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「―――おばあ、さま………、に、ノア、様……?」
いきなり現れた人物に、その場にいた誰もが全てを停止させた。
「お嬢様! ハルトマン医師をお呼びしました!」
それと同時にロドリゲスがハルトマンを引きずるようにしてゼニアに近づく。ハルトマンは相当急かされたのだろう。服装や髪形が乱れているも、ゼニアを見るなりすぐさま触診に入る。
「ゼニア! 大丈夫かい?」
「ミーシャ、様…はい、何とか…」
ミーシャがかつかつとイライアスに近づきながらゼニアに問う。
「女性にそのような振る舞いは好ましくありませんよ? 放せ」
そしてヘレンの両腕を掴んでいるイライアスの手を無理矢理引きはがす。
「ミーシャさん…!」
「ヘレン嬢、遅くなってしまって申し訳ない…怪我はないかい?」
「はいっ……」
「……ミーシャ、それは出来れば私に譲ってほしかったんだが……」
「ノア様が遅いのが悪いんでしょう?」
ノアはエリザベスを支えたまま、情けない言葉を吐く。そんなノアに対して、ミーシャはにこりと微笑みながらヘレンの肩に手を置いた。
「ど……どうして母上が…」
そうしてようやく、ドナルドが急な来客に驚いて声をあげた。
「…ドナルド、どうなっているの。こちらの方がお話ししてくださらなかったら、何も知らないままでいさせるつもりだったの」
エリザベスは厳しい声でドナルドを責める。
「そっ……そういうわけでは……!」
「貴方、ヘレンが家を出たことも私に知らせなかったわね…? なにを、しているの……!!」
体調を崩していたとは思えないほどの剣幕に、ドナルドは身を縮こまらせる。
「夫人……体調を崩していたんでは…?」
「イライアス…! 貴方こそ何をしているの…!? タチアナから貴方の様子がおかしいと聞いていたけれど…どうしてこんなことになっているの!?」
「夫人、大丈夫です。私がヘレンを守りますので」
「―――……」
エリザベスはイライアスの様子に言葉を無くした。かつての彼はこんな話の通じない人間ではなかったはずなのに。どうして、こんなことに。
「お初にお目にかかる、マイヤー伯爵。私はカロリアンのヴィノーチェ公爵家が長男、ノアと申します」
その場が硬直している時に、ノアがそう名乗り出た。柔和な笑みを浮かべる彼の存在は、この場では酷く浮いているように見えた。
ノアはエリザベスをソファーへとエスコートし、座らせる。よくよく見れば、エリザベスの顔色は悪い。
「……話は、ここにいるノア殿から聞いたわ。……ドナルド、どうして、私に何も言わなかったの」
「………」
後ろめたいことしかないのだろう。ドナルドは何も言わない。エリザベスはイライアスを見た。エリザベスが現れたことによって正気に戻ったのか、イライアスは途方もないような表情をしながらエリザベスを見る。
「……イライアス、貴方には悪いことを頼んだわ…。まさか、ここまで貴方を追い詰めていたなんて」
「そんな…夫人、私はヘレンを守ると決めたんです。ご安心してください。これからはヘレンのことを傷一つ付けないように守ります」
「…いいえ、それには及ばないわ。ヘレンには、自分で自分の幸せを掴める強さがあることを教えてもらったの」
「夫人…?」
「…私からタチアナと、リンデンベルグ伯爵にもお話するわ。イライアス…ずっと貴方を苦しめていたのね…謝る言葉は、貴方を侮辱すると思うから言わないわ…でも、本当にありがとう」
「――――」
エリザベスは全てをまとめ独白するように話し始める。
「こうなったのも、全て、私が伯爵夫人として弱かったのがいけなかったのね…。夫が亡くなって、私はドナルドたちから離れ、一人であの人との思い出がある別荘に暮らした…。でも、たまに訪れる屋敷では、何かがおかしいと感じていたわ…。ドナルド、私はよく言っていたわね、ヘレンも頑張っているのよ、もっと褒めてあげなさい、と…」
エリザベスは懐かしむように目を細めながら話す。その皺の寄った目尻には涙が浮かんでいた。
「あの時……、もっと厳しく言っていれば…。いいえ、あの時、こちらに移り住むことをしていれば、ヘレンがあんなことになることもなかったのね…」
誰もが、エリザベスの独白を聞いていた。
「ヘレンが戻った後も、私はヘレンなら大丈夫と勝手に思って…ドナルドたちであれば…ヘレンであれば大丈夫って勝手に思って…っ……。こんな私だから、ダン達は私に何も知らせてくれなかったのね…本当に、駄目な親だわ………。ヘレンのことも、イライアスに任せてばかりで…結局、私は、私のことしか考えていなかったのねぇ…」
「おばあ、さま……」
「…ヘレン、本当に、ごめんなさい…子供だった貴女に、苦しい思いばかりさせて…。いつでも助けると言っておきながら、結局何もできなくて」
「そんなっ…! お婆様がいてくれたから、私は…!」
ヘレンの否定の言葉にも、エリザベスは首を横に振った。
「…アンドレアスのことは少しだけ聞いているわ。これからは私がこの屋敷にいます。あの子をちゃんとした後継者にすることが、私に唯一出来る贖罪でしょう」
「お義母さま……」
「母上…」
