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――――ひっく、ひく
あぁ、誰かが泣いていると、ヘレンは思った。
真っ暗な中、ただ誰かの悲痛な泣き声が聞こえる。
――――なんで……どうして……
そのあまりにも悲しい声に、ヘレンのほうが泣きたくなった。
幼い、女の子の声が、響く。
――――なんで、ぅ…ひくっ
ヘレンは、どうにかしてその声の主を慰めたかった。
何があったのかを聞いて、その心に寄り添いたいと思った。
不意に、真っ暗だと思ったその場所に少しだけ明るいところがあるのが分かった。あぁ、きっとそこにいるのだと、なんとなくわかった。
ヘレンは無意識のままに歩きはじめた。
――――なんで……どうして、お父様、お母様……
何故だろう、どこかで聞いたような声だ。近づいてもいいのだろうかと、不安になった。どうしてだろう。
――――どうしたら、いいの……
声の主の年齢が、少しだけ上がったような気がするのは、気のせいだろうか。
――――どうしたら、褒めてくれるの……
あぁ、駄目だとヘレンは思った。なんでか、駄目だと思った。
でも、足が止まってくれない。なんで、どうして。
――――もう、いやだ、だれか…
少しだけ明るい場所に、近づいて行く。嫌だ、行きたくないとヘレンは叫びそうになった。でも、声は出なかった。歩む足が、止まらない。まるで、行かなくてはならないというように。
――――……
不意に、嗚咽が止まる。
あぁ、あの子は泣いていないのではない。泣けなくなったのだ、と気づいた。
「……ねぇ、どうして、お父様もお母様も、私を褒めてくれないの。どうして、カレンは私を信じてくれなかったの。ねぇ、どうして?」
気づいたら、その声の主を見下ろしていた。そしてヘレンは悲鳴を上げようとした。
そこには、幼いヘレンが血の涙を流していた。
「誰も、私を愛してくれない。誰も、私を必要としてくれない。どうして、どうして? 私は、こんなに頑張っているのに、どうして?」
ずるりと、幼い自分が足元に縋りついてくる。姿は幼いのに、声はまるで大人の女であることに、気味の悪さを感じた。
体が凍ってしまったかのように動かない。
「イライアスも、きっとエルサ様も、ノア様も、私のことを面倒な子だって思っているわ…だって、一人じゃ何もできないんだもの」
「本当に私が必要とされるはずないわ」
「だって、私は何一つ成し遂げられずに自分のことだけを考えて逃げたんだもの」
「自分のことしか考えられないくせに、誰かには必要としてほしいなんて」
「あぁ、なんて浅ましいのだろう、私は」
やめて!!
ヘレンは泣き叫びながら目の前の幼い自分の口を塞いでしまいたかった。でも、自分の体は一切動いてくれない。
幼い体のどこからそんな力が湧き出ているのか。動かない自分の体は、幼い自分にずるずると引きずり降ろされる。びちゃびちゃと、真っ赤な血が、ヘレンの体を濡らしていく。
「可哀相なヘレン。きっとずっと独りぼっち。だって、私がそうやって人から逃げ出したんだもの」
「誰からも愛されない。誰も愛せない」
「頑張ったのだって、自分の為」
「褒められたいのだって、自分の為」
「―――他人の為じゃない」
「結局、ヘレンは、自分のことばっかり」
「いやぁああああめぇええええてぇええええええ!!!!」
ヘレンが血に濡れた幼い自分の首に、手をかけた。
下肢は動かないのに、腕だけが熱を発したように熱く動いた。
くすくすと、笑っている。
ごきり、と嫌な音がした。
幼い自分は、くたりと体から力を失わせる。すると不思議なことに、ヘレンの体が思うように動くようになった。
「あ……ア……」
べしゃり、とその小さな体が血の池に落ちる。
「あーあ。だから駄目なのよ」
そんな嘲るような声が、響いた。
******
「状況を知らせろ」
ノアは汗だくになりながら、自警団の詰所に来ていた。城から馬を飛ばしている間に、ノックスからトンクスとアマリーが自警団にいることを知らされたためだ。
ちなみにエルサは屋敷へと戻っている。これからの情報は自警団の詰所とヴィノーチェ家の屋敷でまとめることになったためだ。
「はい。ご報告した通り、アマリーの救助は済んでおります。ですが、未だにヘレン様の所在は不明なままです」
「クリスは?」
「そちらも」
「門の封鎖は出来ないのか?」
「ノア様、それは流石に難しい。カロリアンの民であれば可能性はあるかもしれないが、ヘレン嬢はあくまでもバーゲンムートの民です。それに連れ去った男もバーゲンムートから迎えに来たのだとすれば、まず不可能に等しい」
ノアの苛立った声に、マーカスが冷静に返す。
「アマリーと一緒にいた男たちは?」
「既に締め上げているが、クリスって男も狡猾なようで。あいつらにほとんど情報を渡していないようです」
