16 不明の血(ヘザー視点)
フェルディナンドは男系継承の国である。
王位も、爵位も、当たり前のように綿々と男子が引き継いできた。ここから派生した習わしか否か定かではないが、だから我が国は古来より父方の血を重視する傾向が非常に強い。
マードック伯が「両親の名誉に関わることだから本当は言いたくない」と前置きしつつも私に全てを明かしてくれたのは、このためだ。高位貴族令嬢である私が、彼の中に流れる片側の不明の血に嫌悪感を抱くのではないかと……そう危惧したのだろう。
実際には、私が咄嗟に思い浮かべたのは、全く別のことだったのだけれども。
そんな不利を跳ね除けて辺境伯にと望まれたのであれば、それこそが、何にも勝る名誉ではないか……、と。
(父親がはっきりしている弟ではなく、貴方が選ばれた。凄い事じゃないの)
(……斬新な考え方ですね)
(貴方が辺境伯になるにあたり、先マードック伯、メルトレファス公爵様、王太子殿下が推したと聞いているわ。三十年も前の黴の生えたような過去より、現在のその凄まじく強力な後ろ盾の方を誇るべきよ)
(……)
(ついでに私のことも誇って頂戴。私はディオフランシスの一の令嬢。降嫁した王女の孫娘よ。……ちょっと行き遅れたけど。貴方の父方の血筋なんて、私をもらえば帳消しよ。むしろお釣りがくるわ)
(貴女って人は……)
(わかっているわよ。生意気って言いたいんでしょ)
(いえ。貴女は、やはり、私には勿体ないほどの姫君ですよ)
「まぁ、お嬢様。この痕って」
屋敷に戻り、外出着から部屋着に着替えていると、サヴァナが目を輝かせながらにじり寄ってきた。
つ、と胸の窪み、ほとんど谷間の辺りを指す。何だろうと下を向けば、虫刺されのような鬱血痕が一つ見えた。ちょうど薄いソバカスのある辺りだった。
私は首を捻った。こんな変な場所を虫に食われた覚えはない。そもそも外出着の下に完全に隠れる部分だ。
「嫌ですわ、ヘザー様。本当に身に覚えがありませんの?」
「身に覚えって……」
「うふふ。殿方が下さる愛の印じゃありませんの。所有の証と言ってもいいかしら」
「は……い?」
「ヘザー様、色が白いからいっそう映えますねぇ。これは付ける方も楽しかったと思いますわ」
いや待て。マードック伯とは、そのぅ……キスしただけだ。初心者にいきなりそれか、あんたは加減ってものを知らないのか、と、突っ込みどころ満載な濃厚すぎるキスだったことは否定しないが、それ以上の行為を許した覚えはない。
でも、そういえば、一度だけその唇がどさくさに紛れて下へと滑り落ちていったことがあったような……。
何しろ私は酸欠のせいか興奮のためか意識がかなり朦朧として、彼のやっていることにいちいち神経を尖らせている暇なぞ全く無かったわけである。……って、その一瞬に付けたのか。
なんて奴なんて奴なんて奴……!
「ま、また負けた気が……っ!」
「良いじゃありませんの、ヘザー様。途中経過のささやかな勝利なんて、殿方に気前よく譲っておやりなさいまし。女は最後に笑えばそれで良いのです」
部屋着は、持っている服の中で一番襟の詰まったものを身に付けた。
そんなに必死に隠さなくても見えませんよとサヴァナは言ったが、もはや気になって気になって、首回りの開いた物なんて選べるはずもなかった。
「それで、マードック伯とのご婚約の話は、結局どうなりましたの?」
「それが……」
あ。駄目だ。顔がにやけてしまう。
「婚姻届、改めて出し直しませんかって」
「は? 何でまた」
「あれって、私の方は兄上が勝手に書いたものだし、彼の方も先マードック伯が彼に無断で出したんだって」
「はぁ!? じゃあ何ですか、両家とも代筆ですか。凄い話ですわね、それ」
「だから、改めて、自分たちで書いて出したいって言ってくれて」
「まぁ~」
サヴァナがひらひらと手を振って、自分の顔を煽ぐ真似をした。
「もういいですわ。さすがの私もあてられそうです。茹だってしまう前に、この侍女めはそろそろ退散いたしますわ」
「何よ、聞いてきたのはそっちでしょ! 最後まで責任もって聞きなさいよ!」
「クラリッサ様にお話し下さいまし。それはもうしつこいくらいに根ほり葉ほり聞いて下さいますよ。そういうの大好きな方ですから」
「あの子は喜びすぎよ……」
「夢見がちなお年頃ですから、大目に見てやって下さいまし」
噂をすれば影、とはよく言ったもので、その時、いつもの甲高い「お姉さま!」の声を響かせながら、クラリッサが部屋の中に飛び込んできた。
毎度のこととはいえ、この妹には、他人の私室に入る時にはノックをする、という基本的な一般常識が無いのだろうか。それとも何か、彼女の中ではここは既に他人の部屋ではないのか。
……後者の気がしてならない。
「お姉さま!」
戸口に佇んでいたクラリッサだが、見慣れた綿菓子の微笑は浮かべていなかった。
それどころか、菫色の双眸には、今にも転がり落ちそうな量の涙の玉が盛り上がっており……。
思わずギョッとして固まった私とサヴァナの真ん前で、妹は、おいおいと凄まじい勢いで泣き出したのだった。
「私、私、アルムグレーン公に嫁がされるかもしれませんっ!」
あまりの青天の霹靂な出来事に、私もサヴァナも、ただ茫然として立ち尽くすしかなかった。




