19 覆水(カイル視点)
最近、考え事をする時に、ふと月を見上げる癖がついたように思う。
以前はなかった。以前はどちらかと言えば暗い夜の方が好きだった。星が、よく見えるから。
「旦那様。ブライアン子爵未亡人エノーラ様がお見えですが……」
「またか」
「はい」
無視すれば、いずれ彼女の興味も別に移るだろうと思っていたが、予想外にエノーラの執着が強い。新しい恋人とやらと上手くいっていないのだろうか。
いずれにせよ、こうも頻繁に夜半の忍び歩きをされるのは不安だった。貴族の屋敷が立ち並ぶこの辺りは治安は良いが、それでも何かの事件が起こらない保証はない。巻き込まれてからでは遅いのだ。
「わかった。明日、日中に私の方から向かうと伝えてくれ。これ以上、深夜徘徊はやめるように、と」
「かしこまりました」
エノーラの心を射止めたはずの男は、何をしているのだろう。なぜ彼女を諌めないのか。腹立たしさすら感じる。
「カイル! カイル! 入れて!」
突然、大きな声と物音がした。
何事かと急いで窓を開けると、壁面より張り出したテラスの向こうに、エノーラがいる。庭からテラスに上がるための階段を取り払ってあるので、それ以上進めず、立ち往生してしまったようだ。
「……お願い。入れて。ドレスもこんなになっちゃったし」
摘まみ上げたドレスの裾は破け、泥で汚れていた。
「庭に入るのに柵を乗り越えたら破けちゃって」
「……」
はねっ返り娘だとは思っていたが、まさかここまでとは。
「信じがたいことをしてくれますね……」
テラス囲いの柵の扉を開けると、彼女の腕を掴み、引っ張り上げた。
「カイル、お願いよ。この格好で帰れなんて言わないでね。私が乗ってきた馬車はもう帰してしまったし。こんな夜更けに一人で戻るなんて怖いわ」
「私が馬車で送りますよ。着替えもあります。先マードック伯夫人の残した衣裳ですが。そのまま差し上げます」
「カイル!」
「……わかっています。今夜は泊って行きなさい。すぐに部屋を用意します」
「貴方の部屋に連れて行って」
「それはお断りします」
「私は話をしたいだけよ。それすらも応じてくれないの?」
「話ならこの書斎で十分できます。傷の手当てが終わったら、存分に聞きますよ」
「傷?」
べったりと血の付着したスカートを指すと、エノーラの顔が見る間に青褪めた。どうやら、指摘されるまで自分の怪我に気付かなかったらしい。
「柵に引っ掛けたようですね」
「痛いわ。……ずきずきする」
「薬箱を持ってくるので少しお待ちください」
「あちこち汚れて気持ち悪いわ。お風呂も用意して」
「……」
この罪のない我が儘を、可愛いと思った時期もあった。
だが、今は、人の家に忍び込んだ挙句に何を言っているのかと、白けた感情しか湧いてこなかった。
「いま何時だと思っているのですか。使用人は皆寝ています。湯は用意しますので、足を拭くくらいで我慢しなさい」
「起こせばいいのに……」
「非常事態ならともかく、貴女の我儘に彼らを付き合わせる気はありません」
「もしかして、怒ってる?」
「いえ。呆れているだけです」
エノーラを椅子に座らせ、待たせている間に、辛うじて起きていた召使いに湯を用意させた。私自身は薬箱と着替えを取りに行った。
廊下で、まだ就寝前だった伯父に鉢合わせた。
間の悪さに頭が痛くなる。伯父は私の顔を見るなり「女を叩き出せ!」と怒鳴った。
無理もない反応だ。侯爵令嬢と婚約した身で、深夜、自宅に昔の女を引き入れているのだから。
これが社交界にでも広まれば、間違いなく破談だ。マードック伯は女にだらしないと、さぞや面白おかしく囃し立てられることだろう。
「あの女は何だ? 少し前から何度もお前の元に押しかけているようだが」
「以前付き合っていた女性です」
私は答えた。しらを切ったところで、少し調べればわかることだった。
まぁお前も男だからな、と、伯父は妙なところで感心していた。感心はしても納得はしていないらしく、相変わらず、出てくる台詞は「構わんから叩き出せ!」の一点張りであったが。
「怪我をしています。まずはその手当が先です」
「死ぬような怪我なのか?」
「そんな大怪我なら、真っ先に救護院に駆け込んでいますよ」
「なら……」
「伯父上」
私は伯父の言葉を遮った。
「どんな理由があるにせよ、今の彼女は怪我人です。放置しておくことは出来ませんので、私はもう行きますよ」
「これはヘザー嬢に対する裏切り行為だぞ!」
「私は恥ずべき行いは何もしていません。エノーラの怪我は誰も予測の出来ないことでしたし、そもそも彼女との縁は半年以上も前に切れています。……ヘザーと知り合う以前の話です。それについてとやかく言われる筋合いはありません」