「くそっ!」
ダンっとノアが机を感情のまま叩いた。
いつになく乱れた言葉遣いに、トンクスが冷たい水を差しだす。ノアはそれを一気に呷ると、袖口で口元を乱暴に拭った。
「ヘレンが、私の婚約者だとしても、無理なのか」
「…もっと早くにそれを知っていればできたかもしれません。だが、あまりにも遅すぎる。俺の勘としては、やつらはすでにこの街を出ているだろう」
「……」
「エルサ様はなんて?」
「……この件に関して、私が全面的に動くことの許可を下さった」
「!!」
それは、次期当主としてあり得ないことだった。いくらエメリオがいたとしても、現在ノアがヴィノーチェ家の実質的な後継者である。その後継者が、たった一人の女性を探すために動くというのは、カロリアンでもなかなかある話ではなかった。
「ノア様! 我々にお任せいただくことは…!」
「マーカス、もしお前の言う通りヘレンたちが国境を超えたのだとすれば、お前たちの行為は越権行為になる。だが、婚約者の私であれば、言い訳などいくらでも思いつく」
「危険が伴うぞ! 執事殿! いいのか、主を止めなくて!」
「申し訳ありません、マーカス様。当主が決めたことを一使用人が否と申すことはできません」
「っ」
ノアはちらりとトンクスを見、そしてマーカスに向き直った。
「…誰か、自警団内で長期休暇を取る者はいないか?」
「は?」
「いやな、長期休暇の者がいて、なおかつ予定が全くないのだとすれば、個人的に依頼したいことがあるんだ」
「……! そういうことか…。そうだな、ミーシャとゼニアが長期休暇をとる予定だったな」
「隊長!?」
マーカスの一言に、空気のように沈黙を保っていたジャクソンが声を上げる。しかしそんなジャクソンに、マーカスは一瞥くれるだけだった。
「そうか。それならば、二人を呼んでほしい」
「わかった。ジャクソン、行け」
「え!?」
「早く!」
「は、はい!!」
マーカスの気迫に満ちた勢いにのまれたジャクソンは、飛び跳ねるように詰所を後にする。その後姿を見送ったノアは、マーカスに礼を言った。
そんなノアに、マーカスは砕けた様子で話し始める。
「無茶を言って済まない」
「気にするな。我々の仲だろう。だが、それでも危険が伴うことは理解しているな?」
「もちろんだ。だが、私とてこのまま指を咥えているわけにもいかないだろう」
「……惚れているのか」
「……」
ノアは、マーカスの言葉を心のうちで反芻した。
最初はただただ哀れな子供だと思っていた。単身で国を出るほどの絶望を、ノアは知らない。ジェシカの件があって以来、女性にはむやみやたらに好意を持たれないように冷たくしようとしていたが、ヘレンにだけは出来なかった。
そうして彼女という人を知るうちに、案外彼女が強いことを知った。
ターニャやエメリオともうまくやってくれていることに、ノアは心の中で安堵もした。そして屋敷の使用人ともいい関係を築いていることを知り、何故かほっとしたのだ。
…今となってみれば、女主人になるかもしれない人物が、うまくやっていけることを知ったためだろうと思われる。
彼女が悲しみに泣くのは見たくない。幾度となくヘレンの泣き顔を見ているが、家族の事を話す彼女がとても痛々しく、そしてそれを取り払ってやりたいとも考えたのだ。
自分にだけは、見せる表情。それは、ノアに優越感を確かにもたらした。
「……あぁ、惚れているんだろう」
「!!」
認めてしまえば、その言葉はあっさりとノアの口を割って出た。そしてその言葉に、一番反応を見せたのはトンクスだった。
「で、では…!」
「そうだな。ヴィノーチェ公爵夫人に相応しい人を、みすみす逃すつもりはない」
能力も問題なく、性格もいい。そして容姿だって文句なしだ。
「ヘレンを迎えに行く。そして求婚し、そのまま相手の家族の了承をもらってくるとしよう」
「はい、はい…! かしこまりました! エルサ様にもそのように…!」
感極まったのか、トンクスが手巾で目元を拭う。そんな様子のトンクスを横目で見ながら、マーカスは一つだけため息をついた。
「わかった。ならばミーシャたちにもそのつもりでお供するように伝えよう。他に我々にできることはないか?」
「もう十分だ、マーカス。すまない、私事に巻き込むようなことをして」
改めてノアがそういうと、マーカスはにっと歯を見せながら笑った。
「何を言っている、未来のカロリアンの民であり、そしてヴィノーチェ公爵夫人のためだ。気にするな。…だが、そうだな、もし感謝してくれるというのであれば、酒でも奢ってくれ」
「……あぁ、一番いいものを取り寄せておこう」
「そりゃあ楽しみだ」
そうして、ノアはミーシャとゼニアとともにヘレンを追いかける準備をするために、足早にその場を後にした。




