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「………」
「せ、先生、ヘレンは、ヘレンは…」
「…体に異常は見られません。聞こえても、見えてもいます。ただ、気力が失われてしまっているようです」
「気力、ですか?」
「はっきりとは断定できませんが。ただ、何にも反応を見せない、というわけでもないようです。日常生活…例えば着替えたり、食事をしたり、睡眠を取ったりなどは問題ないと思われます。ただ、無気力な状態で、それ以外のことは何とも」
「な、治るのですか!?」
「わかりません」
「っっ!! な、何とかならないの、先生…!」
ハルトマンは首を横に振った。
「先ほど執事の方からお話を伺いましたが、可能性として"燃え尽き症候群"、というものの可能性が高いと思われます」
「燃え尽き症候群?」
「はい。簡単に言いますと、頑張っていた人が突如目標を失う、あるいは達成することによって起こる可能性のある症状です。聞くに、ヘレンお嬢様は目標を失われたと。それの可能性はあります」
「わ、私のせい…と、仰いたいの…?」
「ジャクリーヌ…」
「わ、私は、ヘレンの為を思って、言っただけなのに…!」
「ジャクリーヌ」
「ヘレン、ヘレン!! 起きて、いつもの貴女に戻って!! 好きなように過ごしていいから!!」
「ジャクリーヌ!!」
ジャクリーヌはわっと顔を覆って泣き出した。
本当に、傷つけるつもりなんて欠片もなかったのだろう。ただ、娘個人への配慮が足りなさ過ぎた。
「……先生、これからどうすれば…」
「正直、こういった事象に特効薬というものはありません。ただ、時間をかけてゆっくり癒すしか、今の技術はないです」
「…そんな…」
部屋の中はまるで葬式のように重苦しかった。それを打ち切るように、ハルトマンが声を上げる。
「とりあえず、環境を変えることも一つです」
「…環境を?」
「はい。時間がゆっくりと流れているような田舎で療養するのも一つです。とりあえず、今は互いに考える時間というものが必要です。お嬢様にも…伯爵様方も」
「……本当に、そうしたほうがいいのだろうか…、家で休ませるのは…」
「問題がないとは言い切れません。ですが、そうすると今度は伯爵様方がお嬢様に気を遣いすぎて倒れますよ」
「っそれでも、私たちはヘレンを放っておきすぎたのだから…!」
「ですから、そういったものもお嬢様にとっては重圧に感じるかもしれない、と言っているのです」
「っ」
ハルトマンは厳しい表情を浮かべ、伯爵夫妻を見た。
「正直、私には皆様の話のほとんどが理解できておりません。ですが、今のあなた方は罪滅ぼしをしようとしているように見受けられる。それで、お嬢様が元に戻ればいいと。ですが、お嬢様がそれを望んでいなかったとしたら? ただただ、疲れた心を癒したくて閉じこもっているとしたら? 伯爵様方のなさることは、ただの押し付けになります」
「っ、そんなこと」
「ないと、言い切れますか?」
「っ…」
ドナルドが何かを言おうとしたが、結局何も発せられることはなかった。
「ですが、あくまでも医者としての見立てですので。最終的にどうなさるのかは伯爵様の采配一つです。それと、大丈夫だとは思いますが、念のため睡眠導入剤を処方していきます。もしお嬢様が眠られていないようであれば、飲ませてあげてください。用法用量は必ず守ってくださいね」
「…わかった」
ドナルドとジャクリーヌは項垂れたまま頷いた。
「最後に、時間をかけるしかないとお伝えしましたが、一生治らない可能性もあります」
「「!!」」
「そんなっ…」
誰もが、目を見開いた。マリは、あまりのことに口元を押さえ、マリリンの肩に顔を埋めるほどだ。
「あとは、お嬢様次第です」
ハルトマンはそれだけ言うと、これにて失礼とあっさりとその場を後にした。残された面々は、沈痛な面持ちだ。伯爵夫妻にいたっては、動く気力もないらしい。
そんな中、マリは涙を堪えながらヘレンに声をかけた。
「……お嬢様、お着替えしましょう、今日も、いい天気ですから」
すると、ヘレンはゆっくりとだがマリにその視線を合わせる。
「っ、お嬢様っ」
マリは一瞬戻ったのかと期待するが、すぐにその視線は外され、ヘレンはのろのろとベッドからはい出る。緩慢な動きは、今までのヘレンでは考えられないほどのゆっくりとした動きだった。
侍医の言うことは本当らしく、ヘレンはそのままゆっくりとドレッサーへと足を進める。
「……旦那様、奥様、朝食にしましょう。このままこちらにいらしても、何の解決にもなりません」
「…」
ロドリゲスは夫妻にそう声をかける。二人はヘレンとは違った理由で、のろのろと腰をあげた。
「マリリン、すまないがカレンお嬢様にも事情をお伝えしてほしい。マリ、ヘレンお嬢様を頼む。何かあればすぐに教えてくれ」
「わかりました」
「はい」
そうして、マイヤー家の朝は過ぎていった。
***
「どうして、お姉さま…」
事情を聴いたカレンは、呆然としながら姉を見た。双子の姉。たった一人の、自分の半身。
「もっとうまくやればよかったのに…」
カレンは常日頃からそう思っていた。どうして、そこまで頑張るのだろう、と。確かに、姉はマイヤー家の跡継ぎとして常に勉強をしていた。それこそ、休む暇がないくらいに。
