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Anagram  作者: 宮原 ソラ
23/37

23 変わりゆくもの(カイル視点)


「大変です! 大変なんです!」

 相変わらずの落ち着きのない声を張り上げて、バートが副理事室に駆け込んできた。

 赴任してすぐの頃は、その度に「何事だ!?」とハッとしたものだが、付き合いが一か月を超えた今、さすがに慣れた。

 そもそもバートの「大変です!」が本当だったことは、これまでに一度しかない。言わずもがな、父レアトの論文が奪われたあの強盗事件である。

「今度は何だ?」

「本当に大変なんですってば!」

「わかったから結論を早く言ってくれ」

「そんな軽い調子で聞いたら後悔すること請け合いです。心の準備なくしては聞けない大事件なんですから!」

「……心の準備云々の前に、私の堪忍袋の緒が切れそうなのだが」

「そんな物騒な台詞を、爽やかな笑顔でさらっと言ってのける副理事に、何だか惚れてしまいそうです」

「……」

「あ。すみません。これは冗談です。そんな本気で嫌がらなくても」


「聞きしに勝る個性的な秘書だな」


 私とバートの緊張感のない会話に、第三者の声が割って入った。

 バートが慌てて頭を垂れる。私も本来はそれをすべき立場にあるのだが、少し前、他でもないその声の主に畏まることを禁止された。

「お前は俺の妻の義父なのだから」

 と。

 メルトレファス公爵ユージン様がつい先ごろ迎えられた妃マリー・エメリア様は、実家の家格が低く、嫁ぐ際に高位貴族マードックの籍に養女として入った。

 つまり、五つしか年齢差はないのだが、書類上は辺境伯である私の娘ということになっているのだ。

「久しぶり……というほどでもないか。元気でやっているか? カイル」

 ユージン様が、私の方に右手を差し出した。握手は対等の者が交わすべき挨拶であり、当然、これまで私が主君メルトレファス公にそれをしたことはなかった。

 不思議な気分で、私は彼の掌を握り返した。

「約三か月ぶりでしょうか。これほどの期間離れたことは、今までありませんでした。私には久しぶりに思えます」

「聞いているぞ。うるさい主からようやく解放されて、それこそ水を得た魚のように、お前は生き生きと泳ぎ回っていると」

「そんな事はありませんよ。今でも時々側近だったあの頃に戻りたいと思うことがあります」

「俺は、正直、お前が二人欲しいと思うことがある。マードック辺境伯として俺の隣に対等に立つお前と、側近クラウザーとして俺の一歩後ろに控えるお前と、両方な」

「それはなかなか難しい注文ですね」

「だろう? なのでマードック伯一人で我慢することにした。それに、俺がにらんだ通り、お前はただの側近より辺境伯の方が向いているようだしな」

 不意に、お茶のご用意を、と叫んでバートがくるりと回れ右をした。

 かねてよりメルトレファス公に憧れていたという秘書は、緊張のあまり右手と右足が完全に一緒に前に出ていた。私は彼を呼び止め、書類の束を一つ渡した。

「私が淹れる。お前は学院長にこれを渡してきてくれ」

 バートはそれを大切そうに抱えて、深々と礼をした。

「行くついでにあちこちで暇を潰してきます! 積もる話もおありでしょうから、ごゆっくりお寛ぎ下さい!」

 機械仕掛けの人形のような動作がついに直ることはなく、最後までぎくしゃくしながら秘書は去った。

「気がきくのか、きかんのか、わからん奴だな」

「まぁ、味のある人間だとは思っています。大化けする可能性にかけて目下訓練中です」











 まもなく薔薇祭が始まる。

 百年近く前、隣国イルミナから嫁いできた王妃が、自国の主要産業である薔薇の栽培方法をフェルディナンドに伝えた。

 イルミナの薔薇は、華やかで香り高く、虫や病害にも強く、その扱いやすさゆえに瞬く間に国中に広がった。

 薔薇祭は、当初は、個々で庭の花を楽しむために茶会を開く、というささやかな趣旨のものだった。が、年々規模を増し、ついには数日がかりで無礼講が続く巨大な園遊会行事へと発展した。

 王宮はもちろん、学院、有力貴族らも競い合うように会を催す。

 その中の一つには絶対に顔を出さなければならない、という奇妙な風習も生まれ、今年は、私は学院主催のもの、ユージン様は王宮主催のものにそれぞれ出席する予定になっていた。

「王太子殿下が嘆いていたぞ。カイルが王宮主催の会に出てくれない、と」

「私が行かなくとも、王宮主催の会には客が押し寄せるでしょう。毎年二千人規模に膨れ上がっているのに、一人にこだわる必要もないかと」

「俺もそうは思うが、とりあえず殿下から伝言を預かってきたので伝えておく」

「何ですか?」

「『カイルの恩知らずめ。辺境伯になる際にあんなに俺が推してやったのに、園遊会の一つにも出ないとは何事だ。お前なんかもう知らん。後で泣きついて来ても絶対に入れてやらんから覚えとけ』だそうだ」

「……子供ですか、あの方は」

「そう言うな。あれの周りは媚びる輩ばかりだから、お前のように誰に対しても態度が変わらない人間の方が安心できるのだろう」


 いや、一人だけ例外がいたな、と、ユージン様の翠の双眸に、一瞬、険が閃いた。


「アルムグレーン公。奴だけはさすがのお前も毛嫌いしていたな」

「あの男を好きな人間がいたらお目にかかりたいものです」

 アルムグレーン公は、以前から何かとユージン様に付き纏っていた。まずは自分の娘ガブリエラを嫁がせ身内に入り込み、その娘が予想外の死を遂げると、今度は姪マグダレーナをユージン様に娶せようとした。