「ドナルド、ジャクリーヌ。私がいる以上、アンドレアスにも、あなた達にも厳しくします。あなた達には貴族としてやらねばならないこと、守らねばならないものがあるわ。私にも全てができるかは分からないけれど…でも、一緒に悩みながらでもいいから、進みましょう」
それはエリザベスにとって一つの区切りでもあった。過去の夫に縋るのではなく、今を生きている息子夫婦と孫に全てを費やすこと。それが、今のエリザベスにとって出来ることだ。
しかしそんな中、イライアスは叫ぶようにエリザベスに詰め寄った。
「夫人!! わた、私はどうなるというんですか!? ヘレンは、ヘレンは私が守らなければ……!」
「イーライ…もう、お互いに過去に縋るのは止めましょう。故人は、喜ばないわ。…ヘレンを身代わりにして、フィオナは喜ぶの?」
「でも……!」
「大丈夫よ、イーライ。私も貴方も間違えてしまった。でも、まだ、やり直せる。サイラスからも連絡は来ているの。御父君から貴方を伯爵にすることは出来ないかもしれないと言われていると聞いたわ…でも、サイラスは貴方に支えてほしいそうよ」
「サイラスが……」
茫然としているイライアスに、エリザベスは微笑みを浮かべた。
「イーライ、私も貴方も、ただ少し間違ってしまっただけ…でも、これからを考えて頑張れば、きっと大丈夫なはずよ。だって、サイラスは貴方のことをずっと待っているんだもの」
この時になってようやく、イライアスはサイラスのことを思い出していた。ずっと、自分のことを気にかけてくれた弟。自分がヘレンのことばかりを考えているせいで父に見限られそうになった時も、サイラスだけは絶対に見限ろうとはしなかったことを。
そして、夫人やヘレンに言われたことを何度も復唱してみる。
愛するフィオナ。彼女のことは既に過去のものだと思っていたが、実はそうではなかったということに、ようやく気付いた。だって、今でも彼女のことを鮮明に思い出してしまうのだから。そしてその愛した人を、別の人間で代用しようとしたことに、ようやく気付いた。
そんなことをしてしまえば、誰も救われないというのに。
「……ヘレン、ほんとうに、ほんとうに、もう、大丈夫なのか…? もう、私が傍で、守らなくてもいいのか…?」
かつてひな鳥のように自分の後をついてきたヘレンのことを思い出す。自分がいなければならないと、絶対的にそう思った彼女。庇護欲そそられるその哀れな姿。
しかし今の彼女からは、かつての姿は想像できないほどに、しっかりと立っていた。
イライアスの問いに、ヘレンは微笑みを浮かべる。
「……大丈夫です。私にも、大切な人が出来たので」
「……それはもう…私ではないんだな」
「…はい…。でも、かつての私は、貴方に救われました。―――たくさん心配をかけてしまって、ごめんなさい。そして、ありがとうございました」
自分を好きだったと過去形で語った彼女。もし自分が、もっと早くに過去と向き合っていれば、異なる現在だったのかもしれない。―――すべては、今更でしかないが。
「……そうか……そうか……」
イライアスは泣いた。膝をつき、全てがもう終わってしまったことに。そして、ようやく終わったことに。
―――フィオナ、とイライアスは心の中で語り掛ける。君を死なせてしまった自分だが、もう前を向いてもいいのだろうか、と。ヘレンを少しでも救えたことで、少しは許してくれるだろうか、と。
ずっと、憔悴したフィオナの表情が離れなかった。だから、苦しかった。だが。
――――愛しているわ、イライアス。
「――――――」
そう言って、笑って自分を見たフィオナを思い出す。そうだ、フィオナは、あんな笑みを浮かべる女性だった。明るく、快活で、まるで太陽のような愛した人。
ようやく思い出せたその笑みに、イライアスはフィオナという女性を過去にすることが、ようやくできた。
「母上、ヘレンは…これからヘレンはどうするのですか」
「ドナルド、貴方話を聞いていなかったの?」
「で、ですが…! 母上だけにお任せするには…!」
「ならヘレンにだけに任せればいいと言いたいのかしら?」
「そ、そんなことは…!」
エリザベスは厳しい視線でドナルドを見やる。
イライアスは泣き崩れたのち、ある程度落ち着くと自領に戻ると言って戻って行った。その際に、アレックスのことをエリザベスに話して。
今回イライアスがヘレンの所在を知ったのも、アレックスを見張っていたからだといった。アレックスがどこの家に入り浸り、そして情報を集めているのかも含めて全てを話した後、エリザベスはカレンのことを心配し始める。
「今回の件に関して、アレックス・ファフニール殿に話を聞かなくてはならないわ。それはわかっているわね?」
「……はい」
好青年だと思っていた男が、実はならず者や未亡人と関係を持ち、さらには今回のヘレン誘拐にも関与しているというのはドナルドたちにとって衝撃だった。カレンと彼の恋愛婚を喜んでいたが、今となっては本当に何も考えずに喜んで良かったのだろうかと悩む。
そしてヘレンがどうしてアレックスとカレンの婚姻に難色を示していたのか、今更ながらに理解する。
「ヘレンは、嫁に出します。その申し出を既に受けました」
「ほ、本当に…!?」
エリザベスは頷く。そして、自分を迎えに来た青年の姿を思い浮かべた。
「ノア・ヴィノーチェ殿。彼であれば、ヘレンを任せることが出来るかもしれないわ」




