20 カフェ・アナグラム(ヘザー視点)
「アナグラム」というカフェがある。
数学と物理学の学舎のすぐそばに居を構える立地条件から、理数系学生と学者たちのご用達の店となっている。貴族も一般人も、その身分立場を超えて同じ命題について熱く語り合うのが、古くからの習わしだ。
元々は、とある貴族の持ち家の一つだったらしい。
学院の敷地に半ば食い込むようにして建てられていたため、五十年以上前に土地ごと学院が買い取った。当初は建物を取り壊す予定だったが、学生らの保存運動が持ち上がり、誰でも自由に利用できる交流の場として残されることとなった。
一度は足を踏み入れたいと願いつつ、在学中、ついに私の願いが叶えられることはなかった。男性客が圧倒的に多いこの店、一人、もしくは女の子同士で中に入ることは、非常に敷居が高かったのである。
(一緒に入ってくれるような仲の良い男の子もいなかったしねぇ……)
アナグラムの曇り硝子の窓を見つめて、しんみりと色気の無かった学生時代に想いを馳せていると、
「……入らないのですか?」
いきなり背後から話しかけられて、文字通り飛び上がった。
「カイル!」
と叫んでから、慌てて「マードック伯」と言い直した。
我ながら変な事をしているとの自覚はあったが、私は未だにマードック伯を「カイル」と名前で呼び捨てに出来ないでいた……しかも本人の前限定で。
学院内の他の者には親しげに「カイルいる?」などと嘯いているなんて、彼には口が裂けても言えない事実である。
辺境伯は、一瞬、おや、という顔をしたものの、それについては深く言及することもなく、私の横を通り抜けた。アナグラムの扉の前に立ち、
「遠慮する事はないですよ。中は意外に普通のカフェです」
大きくそれを押し開けた。
「理数学部出身なら、一度は入ってみないと。さぁどうぞ」
彼の後に続いて、私は、長い間眺めるだけに留まっていた扉を、初めて潜り抜けた。
店内は明るく、開放的な雰囲気だった。各テーブルが十分な距離を保って設置されている。
客層は、学生よりももっと上の年齢の人間が多い。学院の関係者はもちろん、近隣からも馴染みの客が足を運んでいるようだった。
「本当に……普通のカフェなのね」
少ないが女性客もいた。ただ、私のように男性の連ればかりだった。
よくよく見れば、何かの本や書類を持ち込んで黙々と作業している人も多い。一見和やかに肩を揺らしている一団の会話に耳を澄ますと、落下運動が、引力が、と、かなり一般的ではない内容が聞こえた。
前言撤回。
やはり普通のカフェではなかった。
「珈琲でいいですか?」
「ええ」
彼はどうやら珈琲が好きらしい。初めて副理事室を訪れた時も、同じことを聞いてきた。
給仕はどこにいるのだろうと視線を彷徨わせると、
「ここには給仕はいませんよ」
店のほぼ中央に位置する大きなカウンターへと向かった。そこに立つ店員に何やら指示を出している。
少し時間をおいて、二つの珈琲カップを店員が差し出した。勘定をその場で済ますと、カップの乗ったトレーを持って、カイルが戻ってきた。
「こうやって注文するわけです」
「はぁ……。自分で取りに行くなんて初めてだわ」
「珍しいですよね。私もここ以外では見たことがありません」
彼が持ってきてくれた珈琲を一口啜った。
「貴方が淹れてくれた珈琲の方が美味しいわ」
つい本音が出た。
「それは嬉しいことを言ってくれますね。是非また副理事室にお出で下さい」
「……襲わないでしょうね」
「襲いませんよ。許可を頂けたら遠慮はしませんが」
「そ、それって襲う気はあるってことじゃないの」
「そうですね。貴女に対しては、やや理性による制御がききにくくなる傾向はありますね」
「聞いてないわよ。貴方がそんな狼男だなんて」
「狼男かどうかはわかりませんが、雌猫に対する標準的な食欲くらいはありますよ」
カイルが軽く肩を竦める。悪びれる様子は全くない。
「……自由な雌猫というより、生贄の子羊の気分だわ」
首から上がどんどん赤くなるのを自覚しながら、言い返してみたが、
「なら大人しく食べられる選択しかありませんね」
爽やかな笑顔を返されただけだった。
(こ、怖い……! 笑顔なのに怖いっ)
ふいと横を向くと、ちょうど目の前に大きな額縁があった。額の中に飾ってあるのは、絵ではなく、小さな文字と複雑な図形が書かれた旗だった。
何だろうこれは、と、一行読み進めて、すぐにそれが普通の文章ではないことに気が付いた。
「暗号文ですよ」
私の視線を受けて、カイルが答える。
「五十五年前、この建物の保存運動を発起し、カフェに『アナグラム』という名前を付けた人物が残した物です」
