1
「ヘレン、これを頼めるか」
「はい」
ヘレンはノアから手渡された書類に目を通す。その内容は、試験的だったころから比べて格段に難易度は上がった。最初の頃は戸惑うことが多かったが、今となっては粗方内容が理解できる。そのことに、ヘレンは自分が少しずつでも成長しているのが理解できた。
カロリアンは本格的な冬へと入った。ちらちらと降っていた雪は積もりはじめ、今では雪かきをしなければならない毎日だ。と言っても、膝下までくらいにしか届かないので、もっと積雪量のある地域から比べれば大分マシなのだろうけれど。
ターニャとエメリオは積もりはじめの頃は雪遊びを楽しんでいたが、最近ではもっぱら室内で遊んでいることが多い。
「イクス、ベン、これを頼む」
「かしこまりました」
「ノア様、こちらは確認済みです」
「わかった」
あと数か月もすると年が明けるということもあって、毎日が忙しい。ヴィノーチェ領各地から提出される報告書の確認に、それをまとめる作業。そして来年に予想される税率などを過去の記録から割り出す作業。目が回るというほどではなくとも、毎日どこから出てくるのだろうと疑問を持つほどの仕事量だ。
「ノア様、ヘレン様、イクスにベン。ひと段落着いたら少し休憩をとってください」
そんな忙しい毎日にちゃんと休憩などをとらせてくれるのがヴィヴィアンヌだ。彼女は常にノアたちの状況を見ていて、良い頃合いに休憩を申し出てくれる。そのおかげもあってか、殺伐としないでいられるのだ。
「そうだな、三人とも、それでいいか?」
「はい、問題ありません」
「ではいつも通りイクスたちの分は隣室に用意しておきますので」
「わかりました」
休憩はノアとヘレン、そしてイクスとベンの二組に基本分かれていた。最初は一緒だったが、いつのころからかわかれていた。
その理由をヘレンは最初分からずにいたが、ある時から何となく察した。
「ヘレン、おいで」
「っ……はい」
いつものように、ノアはヘレンを自分の隣に呼ぶ。普通であればあり得ない距離感だが、誰の目もないのだからと押し切られてしまった。
二人掛けのソファーに、失礼にならない程度に距離を空けて座るヘレンに、ノアは苦笑いを零す。
「いつまでも慣れないのだな」
「っ…当たり前です…」
ノアは笑いを零しながらヘレンの空けた距離を詰める。と言っても、拳半分くらいの距離はあるが。マナーに厳しい人がいれば、きっと眉を顰めたであろうその距離に、ヘレンはいつまでたっても慣れないでいる。
接していないはずなのに、なぜか温もりが伝わってきているような気がして。
「あぁ、今日の茶請けは焼き菓子だな。良かったな、ヘレン。好きだと言っていただろう?」
「…はい、好きです」
ヴィノーチェ家に来るまで知らなかったが、ヘレンは甘いものが好きだった。マイヤー家では勉強漬けで、眠気覚ましに紅茶を多飲していたくらいだったと思い出せたのは、つい最近のことだ。
「……美味しい」
何度か口にしたことがあるそれは、相変わらず美味しかった。前と味が少し違うみたいだ。しかしどちらもヘレンの好みだった。
そんなヘレンを、ノアが見つめていることなんて知らず、ヘレンはふにゃりと笑みを緩める。そんなヘレンに、ノアはくすりと笑いを零した。
「! またっ…! ノア様っ、見ていないで食べてくださいといつも言っていますでしょう…!」
「あぁ、食べているより君のその表情を見ているだけで癒されるんでな」
「そんなこと…!」
あれ以来、ノアはヘレンに対して甘い言葉を吐くようになった。それも激甘だ。節度を保った触れ合いは、ヘレンを戸惑わせるとともに心に温かさを齎した。
「ほら、私のも食べるといい」
「駄目です、夕食が入らなくなってしまいます」
「それもそうか」
ノアは手ずからヘレンに食べさせようとしていたようだが、ヘレンの一言に頷くと自分の口元に持っていった。そのことにほっとしながら、ヘレンは紅茶を口にした。
正直に言って、ヘレンは戸惑っていた。どうしてノアがそこまで自分を大切にしようとしてくれるのか。ノアに大切にされている自覚はある。まるで、あの時のように。
イライアスも、かつてヘレンを大切にしてくれた。療養のために行った祖母の元で、真綿にくるむようにヘレンを大切にしてくれていた。だからこそ、ヘレンはイライアスが自分を好いてくれているのではないかと勝手に勘違いした。とても苦い思い出の一つだ。ただ、あの時間はヘレンにとって大切な記憶の一つには変わりない。例え、あの頃に感じたものが絶望に似た何かだとしても。
いい加減、自分は過去と向き合わなくてはならないのだろうとヘレンは思っている。
置いてきた両親、弟、妹。それに迷惑をかけた祖母。そして身代わりだとしても、ヘレンを大切にしてくれていたイライアス。彼らに、ヘレンは向き合わなくてはいけないのだろうと考えるようになってきていた。
「――――」
考え込むヘレンを、ノアが見つめていることに彼女は気づかなかった。
*****
「最近きな臭いですね」
「そうだねぇ…」
深夜、ヴィノーチェ家当主のエルサは視察先の滞在先で、トンクスと酒を交わしながら話していた。
「いいのですか、エルサ様」
「何がだい?」
「あのような輩を放置して、ですよ。分かっているのでしょう?」
「あぁ…あのよそ者たちね」
エルサはグラスを傾けながら薄く微笑みを浮かべた。
