「余計なことは言わない方が身のためと、直感で悟りました。我ながら英断です」
「おかげさまで、私の方は驚きすぎて倒れそうよ!」
「大丈夫ですよ。倒れたら責任もって運びますので」
「何か、とんでもない場所に連れ込まれそうな気がするわ……」
「段々察しが良くなってきましたね。何よりです」
人影のまばらな庭園の隅の方に行き、こそこそと小声で言い争っていると、すれ違いざまに、仲が良いですなぁ、と冷やかされた。
断じて違う。恋人同士で甘く囁き合っているわけではない。
喧嘩しているのだ、これは。そうは見えないのか。何たる節穴……!
「いえ。たぶん、じゃれ合っているようにしか見えないかと」
「……」
カイルの冷静な一言が耳に痛い。
「ありがとうございます。フェルディナンドの婚約発表の場に立ち会わせて頂けるなんて、思ってもみませんでしたわ。私、本当に、嬉しかったです」
花のような笑顔と共に、今度はイルミナの王女殿下が駆け寄ってきた。
私は慌ててスカートの端を摘まみ、礼をした。そんな他人行儀はいりませんわと王女が私の礼を止め、両手を取った。彼女は自分の豊かな黒髪を飾っていた純白の薔薇の簪を外すと、それを躊躇うことなく私の髪の中に差し入れた。
「貴女の方がよくお似合いです。本当に、赤い薔薇の精みたい」
イルミナでは、男性が女性に求婚するとき、薔薇の花や細工物を贈るのが習わしだという。
「フェルディナンドではどのようにしますの?」
無邪気に王女はカイルに尋ねる。
フェルディナンドでは特にそういった風習はない。結婚して下さい、と直球で告げるだけだ。
それを説明しようとすると、
「フェルディナンドではこうします」
カイルが私の腰を掴んで引き寄せた。え? ときょとんとしている私の口に、彼の唇が降りてきたのは一瞬のことだった。
「まぁ……」
王女がたちまち顔を赤くする。
「フェルディナンドの殿方は情熱的なのですね」
さすが純粋培養、夢見るお年頃の十七歳。もう目がキラキラを通り越してウルウルしている。……というか、カイル、嘘教えてどうするの!
「王太子殿下からイルミナの姫君にも、同じものが贈られるかもしれませんね」
悪びれもせず、我が婚約者殿はしれっと答える。
……なんという鋼の心臓だ。生えている毛も鋼鉄製に違いない。
「いえ、私など……。年も十歳も離れていますし、何だか子供扱いされているようで。あまり好かれていないみたいです……」
しょんぼりと王女が項垂れる。イルミナの年若い姫君は、フェルディナンドの王子には興味がないかと思ったら、どうやらそうでもなかったらしい。
「アルベルト殿下は異国の客人に対しては常に平等に振る舞われます。殿下の態度が逆に素気ないと感じられるなら、少なくともレティシア様には客人以上の感情をお持ちなのでしょう」
「そ、そうかしら?」
「はい。良き王です。あの方は。……我ら臣下一同、良き王妃を求めております」
もう少し王太子殿下とお話してみます、と、はにかんだように微笑んで、イルミナの王女は去った。
彼女の姿が十分に遠くまで行った後、私は、どすっと肘でカイルの横腹を打った。
「全くもう! イルミナの王女様に何てこと言うの! 絶対勘違いしちゃったじゃないの……!」
すみませんね、と、呑気な台詞が返ってくることを期待したのに、カイルは無言のままだ。
琥珀の瞳には、これまで見たことがないくらい冷たい光が宿り、私は肌が粟立つのを感じながら、彼の視線の先に首を巡らせた。
「アルムグレーン公」
二度と見たくないと思っていた濁った眼差しが、そこにはあった。
彼の後ろには、赤みの強い金髪の若い女性が控えており……滅多なことでは動じないはずのカイルの貌に、ほんの一瞬、苦しげな、切なげな、影が過ぎった。
「エノーラ……」




