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やっと―――。
ノアの胸中を、その言葉だけが占領していた。
脆いようで、案外強い彼女。幼少期のその環境下で、どうして腐らずにこられたのか分からない彼女。いつから、なぜ、なんて分からなかった。だが、彼女をこうして腕に抱きしめて、心が温かいもので満たされていくのだけは、確かだ。
黒髪に手を差し入れ、するりと指を通らせる。するとヘレンがびくり、と小さく跳ねた。それすらも可愛いと思った。女性に対して、全く触れたくないほどの嫌悪感などはない。だが、家柄のこと、そしてジェシカの一件があってからというもの、忌避しがちだったことは否めない。彼女の一件以降、愛し愛される家庭を築ける自信はノアには全くなかった。
もしヘレンが現れなければ、母エルザの選ぶままに婚姻を交わしていたかもしれない。そう考えると、エルザの見る目は間違っていないのだろう。…今回の一件に関しては物申したいことが多々あるが。
「の、ノァ、様っ…」
「ん」
耳元から何度も手を差し入れ、その髪の指通りを楽しむ。こめかみに触れるだけの口づけを落とせば、ヘレンは面白いくらいに固まった。きっと、彼女は何度こうしても慣れることはないのだろうと思うと、不思議と楽しくなった。
「きゃっ!?」
ノアは膝をついた状態で抱き着いてきたヘレンを抱き上げると、周りを見渡した。そして素晴らしく丁度いいところにあったベンチにヘレンを膝に乗せたまま腰かける。
「ノア様っ、重いから降ろしてください…!!」
「そこまで重くない。いいから」
「っ…!」
羽のように軽い、とは言いたくない。羽は捕まえていないとどこかに飛んで行ってしまうそうだから。ヘレンは羞恥心から顔を真っ赤にさせている。月明かりでも分かるくらいのそれに、ノアの心にもっと、と思わせる。
「!」
ヘレンの腰を強く抱き寄せる。ヘレンの体温が、心地いい。ヘレンはどうしていいのか分からないようで、両手を膝の上に置いてぎゅ、と拳を握っている。その手の上にノアは片手を置いた。
固く握られたそれを、ゆっくりと緩めさせる。そして緩んだそれに、自分の手を絡めた。
酷く小さく感じるその手だが、剣術を学んでいたというのは嘘ではないのだろう。節々に硬さを感じた。それに掌をすり合わせれば、ヘレンの表情が少しだけ曇った。
「どうした?」
「……淑女らしい手ではなくて…」
「あぁ…」
確かに、淑女らしくはないのかもしれない。彼女たちが主に持つのはティーカップや扇、宝石などだ。周りにはたくさんの使用人がおり、手入れもされた手はきっと柔いのだろう。だが、そういった手より、好ましく感じている。
「私は、君の手のほうが好きだ」
「っ!」
すり、と顔をヘレンの髪に擦りつけながらノアは話す。
「君が頑張ってきた証拠だろう。その手を気に入らないわけがない」
「の、ノア様……」
うるり、とヘレンの瞳が潤む。月明かりに反射したそれは、宝石のように輝いて、それでいて甘そうだった。
しかしヘレンの表情は一転して、少しだけ頬を膨らませた。どうしたのだと問えば。
「…わたし、ばかり、恥ずかしい気が、します…」
「そうか?」
ノアは絡めていたヘレンの手を取ると、自分の胸に押し当てた。
「ノア様?」
不思議そうにノアを見上げるヘレンに、ノアは気づかないか、と考え言葉にした。
「私の鼓動がわかるか?」
「? ……っ」
言われて集中したのだろう。そして、ノアの心臓が早く脈打っていることに気づいたヘレンが、熱くなる。
「好きな女性にこうして触れていて、緊張しない男はいないと思うが」
「で、でも、とても、余裕そうにっ…」
「私も大人の男だからな。少しくらい矜持がある」
余裕そうに見えて、実は全くそうではないのだと理解したヘレンが、ノアの胸に掌を当てた。それがどれほど自分の劣情を煽るのか、彼女にはとくと教え込んでいかないとならないな、とノアは必死に別のことを考える。
しかしヘレンはそんなノアのことには全くのお構いなしで。
「―――いっしょ、なんですね…」
「―――」
すり、と自分の耳をノアの胸に当て、その音を聞く。
あぁ、もう。
「ヘレン」
「はい…? っ!!」
ノアがヘレンを呼ぶと、彼女は顔を上げてノアを見た。そして自分の欲に濡れた瞳を見て、息を呑んだ。
「君が悪い」
「えっ…んっ…!!」
ノアは理性が切れかけた状態でヘレンに口づけを落とした。合わせるだけの稚児のようなそれだが、不思議と満たされる。そして、もっと、とも思ってしまう。
「ん、の、ぁ…ひゃ…!」
自分の名を呼ぶその唇に舌を差し入れ、驚いて奥で縮こまる彼女のそれに絡める。逃げようとする彼女の腰を強く抱き寄せ、逃げられないようにした。
大の男がみっともないとも思わなくもない。だが、それ以上にヘレンが可愛いことをするのがいけないと責任転嫁した。
「~~~っ!!」
うまく息ができないヘレンは、すぐさま息を上げる。顔を真っ赤にし、瞳からは今にも涙が零れそうだ。きっと舐めたら甘いのだろう。
ノアは欲望の赴くままにヘレンの首筋に口づけを落とし続ける。
「ゃっ、の、のあさまっ…!」
そうしてヘレンの鎖骨まで口づけを落とすと、ノアは流石にこれ以上は、とようやく気付き、欲を吐き出さんばかりに深く…深く息を吐きだした。
「……すまない。暴走した」