 単に強大な力を持つメルトレファスに群れたかっただけかと思っていたら、その真の目的は、私の常識とは甚だかけ離れたところにあった。


(私は何としてもユージン様の御子が欲しいのだ。アレクサンドライトを持つユージン様の血を継ぐ者こそ、次代のアルムグレーン公爵に相応しい)

(……何を、言って。貴方様には立派な嫡男がいらっしゃるでしょう)

(卑しいバーバラの産んだ子など、ユージン様に比べれば。私が欲しいのはアレクサンドライトだけだ)


 それを聞いたとき、私は決意したのだ。

 何としても、この狂った男をユージン様から引き離さなければ、と。

 だから徹底的に邪魔をした。マグダレーナがユージン様の執務室に訪ねてくれば、その手前の秘書官室で追い払ったし、屋敷に手紙や訪問があれば、私の独断でそれを全て握り潰した。

 ユージン様は城中にも私室を賜っていたが、その周囲を守る衛兵にも、王太子殿下の許可を得てメルトレファスの信頼のおける私兵を潜り込ませた。

 あの恥知らずな一族なら、既成事実目当てに夜這いをかけるような真似すらやりかねない。

 ……かつて、ガブリエラが、夫に相手にされない不満のはけ口を身近に求めて、事もあろうに私に対してそれをしたように。

 用心は、し過ぎて困るということはなかった。

 やがて、不遇な事件によりマグダレーナが死に、ユージン様はかねてからの想い人と結ばれた。そこでようやく私も肩の荷を下ろした。

 アルムグレーン公は、私が裏でやっていた事に薄々勘付いていたようで、凄まじい憎悪の目を向けてくるようになったが、私は一向に構わなかった。


「そのアルムグレーン公だが、王室にとんでもない申請を出してきた。ディオフランシス侯爵令嬢ヘザー殿をもらい受けたいと」

「……は?」

「お前と婚約中ということで、陛下が撥ねつけてくれたが、どうも諦めていないようだ。むしろ、相手がお前と知って、火に油を注いでしまったと言うべきか……」

「……」

 膝の上に置いた自分の手が、無意識に、握り拳を作っていた。爪が掌に食い込んでいたが、その痛みにもしばらく気付かないほど、怒りのために頭の中が真っ白になっていた。


(今度は、ヘザーか)


 何故、あの男は、ことごとく私が大切にしている者達を穢そうとするのだろう。

 何の因縁なのか。

 私自身は、アレクサンドライトなど興味もないし、縁もない。

 それなのに、行く先々で、あの忌まわしい男と交錯する……。


「王室主催の園遊会……まだ参加は間に合いますでしょうか。可能であれば、今からでも許可を得に、城に伺おうと思うのですが」

 突然の私の申し出にも、ユージン様は驚いた顔を見せなかった。

「殿下は喜ぶだろう。三時間はどうでもいい話に付き合わされると思うが」

「先程の伝言から察するに、たっぷりと時間をかけて苛められそうですね……」

「俺も一緒に行くか? 俺がいれば愚痴は半分、嫌味はほぼゼロまで減るぞ」

「いえ。こういう息抜きは、王太子殿下のようなお立場の方にこそ必要でしょう。ちょうどよい機会ですので、三時間ほど溜まっているものを吐き出させてきます」

「人がいいな、お前は。……本当に」

「自分ではそれほど人の良い事を言ったりやったりしているつもりはないのですが、よくそう言われます。何故でしょうね……」

「なぜだろうな」

 明確な答えは出さず、ユージン様はただ笑った。


 その日の夕刻、王城へと伺候した。

 酒と、最近凝り始めたというチェスの相手を同時に務めた。王太子殿下は盤上の遊戯はあまり得意ではないようで、戦略はよく言えば大胆不敵、悪く言えば猪突猛進だったが、その殿下に、今日の私は勝率が六割以下だった。

「お前なぁ。さっきから何を考えている? 上の空にも程があるだろう」

 とうとう殿下に指摘された。

 事実なので、返す言葉もない。

 城に来る前、副理事室でのユージン様との会話を、私は思い出していた。

 あのアルムグレーン公が、ヘザーを欲しいと王室に許可を求めたという事実。それを聞いた瞬間に、視界が一気に赤く染まった気がした。

 後から思えば、これこそが「頭に血が上る」ということだったのだろう。


(お前との付き合いは三十年近くにも及ぶが、お前は本当に感情の起伏の少ない人間だったんだな)

(?)

(感情が表に出やすい子供の頃でも、見たことがなかった。お前の目が金に変わるのを)

(……金?)

(気付いていないか。怒り心頭の時に鏡なんか見ないから当然だよな。……その上、お前の目はもともと琥珀で変化がわかりにくい)

(……変化?)

(俺も極端に感情が昂ぶると、目が金を帯びるらしい。アレクサンドライトの特徴の一つだということだ……。子供の頃、指摘されたことがある)

(それは)

(なぁ、カイル。お前……なぜ、金緑石の金の部分を持っている?)


 私は、呆然と、今なお主君と仰ぐ公爵閣下を見つめるしかなかった。

 彼もまた激高しやすいたちでは決してなく、この双眸が金を帯びるのは極めて稀だ。現に、私は、長い主従関係の間で一度しか目にしたことがなかった。




(お前は……誰だ?)




ここまで読んで下さった皆様、ありがとうございます。

やっと、目標としていた一つの大きな区切りまで来ることが出来ました……。

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