21 実家訪問(ヘザー視点)
カイルがかつて仕えていたメルトレファス家には、長年、女主人がいなかった。
公爵閣下の母君は彼を生んだ直後に早逝。学院卒業と同時にようやく迎えた妻も、わずか三年で先立った。
だから、ほとんど不在がちな女主の役目を、カイルの母エミリア夫人が代理で務め上げていたらしい。
かなり格下の男爵家に嫁いだものの、彼女は元々は辺境伯令嬢、心得は十分にある。
活発すぎて、侍女の真似事のようなことまでしていたという話には驚いたが……考えてみればカイルも自分で何もかもやってしまうタチだ。やはり親子。変なところで似てしまったのだろう。
現在、メルトレファス公ユージン様は再婚し、家には女主人がいる。
それが、学生時代の私の友人マリー・エメリアだと知った時には、驚愕のあまりひっくり返りそうになった。
あのとぼけた娘に公爵妃など出来るのかと心配したものだが、結婚式の時の二人の様子を見て杞憂と悟った。
出来る出来ないではなく、公爵様の隣にマリーがいるのが自然であり、当然であるような……。
「運命」の存在を信じてやっても良いと、らしくもなく、私はそんな幻想を抱いた。
「……で、お義母さまは今どちらに?」
「一応、クラウザーの屋敷の方に戻っています。……かなりの頻度でメルトレファスの家に押しかけているようですが」
幸いにして、エミリア夫人はクラウザー邸宅にいた。
父君の男爵はメルトレファスから事業の一部を預かっている身で、そちらの対応に忙しく、不在だった。弟たちもそれぞれ遊びやら学業やらで出払っていた。
「せっかく気合い入れて来たのに……」
「ですから、日を改めて、きちんとそういう席を用意すると」
「まぁいいわ。お義母さまにしっかりご挨拶しなきゃ」
「……人の話聞いていませんね」
クラウザーの屋敷に入ってすぐ、エミリア夫人と対面した。
彼女はわざわざ玄関先まで出迎えに来てくれた。まあぁ! と感極まった調子で抱きつかれ、よくわからないが物凄い大歓迎を受けた。
「娘が欲しかったの……!」
男の子なんて本当につまらないのよ、と、夫人は、これ以上ないくらい目を細くして息子を睨んだ。
「ぜんぜん会いに来てくれないんだもの。やっと来たと思ったら用件だけ言ってすぐ帰っちゃうし」
「この年で親にべったりだったら、その方が問題でしょう……」
「お前は子供の頃から全然甘えてくれなかったわ」
「そうでしたかね」
「そうよ。ユージン様の方がまだしも私に懐いてくれたわ」
「……もうその話はいいですから」
ともかくも、私たちは夫人の案内で談話室へと通された。
エミリア夫人は、気さくな、明るい方だった。
巷で、嫁と姑の骨肉の争いなど余計な知識を仕入れていた私は、内心ドギマギしていたのだが、この夫人となら仲良くできそうだと安心した。むしろ、話の弾む私たちの隣で、カイルの方が居心地が悪そうにしていた。
「せっかくお義母さまに会ったのだから、もっと喋ればいいのに」
と、私が言うと、
「そんなに次から次へと話す事がある方が不思議です」
本気でそう感じているらしい反応が返ってきた。
「そういえば、何かお義母さまに確認したい事があるって言っていなかったっけ?」
紅茶を飲み終え、一通り出された菓子を食べ尽くしたところで、私はようやく当初の目的についてカイルに尋ねた。
「……そろそろ本題に入っても良いでしょうか」
「いいわよ」
「まぁ、この子ったら! なんて失礼な事を言うのかしら。ヘザーさんの紹介以上に本題なんてあるはずないでしょ!」
「頼むから、私に少し喋らせて下さい……」
実父のことについて話が及ぶと、エミリア夫人が明らかに狼狽えた。不安そうに私を見る。
ヘザーは全て知っていますから、というカイルの言葉に、夫人の目が零れんばかりに大きく見開かれた。
「お前が自分からレアトのことについて話すなんて」
驚きが去った後、彼女の顔には、長く一人で背負い込んでいた荷物を下ろした時のような、安堵の色が浮かんでいた。
「優しい、いい人だったのよ。本当に。彼が約束の場所に来てくれなかったのは、きっと何か事情があったからだと思うの」
本当は、貴方たちが正式に結婚してから渡すつもりだったのだけど、と前置きして、エミリア夫人が一旦席を立った。
しばらくして戻って来た彼女は、一冊の本を大切そうに抱えていた。
本は、厚さはさほど無く、装丁は黒く固い革製だった。表紙には、題名と作者名、そして二組の数字が刻印されているだけの非常に簡素な物だった。
「レアトが残した物よ」
私とカイルは顔を見合わせた。
私たちはその黒い本に見覚えがあった。当然だ。全く同じ物を作ったことがあるのだから。
「……博士論文!?」
学院から盗まれたはずのレアトの博士論文。それが何故かここにある。
カイルは黒い本を受け取り、中身を見る前にひっくり返した。裏表紙に刻まれているはずの「フェルディナンド王立学院」の文字が、それには無かった。
「複製ですね……」
「複製……」
博士論文の複製を作るのは、実はそう珍しいことではない。
論文は提出すると学院図書館の奥深くに保管されてしまい、館外への持ち出しが不可になるのだ。閲覧も学院職員の立会いの下でしか出来ず、自分の作品なのに自由には扱えない。