「そんな言い訳が……」
「通用するしないではなく、それが事実です」
伯父が更に興奮して騒ぎ立てることを覚悟していたが、彼は急に肩を落とした。お前らしいな、と呟いた顔から、怒りの色は既に消えていた。
「ヘザー嬢がそれをわかってくれると良いがな」
「正直、私はあまり心配していません。この程度で壊れる仲なら、話が進む前に終わって良かったと思うだけです」
「お前は淡白すぎる」
「性分ですので」
ふん、と伯父は鼻を鳴らした。
「お前のその冷静すぎる性分だけはわしには理解できん」
マードックは直情的なたちの人間が多い。伯父も母もそうだ。伯父の亡くなった子供たち、従弟妹のクリストファーやソフィアも、一見物静かな容貌とは裏腹に、こうと決めたら突っ走る危険な性質が確かにあった。
私がマードック側から引き継いだのは、顔立ちだけだ。性格は誰にも似ていない。性格は……これは想像するしかないが……父方の血が濃く出たのだろう。
数学博士だという、実父。
どんな人物だったのか……今になって興味が湧いてくるとは皮肉な話だ。
「ご心配なく、伯父上。ヘザーにも、マードックの家名にも、泥を塗るような真似は、私は決してしませんので」
エノーラを待機させている書斎に戻ると、彼女はすっかり膨れっ面になっていた。
「遅いじゃないの」
「文句を言えた義理ですか」
「だって……」
「手当てしますので足を見せて下さい」
スカートを捲り上げると、擦りむいた膝小僧が現れた。ふくらはぎに鉄の柵に引っ掛けたらしい痕があり、こちらの出血が多かった。
まずは足を洗って清潔にし、薬を塗った。包帯を巻いている間、彼女は上機嫌だった。
「ねぇ、カイル。貴方、私の足をそんなに触って何も感じないの?」
「感じませんよ。大した怪我ではなくて良かったと思うだけです」
「こっ……この朴念仁!」
「そう思うなら、もう放っておいて下さい。何度も訪ねてきたり、挙句の果てに庭に忍び込んだり、やることなすこと滅茶苦茶ですよ。一体どうしたのですか」
「私、もう一度、貴方と……」
その先は聞かずとも見当が付いた。私はなるべく事務的に響く声音を作り、摺り寄るような気配を滲ませる彼女に、はっきりと拒絶の意思を提示した。
「復縁はあり得ません。貴女の手紙にも訪問にも、私はこれまで一切応じなかった。それが私の答えです」
「もしかして、私が辺境伯夫人の地位欲しさに近付いたと思っている?」
「違うのですか」
「違うわよ!」
「そうですか」
「そうですかって……」
「貴女が、地位や財産に色目を使う女性でないのは知っています。貴女が違うと言うのなら、違うのでしょう。それについては疑いません」
「じゃあどうして!? あ、もしかして、私が半年前に言ったことを気にしている? 他に男がいるなんて嘘よ。いないわよ、そんなの。貴方があんまり公爵様、公爵様言うから、腹が立って、つい……」
我儘の次は嘘か。私は溜息を吐くしかなかった。
「半年は、一通り頭が冷えて、気持ちを切り替えるには、十分な長さなのですよ」
良くも悪くも私の性格を知っているエノーラなら、とうに気付いてもいいはずなのに。
私が彼女を拒む理由など一つしかない。
「他に好きな女性がいます」
「……嘘」
「嘘ではありません。はっきり言わないと、貴女にはどうやら伝わらないようなので」
「だって、政略婚でしょう!?」
「私は政略婚はしません。それをしなければならないしがらみが、私にはありませんので。私がディオフランシス令嬢を望んだのは、単純に彼女が好きだからです。他に理由などない」
椅子に掛けたまま、エノーラは俯いて拳を握り固めている。書斎には寝台が無いので、客間に運ぶと言うと、噛み付かんばかりの勢いで「結構よ!」と喚かれた。
「この部屋には長椅子もありませんよ。床で寝る気ですか」
「そうするわ」
「怪我の上に風邪をひくのが落ちです。貴女はちゃんとベッドに入って休みなさい。マードックの屋敷にいる以上、主の意見には従ってもらいます」
「私に命令する気!?」
「必要とあらば」
エノーラを抱き上げ、客間へと運んだ。せっかく巻いた包帯が解けてしまうのではないかという暴れっぷりで、手を焼いたが、いい加減にしろと一言怒鳴ると、その後は借りてきた猫のように大人しくなった。
「今の貴女は、一度手放した玩具が惜しくなって取り戻そうとしている子供と同じです。私が半年の間に頭を冷やしたように、貴女も少し時間をかけて自分を見つめ直してみるといい」
エノーラからの返事は無かった。
客間の扉を閉めるとき、背後から押し殺した泣き声が聞こえてきたが、私は振り返らなかった。




