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「……へ、れん、なのか…?」
ドナルドは目の前の光景を信じられずに、茫然とした面持ちで問う。今目の前にある光景は、自分が生み出した妄想なのだろうか。しかし、それは目の前の娘の言葉によって払拭される。
「……お久しぶりです、お父様」
「――――!!」
その日は、いつもと変わらない朝だった。アンドレアスをどうしようか、ジャクリーヌをどうやって説得しようか、そんなことばかりを考えていた。
ドナルドは心労のせいか、どんどん老けていった。髪は白髪が増え、目は落ち窪んでいた。寝れていないこともあるのだろう。
アンドレアスは自分に優しい母ばかりを慕うようになった。同じように愛しているのだといくら言葉を重ねても、信じようとはしてくれない。ならば同じように甘くすればいいと思う人間もいるかもしれないが、それでは次期マイヤー伯爵として成り立たない。そうしてようやく、ヘレンがどれほどの努力と、自分たちに対しての愛情を持っていたのかを知った。
ヘレンは、長女は。ドナルドもジャクリーヌも甘やかすことなどしなかった。もし一人っ子であれば気づかなかっただろうが、ヘレンには同い年の妹がいた。区別や差別をしたつもりなどなかった。だが、同じように愛しているつもりだったいう言葉は、今となっては言い訳かもしれないと思える。そんなヘレンは、ひたむきに自分たちからの期待に応えようとしてくれていた。それがどれほど稀有なことか。
「旦那様」
「……あぁ、起きている」
妻ジャクリーヌとはアンドレアスとの件で寝室を別にされていた。夫としてもちろん愛している、だが、アンドレアスを守れるのは自分しかいないと言い放って。…まるでドナルドが敵のような言い方だ。
考えなければならないことがたくさんあるというのに、考えるだけで胃が痛むようになってきた。
「本日の執務は既にお部屋にお運びしております」
「わかった」
ヘレンがいなくなったあの日から、ロドリゲスとも距離が出来てしまった。それを、酷く心細く思いながらもドナルドは顔を洗う為に用意された桶に手を差し入れる。ばしゃりと何度か顔を洗い、用意された手拭いで顔を拭いた。
「おはよう、ジャクリーヌ。アンドレアス」
「おはようございます」
「……おはようございます」
朝食もいつもと変りなく進む。前まではもっと歓談し、楽しかったはずなのに。次女カレンが嫁いでしまったせいもあるのだろう。あぁ、そういえばカレンが懐妊したと連絡が来ていたことを思い出す。
「ジャクリーヌ、カレンはどうするんだ?」
「叶うならば一度伺おうと思っているわ。初めての出産で心細いでしょうから」
「そうか」
「アンドレも連れていきますわ」
「…それは駄目だ」
せっかくジャクリーヌが不在にするのだ。その間にアンドレアスときちんと向き合う必要を感じていたドナルドはジャクリーヌの言葉を却下する。しかしそれに火が付いたかのように反論したのはアンドレアスだった。
「どうしてよ!! 僕だってカレンちゃんに会いたいのに!! パパはそうやって何でも駄目っていう!」
「アンドレアス、お父様と呼びなさいと何度も言っているだろう」
「あなた! アンドレはまだ幼いのよ? それくらい許してあげてと何度も言っているじゃない」
ドナルドはまたか、と思いながらも理解してもらおうとする。
「ジャクリーヌ、ヘレンやカレンは今のアンドレの年よりも幼いころからお父様と呼んでいたんだぞ? それにアンドレは次期当主になるんだ。そういったことを今のうちにできるようになった方が良いだろう」
「この子はやればできる子なのよ!? そんな毎日締め付けていたらアンドレが可哀そうだわ! それに、カレンに会いに行きたいというこの子の意思は尊重してくれないの?」
どうして妻は理解してくれないのだろうか。
「何度も言っているだろう? ジャクリーヌにアンドレアス。私はアンドレアスの将来のために言っているんだ。それにカレンに会いに行くのは今でなくともいいだろう? 子供が生まれてからでも十分に会える時間はある」
「あなたはいつもそう! アンドレの将来の為って仰るけど、少し厳しすぎるのよ」
「ジャクリーヌ…それではヘレンのことは何て言うつもりだ?」
「……あなたがそれを言うの…!?」
ドナルドはしまったと思った。ヘレンのことでジャクリーヌが傷ついていないわけではないことを知っていたのに、口にしてしまった。だが、不思議と後悔はない。いつかは向き合わなければいけないことなのだから。
「ジャクリーヌ。確かにヘレンは家を出てしまい、行方が分からない…。そうさせてしまったのは私たちだということを分かっているね? 同じ轍を踏みたくないのは分かるが、それではアンドレアスの為にはならない」
「分かっているわよ!! でも、でも…!」
ジャクリーヌは言葉を詰まらせ、そしてその目に涙を溜めながら席を立し、そして出て行ってしまった。
「ママ! パパ…最低だよ。ママを泣かせるなんて!!」
アンドレアスは非難するようにドナルドを見ると母の後を追いかけて行ってしまう。