だから、多くの学生は複製品を作る。
私もそうだ。製本はしていないけど、全く同じ原稿を手元に残していた。
「実のお父様は、それをお母様に贈ったのね……」
「……」
良い話だわ、としんみりと感じ入る私の隣で、なぜかカイルの表情は固い。
「先程、私たちが正式に結婚したら、と言いましたね。それはどういう意味です」
「だって、レアトにそう頼まれたのだもの」
「……は?」
エミリア夫人は、息子の鋭い視線にややたじろぎながらも、はっきりと答えた。
「レアトに頼まれていたの。生まれた子がもし男の子で、その子が大きくなっていつか結婚したら、これを渡してやって欲しいって」
おかしな遺言(レアトの生死については不明だけど、私もカイルも、何となく、彼は死んでいるような気がした……)だ。
結婚したら、とはどういうことか。しなかったら渡さなくていい、ということなのか。
何か我が子に伝えたい事があるなら、普通は「何歳になったら」「成人したら」と確実な条件を付けるものではないのだろうか。
それをあえて「結婚したら」などという、達成される保証もない前提の上に置く意味が……わからない。
エミリア夫人は、レアトについて知り得る限りの事を教えてくれた。
一番驚いたのは、彼が異国人だったことだ。
レアトはフェルディナンド人ではなかった。クヴェトゥシェ人だった。クヴェトゥシェの平民出身で、非常に頭が良く、特待留学生として王立学院に籍を置いている間、エミリア夫人と知り合った。
駆け落ちも、当てのない逃避行ではなく、彼の母国クヴェトゥシェに行くつもりだったのだという。
クヴェトゥシェは小国だが、国民の教育と生活の水準が総じて高く、大陸でも有数の技術立国である。フェルディナンドよりも遥かに身分差の少ないこの国では、平民女性が王妃に立つことすらあり、落ち着いた生活が約束されているはずだった。
「聞いてくれて嬉しいわ」
エミリア夫人は微かに涙ぐみながら微笑んだ。
「カイルったら、何も聞いてくれないんだもの。私も、息子が聞きたがらない話を無理にするわけにもいかないし。……主人や他の子供たちの手前もあって、尚更ね」
「……」
カイルは珍しくばつの悪い顔をしている。
この人は、周囲への対応は嫌味なくらい完璧にこなすのに、自分自身については意外に不器用なのかもしれないな、と思った。
波風を起こしたくないからと、努めて封じていた真実に悪意はなく、ただ手の中の黒い本が、紛れもない両親の愛情を彼に示しているかのようだった。
「綺麗な字ね。貴方に似てるわ」
「……」
内容は、私たちには馴染み深いものだった。そこに書かれた文字や数字は書き取りの手本のように流麗で見やすく、カイルの筆跡にどこか似ていた。
ぱらぱらと頁をめくっていた彼の手が、ふと止まった。
「これは?」
裏表紙の手前に、封筒が挟まっている。いや、挟まっているのではない。綴じ込まれていた。製本する際に入れたのだろう。
封筒はどの辺もしっかりと糊付けされ、密封されていた。触って確かめると、中身は数枚の紙のようだった。
「開けても?」
カイルが夫人に尋ねる。
ほとんど残っていないレアトの遺品に傷をつけることに、抵抗があるようだった。
「それはもうお前の物よ。好きにしなさい」
私にはこれがあるから、と、エミリア夫人は服の下からペンダントを引っ張り出した。万一に備えて二連に渡した鎖の先には、白金の指輪が吊り下がっていた。
「レアトが私のために作ってくれたの」
指輪の裏側には「レアトからエミリアへ」と、小さな文字が略語で刻まれていた。
「これだけは手離せなかったわ。……私も諦めが悪いわね」
エミリア夫人に許可をもらい、カイルは封筒を本から引き剥がした。
「……これって」
三十年ぶりに開封された、封書の中身。
父から子へと宛てた、時を超えた手紙。
私は、そんな感動ものの光景を期待していたのだ。エミリア夫人だって、涙を誘う名文句が紡がれるのを、どきどきしながら待っていたに違いない。
それが。
「どういうこと?」
「暗号文ですね」
「見りゃわかるわよ。息子に宛てた手紙が暗号文って、どういうこと?」
「さぁ……」
封筒から出てきた数枚の紙には、カフェ「アナグラム」で見たような、複雑怪奇な暗号文が並んでいた。
「なんて書いてあるの?」
「わかりません」
「息子なら一目見たらわかるとか、そういうオチじゃないの!?」
「そんな魔法みたいな話、現実にあるわけがないでしょう。暗号文は誰が見ても暗号文です。わかりません」
「いや根本的な問題として、どうして感動の手紙の中身が暗号なのよ!?」
「私が聞きたいです」
そういえば、レアトって変わった人だったのよ、と、エミリア夫人が何かを思い出しながらしみじみと呟いた。
「頭良すぎたのね、きっと。いい人だけど、同じくらい変な人だったわ」
「よくそんな男に付いて行こうと思いましたね」
息子が、ある意味もっともな質問を投げかける。母は即答した。
「だって凄く格好良かったんだもの」
「……顔ですか」
「お前だって相当綺麗な顔をしているもの。わかるでしょ」
「わかりません」
更に少しだけ昔話を楽しんで、間もなく私たちはクラウザー邸を後にした。
結局、不明なことが増えただけの訪問だった……。