「ぼう、そう?」
「あぁ。ヘレンがあまりにも可愛いことをするから」
「そ、そんなことしていませんっ…!」
「はは、無自覚か?」
軽く笑いを零すことで、ようやく少しだけ落ち着いた自分を内心で褒め、ヘレンを強く抱き寄せていた腕を緩めた。
「そろそろ戻ろうか」
「はぃ……」
顔を赤くしたままのヘレンの肩を抱き、ノアが屋敷に戻ると。
「ヴィノーチェ様……」
「!?」
ぼおっとランプを持ったロドリゲスがいきなり姿を現した。あまりの登場の仕方に、ノアの息は一瞬止まる。ヘレンは声も出なかったのだろう。ノアに縋りつくように抱き着いた。
「仲がよろしいことは非常に喜ばしいのですが……節度あるお付き合いを……」
「っあ、あぁ…」
彼がいつから見ていたのかは知らないが、ヘレンに手を出しそうになったところは確実に見られていたのだろう。ノアが何度も頷くと、満足そうにノアを見ながら一度頷き、その場を後にした。
「……お、どろきました…」
「そうだな……彼は、君をとても大切に思っているようだ」
だからこその釘差しなのだろう。ノアの言葉に、ヘレンは嬉しそうに小さく微笑んだ。その表情を見たノアは、これでは相当我慢しないとならないな、と一人思った。
*******
事件はその数日後の夜に起こった。
「探せ――!!」
「逃がすな!!」
野太い男たちの声が夜陰に響く。彼らは、ミーシャが探したクリストファー移送の際の人手だった。
「何があった、状況知らせ!」
「はっ! クリストファーがどうやら逃亡したようです」
「なに? 薬で眠らせていたはずだが?」
「どうやら飲ませるのに失敗していたようです。見張りの交代の際の隙をつかれました」
「とりあえずノア様方に報告してから私も捜索に出る」
「わかりました。我々は先に探しています」
「頼んだ」
ミーシャは走り出しながらこれからのことを考え始める。そしてクリストファーが潜伏しそうな場所を考える。
「ノア様、緊急事態です」
「なんだ」
「クリストファーが逃亡しました」
「なんだと? 詳しく話せ」
クリストファーは意識を失った後、一時馬車に転がされていた。しかしずっとそのまま、というわけにもいかずにマイヤー家にある納屋に移動させたのだ。もちろん逃げ出せないように睡眠薬を飲ませて。食事などの時は軽度のものを混ぜ、逃げ出せないようにも縛っていた。
しかし彼もある程度の修羅場を潜っていたらしく、薬を飲まずにいたらしい。そして様子を見て、ミーシャが雇った者たちの交代する瞬間に逃げ出したようだった。
「捜索は?」
「すでに。私もこの後向かいます」
「頼む。ゼニアにはこの屋敷を警護してもらうが、構わないな?」
「はい。彼がヘレン嬢たちに逆恨みを持っていないとは言い切れませんので」
「なにかあればすぐに言え」
「はっ!」
ノアの返事を聞き、ミーシャはすぐさま走り出した。本来は走ってはならないが、緊急事態の為仕方ないだろう。
「ゼニア」
「ミーシャ様?」
ゼニアはヘレンの部屋にいた。中を素早く確認すれば、母であるジャクリーヌと妹であるカレンもいるようだった。ミーシャは慌てていることなんて微塵も感じさせないような笑みを浮かべながらゼニアを呼んだ。
「少しいい?」
「はい」
そうして扉の外まで連れ出すと、今までの経緯をさらっと話す。事細かに話さずとも理解してくれるのがゼニアの強みの一つにある。
「つまり、自分はここでマイヤー家の皆様をお守りすればよろしいのですね?」
「一人で多少きついかもしれないが、最悪ノア様にも剣を取ってもらえ。私はすぐに出る」
「かしこまりました。お気をつけて」
ミーシャはゼニアのその言葉には返事をせず、ただ自信ありげに笑みを浮かべた。
速足で去るミーシャの背を見送ったゼニアは、何事もなかったかのように部屋へと戻った。
「何かありましたか?」
「特には。ただ、これから外出するとのことで気を付けるように言われました」
「そうですか」
ヘレンの不安そうな表情はゼニアの言葉を聞くと晴れる。それだけ自分を信頼してくれているのだと言葉にせずともわかるそれに、ゼニアは笑みを深めた。
「それでそれで、お姉さまっ、ノア様のどういったところを好いているの?」
「だからそれは…」
「カレン、あまり深く聞きすぎては駄目よ?」
「もうっ……それなら私の話を聞いてくださる…?」
「もちろんよ」
母娘たちは、かつて取れなかった時間を取り戻すかのように話をしていた。といっても、ヘレンはほとんど聞き役だが。
腹に子がいるカレンは、これからのことが不安で仕方ないようで、これからどうすればいいのか、アレックスとどう関係を築けばいいのかの不安を零している。ジャクリーヌもヘレンも大した助言はしていないが、話すだけでも少しは楽になっているようで、カレンの顔色は来た時よりも明るくなっていた。
「……私たち、もっとたくさんお話をすれば、よかったのかもね」
「……そうかもしれないわね」
ぽつりとカレンの零した一言に、ジャクリーヌがしんみりと返す。ヘレンは何も言わなかった。
その光景を見ていたゼニアには、上辺だけでもこうして話せるようになったことが、いいことかどうかは分からない。それはそれぞれにしか分からないことだから。
自分にできるのは、この家にいる者を護ることだけ。
ゼニアは気合を入れるかのように、一人ひっそりと深呼吸をした。