その様子を見たドナルドは、深いため息を吐きながら椅子に深く腰掛け、両手を顔の前で組んだ。どう言えば伝わったのだろうと一人考え込む。そうして思い出すのは、ヘレンの姿だった。ヘレンは、いつもこんな感情を味わいながら口を出していたのだろうか、と。そして幼かった彼女にそれをさせてしまった過去の自分を恥じた。
そうしていると、ロドリゲスが声をかけてきた。
「旦那様、来客です」
いつもよりも柔らかく聞こえる。最近ではとんと聞かなくなったその声音に、事前連絡なしでやってきた客が歓待したい相手なのだろうかと考える。
「……誰だ?」
「大変驚きになられるかと思いますよ」
「?」
いつもであればすぐに相手の名を言ってくれるはずの執事は、僅かながらに頬を紅潮させている。そんな姿を何年も見ていなかったドナルドは、怪訝な表情を浮かべた。最近来ておらず、ロドリゲスが喜ぶ相手などいただろうか。
「どこに案内をしている?」
「応接室にございます」
「わかった。すぐに向かう。先にお茶でも出しておいてくれ」
「かしこまりました」
食欲のなくなったドナルドは、疲れ切った表情をそのままに席を立った。
*******
「とりあえず自分たちはヘレン嬢の生家に向かいます」
「ノア様たちは…?」
「自分とノア様は別行動を。ヘレン嬢の乗せられた馬車を見つけてからは自分だけが後を追っていました。現在副隊長たちがどこにいるかの詳細は分かりませんが、バーゲンムート入りしているのは確かです」
「そう…ですか…」
「あぁでも、先に伺っているとは聞いていないので、先に自分たちが着くことになるかと」
「…わかりました」
結局、ヘレンたちは同じ宿屋に滞在したのは二日だけだった。やはりアレックスの追手のことが大きい。しかしそれでも二日滞在したのは、ヘレンの体調の為だった。
「本来ならばもっとお休みいただきたいところですが…」
「いいえ、私の所為で今回のことが起きているのですから」
ヘレンの言葉は嘘偽りのない本音だった。アレックスの件に然り、生家に然り。ヘレンがもっとうまく立ち回っていれば起きなかったかもしれない。
「ヘレン嬢は馬に乗れますか?」
「はい。ただ、ゼニアさんに付いていけるか…」
「そこはお気になさらず。むしろ付いてこられたのが自警団にばれたら、隊長のしごきが待っていますから」
にこりと笑いながら話すゼニアの優しい気づかいに、ヘレンも強張ったままの表情を少しだけ緩めた。
はっきりいえば怖い。今更どんな顔をして戻ればいいのか。でも、戻らなければならない。これは、自分が越えなければならないものなのだとヘレンは理解していた。
「早く全てを清算して、カロリアンに戻りたい…」
もう、バーゲンムートはヘレンにとって帰りたい場所ではなかった。人として、子としての愛情はもちろんある。だが、それ以上にずっと居たいと思わせてくれた人たちのもとで生きていきたい。
「とりあえず今日は馬が用意できませんでしたので、自分の前に乗っていただきますね」
「はい。色々と迷惑をおかけしますがよろしくお願いいたします」
「そんなに畏まらないでください。それに、ミーシャ様が知ったら嫉妬されますから」
「ミーシャさんが…」
「はい。ミーシャ様はヘレン嬢のこと、大好きですからね。あ、もちろん自分もですよ」
ゼニアの明け透けな好意に、ヘレンの頬が淡く染まった。例えそれにどのような意図が含まれていたとしても、好意を抱かれるのは純粋に嬉しいものだ。
「一緒の馬に乗っている間、ヘレン嬢のことをお聞かせ願えますか?」
「私の、ですか?」
「はい。バーゲンムートではどのように過ごし、どのようなご令嬢だったのか、とかです」
「……つまらないと思いますよ?」
「そんなこと! 嫌でなければ是非」
短くない付き合いで、ゼニアがそれを本心で言っていることがわかる。そうしてヘレンとゼニアはヘレンの生家、マイヤー邸へと進み始めた。
「……………」
「…久しいわね、ロドリゲス」
「……へ、れん…おじょう、さま…?」
「あまり大きな声で呼ばないでね。…それにしても、だいぶ疲れているみたいね」
「―――!!」
「執事殿、ですか?」
「そうです。ロドリゲスといいます」
「はっ! お、お嬢様、なぜ、いや、こちらの方は、あぁ、とりあえず…」
久しぶりに見た執事は、皺の寄った目じりに涙を浮かべた。その親愛の籠った視線に、あぁ、この人は自分を忘れないでいてくれたのだとヘレンは感じた。
「お元気そうで、本当にようございました……またこうしてお会いできるとは、夢にも…」
「ロドリゲス…」
ロドリゲスは言葉を詰まらせ、小さな嗚咽を零した。
「っ…いけませんな…年を取ると、涙脆くなります…」
ヘレンはそんなロドリゲスの肩を摩り、そしてその細さに息をのんだ。昔はとても大きくて、威厳のある人だと感じていたのに。時の流れを、ヘレンは確かに感じた。
「…お見苦しいところをお見せしました…。お客様も、失礼いたしました」
「いいえ、申し遅れました、自分はカロリアン自警団のゼニアと申すものです」
「ゼニア様…どうぞ、お入りください。ヘレンお嬢様、お好きだったお紅茶をすぐにお持ちします」
「ありがとう…」
そうしてヘレンは、二度と戻ることはないと思っていた家に、足を踏み入れた。