カレンは、いずれどこかの家に嫁ぐ身だったから、姉よりかは自由な時間が多かったのも知っている。だけれど、なおさら思うのだ。
どうして姉は、自分を追い込むように生きているのだろう、と。
小さいころはいつも一緒で、何を考えているのかわかっていた。しかし五歳のあの日を機に、カレンは姉が何を考えているのかわからなくなってしまった。
素直に、自分の姉は凄いと思う。
カレンなら、絶対に頑張れない。
だからこそ、思ってしまう。
「ねぇ、お姉さま、一生懸命すぎて疲れなかったの? 真面目にしていて、嫌にならなかったの?」
カレンは二人きりにしてもらった部屋で、姉に問いかける。ヘレンは窓際のテーブルに座り、ぼんやりと視線を虚ろわせている。
今まででは考えられないその姿に、カレンは訥々と問いかける。
「もっと力を抜けばよかったのに…お姉さまは当主になりたかったの?」
カレンはどちらかといえば要領がいいほうだった。やるときはやるが、手を抜けるところは抜く。簡単にいえばバランスがいいのだ。
だから、どうして姉がいつも全力なのか理解が出来なかった。
「難しい本ばかりじゃなくて、恋愛ものとか読んでみればよかったのに」
馬鹿な姉だと、カレンは思う。自分のように要領よくやればいいのに。両親の期待に馬鹿真面目に答えようとなんか、しなくてもよかったのに。
そうすれば、もっと自分と一緒にいる時間も取れたというのに。
「……とりあえず、ゆっくり休んでね、お姉さま。もう頑張る必要はないのだから」
心からそう思う。ゆっくりすればいいのだと。生き急ぐ必要はもうないのだから。
カレンが去った後、ヘレンの瞳から涙が零れたことに気づいた人は、いなかった。
「お嬢様、今日はとてもいい天気です。少しお散歩しましょう」
マリは、ヘレンに付きっきりになった。食事も、湯あみも、着替えも、何もかも。
唯一よかったことは、ヘレンが全く何もできないというわけではないということくらいだろうか。少なくとも生理的欲求は自発的に行ってくれるのはよかったとマリは思う。
マリはヘレンの腕をとって庭に出る。春先で、日の光が暖かく感じられる。
不意に、ヘレンの視線が動く。どうやら蝶を追いかけているようだった。
「…綺麗ですね、お嬢様」
マリの言葉に、返答はない。それでも、ヘレンが何かに興味を示してくれることが、マリには嬉しかった。
思い出せば、ヘレン付きになって五年ほど。こうやって主とゆっくりすることなんて一度もなかった。ヘレンはいつだって伯爵様方の期待に応えようと勉強をしていた。
八歳のころから知っているが、正直に言ってあそこまで自分を律することのできるヘレンに、初めのころ苦手意識を持っていた。自分が八歳だったとき、絶対にヘレンのようにはできないとわかっていたから。
しかしそれは違った。
ヘレンは、純粋だったのだ。
両親から言われた言葉を、ただ忠実に守っていた。私的な時間は全て両親の期待のために使った。
問題が解けず、夜遅くまで机に噛り付いて一人で泣いていたことを知ったとき、マリは全身がしびれたような衝撃を受けた。
ヘレンは、涙を見せない。それが淑女として必須だと教えられているから。そしてそれを言葉通り守っているのだ。考えなくとも、十にも満たない彼女が、辛くて泣かないわけがない。なのに、それを誰にも見せずに、ただ孤独に頑張っている。そう知って、マリは心の底からヘレンを尊敬し、崇拝にも似た思いを抱いた。
「あぁ、お嬢様、見てください、綺麗なお花です」
マリがそう声をかけると、ヘレンはゆったりとしながらも花に視線を向ける。表情は浮かんでおらず、瞳もぼんやりとしている。
それでも。
「ゆっくりお休みくださいませ、私のお嬢様」
***
「どうして、そんなことに……」
エリザベスは、呼んだ手紙をはらりと落とし、呆然と呟いた。手紙の内容は、ヘレンのことだ。
「どうかされたのですか、夫人」
「あぁ……イーライ…私の、私の可愛い孫娘が……」
ふらりと力なく揺れたエリザベスを、イーライと呼ばれた青年がすぐさま支えた。
「孫娘とは…ヘレン嬢のことですか?」
「…えぇ…」
エリザベスは眉間にしわを寄せながら目を瞑る。
アンドレアスが生まれたことを聞きつけたエリザベスは、家族のことが心配になり屋敷へと向かおうとした。しかし性質の悪い風邪に罹患し、長いことベッドの上の住人になっていたのだ。年も災いし、完治までに時間がかかってしまった。
手紙で幾度が近況を尋ねたが、息子であるドナルドの返事は問題ないばかり。それを信じなければよかったと心底後悔する。
「ヘレンが、病気になってしまったわ…」
「病気? 医師では治療できないのですか?」
「よくわからないけれど、燃え尽き症候群、というものになってしまったと…。治るか治らないかもわからない…あぁ、ヘレン! なんてこと…!」
「夫人、しっかりしてください」
手で顔を覆いながら悲嘆にくれると、イーライはその手を取り、エリザベスの瞳を覗き込んだ。
「夫人、ヘレン嬢をこちらに招きましょう」
「…イーライ?」
イーライの真剣な声音に、エリザベスも縋るような気持ちで彼を見る。
「今のままではヘレン嬢の為になりません。一回双方を離さなければ、ヘレン嬢はそのままでいる可能性が高いです」
「っ…わかったわ、ベンを呼んで頂戴」
イーライの力強い言葉に、エリザベスは立ち上がった。
救うのだ。
あの、憐れな孫娘を。