「ほら、私はヘレンが気に入っているだろう?」
「そうですね」
「だからさ」
「…意味が分かりませんが」
トンクスはエルサの言葉遊びに飽きているのか、呆れたようにため息をつきながらグラスを口にする。
「ほら、可愛い子には旅をさせよ、って言うだろう?」
「ヘレン様にもさせるおつもりですか?」
「まぁ、似たようなことだけどね」
「…私くらいには説明してくれてもいいのでは?」
「それだと私が面白くないじゃないか」
エルサの一言に、トンクスが胃を軽く抑える。そしてじろりとエルサを見た。
「……そうやって私の毛髪と胃を犠牲にして、楽しいですか」
「うん」
あまりにも早い回答に、トンクスはぐ、っと顔を顰めるとエルサの酒瓶を手に取り、そして勢いよく自分のグラスに注いだ。
「ちょ、それ良いやつなんだけど!」
「はいはい。ソウデスネー」
トンクスはエルサを軽くあしらいながらもその手を止めることはない。これくらいの嫌がらせが許される間柄なのだ。
「とりあえず、ヘレンにも成長の余地はあるということだよ」
「左様ですか。あまりお遊びが過ぎますと、旦那様が泣きますよ」
「おやおや、怖い」
くすくすとエルサが笑う。ザクセンであれば許してくれると信じているのだろう。そしてそれは、トンクスも同じだった。あの大らかなひとは、エルサの考えることを尊重し、そして時に諫めがらも好きにやらせるのだろう。
「楽しい未来が待っているといいね」
「そうですね」
******
「最近、ヘレンの顔を見ていないわね……ねぇ、ダン。あの子に本当に手紙を出してくれているの?」
「奥様…ヘレンお嬢様もお忙しいのでしょう」
「でも、会いたいと言っているのに律儀なあの子が来ないなんて…。それにカレンも元気にしているのかしら…」
目尻に皺を寄せながら、寝台の上となったその人はそう呟いた。
いつからか、何かがおかしくなってしまったと、前マイヤー伯爵夫人は思っていた。一体いつからなのだろうか。ヘレンが、いきなり家に戻ってしまったあたりだろうか。
ヘレンは、生家に戻った後に二度ほど手紙をくれた。心配しないでという内容にエリザベスは少しだけ不安を覚えたものの、自身の体調不良から床から起き上がれなくなってしまっていた。
「カレンの結婚式にも参加したかったわ……」
「奥様、仕方ありませんわ。結構急なお話でしたし、なにより奥様は体調を崩されておいででしたもの」
そう言ってくれるシンシアに、エリザベスは力のない笑みを浮かべる。
「それもそうね…でも、どうしてヘレンは会いに来てくれないのかしら…そういえば、イライアスも最近来てくれないわね…。寂しいわ…」
エリザベスの言葉に、ダンとシンシアが顔を見合わせている。そしてダンがきっとお忙しいのでしょうと言った。それもそうか、とエリザベスは思う。彼には彼の生活があるのだ。いつまでも頼っているのがよくない。しかし。
「それでも…やっぱり寂しいものね…」
そうぽつりと零す女主人を、痛ましそうな目で執事と侍女は見ていた。マイヤー家の実情を知っているのは、エリザベスを除く全員。そして誰もが、主人の心を守るために口を噤んでいた。きっと知ったら、そのまま儚くなってしまいそうだから。しかし、それぞれに思うところはあった。
「……ダン、本当に奥様にお伝えしなくていいのかしら…」
「シンシア、そのことに関しては皆で話し合っただろう。今の奥様には耐え切れない」
「でも…」
「ロドリゲスからも連絡は来ているが、ドナルド様はヘレンお嬢様の足取りは一切掴めていない。そして私たちはお嬢様の意志を尊重すると決めたはずだ」
「……」
納得がいっていないシンシアに、ダンは幼子に話すように説明する。
「シンシア、お前だって分かっているだろう? あの家にいたら、ヘレンお嬢様はさらに酷いことになっていた。カレンお嬢様には悪いが…あの方は人の意見を聞かなかった。それに、私たちに何ができるというんだ? 万が一、ヘレンお嬢様を見つけられたとして、戻ってきてほしいと言うのか?」
「……言えないわ…。いくら奥様のことを優先していたとしても、そこまで酷いことは言えない」
「ヘレンお嬢様がお戻りになられていないということは、今いる場所が良いところなのだろう。それを壊す権利は、私たちにはない」
「…分かっているわ、でも、奥様があまりにも不憫で…」
「そんなこと、私だって思っている。だが、一使用人としての立場を忘れてはならない。いいね?」
「分かっているわ…大丈夫よ」
「ならいい。他のみんなにもしっかりと伝えてくれ」
強張った表情のまま他の仕事に向かうシンシアに、ダンはひっそりとため息をついた。心配しているのは彼女だけではない。自分だって心配している。だが、下手に動いて取り返しのつかないことになることだけは避けたいのだ。
「……できれば、居場所だけでも知りたいがな…」
ダンにとっても、主人の孫であるヘレンは大切な存在だ。その彼女の安否がわからない状態など、到底受け入れられるものではない。だが、そこまで追い込んでしまったのだとロドリゲスは手紙に書いていた。
だからこそ、ダンは何も動かないことを決めた。それが、彼に出来ることだと思った。
「……いくつになろうと、正しい道など分からんものだ…」
ダンはそう零し、そして自分の仕事をすべく意識を切り替えるべく歩き出した。