「なんて書いてあるの? もう解読はされているの?」
「解読はされていますよ。要約すると、『自分から積極的に興味を持ち、学びなさい。そして得た知識は、貴方という素晴らしい人間を形作る礎となるだろう……』ですね」
「自ら学べ、それが貴方の力となる……?」
「? よく御存じですね。それは原文の一部です」
祖父の口癖。
貴族令嬢らしくない趣味に興じる私が、兄や母に怒られるたびに、庇うように繰り返し言ってくれた、その言葉。
私は祖父の想いが形になったものだと思っていた。でも違った。原文がここにあった。
原文は誰が書いた? 洒落たカフェにアナグラムなんて似合わない名前を付け、大旗に複雑怪奇な暗号文を書き散らし、それをまるで絵画のように額に入れて飾る、とてつもなく変な人……。
「これを記したのは、アラステア王子です」
「アラステア王子……?」
「理数学部の卒業生で、物理学博士でもある王子です。五十年も昔の話ですが……私たちの大先輩に当たる方ですね」
何だろう。聞いたことがある。
五十年以上前の王子の話なんて、どこで耳にしたのだろう。
そんなに有名な方だったのか。かなり変人ではあるようだけど……。
「有名と言えば有名です。メルトレファス公ユージン様の前の翠と緋の瞳の主ですから。……若くして亡くなりましたが」
「亡くなった……」
その時、瞼の奥を、ちらりと遠い日の光景が過ぎった。
(お祖母さま?)
カフェのざわめきとは全く別のところから響く、柔らかな声。髪を撫でてくれる優しい手。
(兄がいたの)
そうだ。祖母は確かにそう言った。まだ幼い私の目を覗き込み……。
(お前の髪は兄さまにそっくりね。とても綺麗な赤い髪をしていたの)
フェルディナンド王家は黒髪の者が多い。だけど、たまに、赤毛も生まれる。王立学院に残っているイングラム準公爵の絵からもそれが窺える。
(とても頭の良い人だったの。気持ちの穏やかな、でも芯の強い人で)
(お祖母さまのお兄さま、お名前は何ていうの?)
(アラステア……)
(アラステアさま?)
(長男だったの。そして翠と緋の瞳を持っていた。王になるために生まれてきたと皆が言ったわ)
でもならなかった。
彼は若くして亡くなった。
王位は弟が継ぎ、そして、今、弟の子が国王陛下と呼ばれている。
アラステア王子の足跡はほとんど無い。所縁のあるカフェ「アナグラム」を含め、たまに、ぽつりぽつりと、その面影が忍ばれる程度である。
「アラステア王子の博士論文も学院図書館に残されています。私は専門分野が違うので、正直、半分もわからなかったのですが」
難解な暗号文の大旗を、カイルは眺めた。琥珀の目が、静かな懐古の光を湛えて、そのままでは読めない文字を追っていた。
「メルトレファス公がしきりに感心していました。彼は分野が極めて近いので、内容がわかったようです。とても五十年も前に書かれた物とは思えない、と言っていましたね」
「……色々なところに残っているのね。アラステア王子の痕跡」
「残っていますよ。貴女の髪もその一つかもしれませんね」
カイルも知っているのだ。亡くなった王子もまた、私に似た赤毛の持ち主であることを。
「翠と緋の瞳の王子の遺産か……。悪くないわね」
ふふんと鼻を鳴らすと、
「付加価値が付きすぎるのも考えものですね。畏れ多くてさらに近付けなくなりそうです」
真面目な顔つきで感慨に耽られてしまった。
珈琲を飲み干し、この後の彼の予定を聞くと、「確認したい事があるので、クラウザー家の母を尋ねる」とのことだった。
「お母さま?」
私は、先マードック伯とは既に面識があるが、そういえば、カイルの両親にまだ会っていない。弟たちにも。
これは婚約者としては忌々しき事態ではないかと、今更ながらにはっとした。
「あり得ないわ。まだ会ってないなんてっ!」
とテーブルの上に身を乗り出せば、カイルは私が乗り出した分と同じだけ引きながら、正式発表の前に一度そういう席を儲ければいいと思ったと、随分と大雑把な答えを返してきた。
隙もソツもない人間だけど、やはりこの辺は男だ。適当だ。両親への紹介は避けて通れない一大事であるはずなのに、付け足し程度にしか考えていないのが、ありありと見て取れる。
「私も行くわ。お母さまのもとに」
「……は?」
「だから私も行くわ。紹介して頂戴」
「いや、それは……」
「私も行くったら行くの!」
鼻息荒く訴えると、カイルは渋々了承してくれた。
自分の親になど会ってもつまらないだろうにと、不思議そうに首を捻っているのを見て、やはり彼も所詮は男だったと、妙なところで私は感心したのだった。
次回、お嬢様、婚約者の実家訪問。




