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二部 15話から連続投稿しております。
ノアは、ヘレンに対して特別な感情を持ってはいなかった。母エルサから事情を聴いたときも、哀れだとも、無責任だとも思わなかった。
ただ、驚くほどに不器用な娘だとだけ、思ったのを覚えている。
……彼女に会うまでは。
「ノア様、指示された書類をお持ちしました」
「あぁ、そこに置いておいてくれ」
「かしこまりました」
母に頼まれて補佐にしたヘレンは、思ったよりも有能だった。そして、彼女の傍は居心地がよいと思い始めたのは、いつのころからだろうか。
イクスともうまく連携をとり、弟妹たちも懐く彼女は、いつもどこかしら一線を引いているように見えた。だが、それを指摘しようとは思わなかった。
いずれ別れる繋がりだろうと思っていたから。母がいくらヘレンをノアの伴侶にと望んでいたとしても、当人同士の感情を無視する人ではない。だから、そのままの距離感でもいいかと思っていた。ヘレンの意志を尊重したいと思っていたから。
「ヘレン、次はこの書類をまとめてくれ」
「かしこまりました」
ヘレンはノアの指示に従い、黙々と仕事をする。色目を使わない女性というのは、こんなにも楽なのか。ノアはそう思いながらも自分の手を進める。
……それが少しずつ変化し始めたのは、いつからだろうか。ノアは知らない。
共に町を散策しようと決めたのは、気まぐれに過ぎなかった。イリーヌは絶対に連れ出せと言わんばかりの視線をノアに向けてくるし、イクスにも問題ないと言われてしまえば誘わないわけにもいかない。
だが、初々しいヘレンの姿が、ノアの何かに触れたのは確かだった。
しかし、行きつけの食堂でジェシカに絡まれたのは想定外だった。そして自分の甘い考えによる行動によって、彼女が危険な目に遭う可能性が出てきてしまったことに対しても、罪悪感を抱いた。
その罪滅ぼしも兼ねて、護衛を付けるように手配した。……ミーシャの件に関しては、ヘレンの危うさを知り、気を付けなければと気付かされたが。普段であれば当人同士の問題と考えるノアだが、ヘレンに関しては自分が気を付けなければと思った。
彼女は自分が思うより、世間に疎い。確かに能力はあるだろう。だがそれと他者との付き合いは別物だ。磨けば問題ないだろうが、今のヘレンは磨いている最中と言っても過言ではない。せめてもっといろんなことを知ってからのほうがいいだろう。
「ノア様、こちらなんですけれど」
「ん? どこだ?」
「こちらの数値なんですが……」
「あぁ、これは……」
ヘレンと母が話し合ったことは、母から聞いている。一か月という時間を与えたことも。
それからだろうか。ヘレンが時折物思いに耽るようになったのは。ノアは叶うならば話を聞きたいと思った。助言をしようとは思っていない。だが、話すことで考えを纏めたり、何に対して不安に思っているのかを自覚できるのではないかと思った。だがそれも、ヘレンが自ら声をかけてくれたらの話だった。
きっかけは、ヘレンの一言だった。
―――「……ノア様が、とても羨ましいです」
正直に言って、彼女がそう思っているとは露にも思わなかった。だって、彼女はいつだって普通にしていたから。
ヘレンが実家の家族に対して思うところがあるのを知っている。だが、それを知ってなお羨ましいという言葉が出るということは、ヘレンにも心境の変化が生まれたのだろうことが理解できた。
そしてそれと同時に、どれだけ自分の家族が幸せなのかということも、考えさせられた。
ヘレンのその言葉の後、弟妹とゲームをし執務室へ戻ったノアは、イクスに問うた。
「……イクス」
「何ですか、ノア様」
「…お前は、この家が良い家だと思うか?」
「それはどういった意味合いかにも寄りますが、私個人としては思いますよ」
「どうしてそう思う?」
イクスはノアの質問に、少しだけ困ったように眉じりを下げた。
「ノア様がどうしてそのように思われたのかは、敢えてお聞きしません。そしてこれから話すことは、あくまでも私個人の考えとして聞いていただければ」
「構わない、話してくれ」
「…私は、エルサ様に拾って頂きました。私だけではございません。ベンも、アイリスも、シャーリーも。この家の使用人はエルサ様に拾っていただいた者が多いです」
「それは聞いている。……お前たちが、孤児や浮浪児だったことは」
それはヴィノーチェ家公認の秘密だった。本来貴族の家に仕える使用人は、その家より下の貴族の次男三男坊、あるいは女性が行儀見習いでくることが多い。しかしヴィノーチェ家においてはそれは当てはまらなかった。家の使用人のほとんどが孤児院出身者や元浮浪児だ。唯一違うのは、侍女頭であるヴィヴィアンヌとイリーヌくらいだ。
「ノア様はご存知だと思われますが、私は農村にある家庭の五男坊でした。家族仲は、悪くなかったと思っております。ですが、ある年に冬が越えられないかもしれないという理由で、町に捨てられました」
当時のことを思い出すかのように、イクスの目が遠くなる。
「……迎えに来るから、その言葉をずっと信じておりました。でもどこかで、本当は理解していたのです。自分が口減らしの為に棄てられたのだと」
いくらカロリアンの首都の治安が良く、自警団がしっかりしているといっても、すり抜ける者たちはいる。現に、どの国でも危ない箇所は存在しているのだ。そういった箇所には、盗みや犯罪を生業とする者たちが存在することも確かだった。
「仲のいい、家族だと思っておりました。ですが、結果私は棄てられました。あの時ほど、苦しくて悲しく思った時はありません。…今となれば、私より小さな弟妹がいたからかもしれないと思えますが、ですが、やはり簡単に許せるものではありません。……ノア様はご存じないと思われますが、私が最初にこの御屋敷に来た時、私はノア様のことが大嫌いでした」
「…それは初めて聞くな」
「誰にも言っておりませんからね。ノア様は、私が持っていないものをたくさん持っておいででした。容姿、地位、金、家族。それらはどうあがいても私が手に出来るものではありません。何の苦労もなく手に入れている貴方が、心底憎いと思った時もありましたよ」
「…今は違うということか」
ノアの言葉に、イクスは微笑みを浮かべた。
「エルサ様、それにザクセン様、トンクスさんが教えてくれたのです。ノア様が、そのことに慢心せずに頑張られているということを」
かつてノアにも、慢心していた時がある。家に恵まれ、容姿も悪くなく。自分に出来ないことはないと思い込んでいた時が。まあ長くなった鼻はすぐに親や周りによって叩き折られたが。今となっては黒歴史だ。若く、甘く、そして考えが足りなかったのだ。
「…私はお前が思うほどに出来た人間ではないぞ」
「えぇ、もちろん。よく存じておりますよ。でも貴方は成長なさいました。そして、ご家族を大切にしてこられた」
「……父が亡くなったからな」
父ザクセンが亡くなり、母はボロボロになった。幼い弟妹たちも父を恋しがって泣いた。ノアは、それを支えようと頑張った。出来ることは少なくても。
「確かに、ザクセン様がお亡くなりにならなければ今の貴方は居ないかもしれません。ですが、どうあっても過去に戻ることは出来ません。そして、貴方がご家族を支えたいと思い頑張られた過去も、また貴方なのです。……私は、そう思える家族がいるノア様のご家族を、羨ましいと思います」
「……?」
ノアはイクスの言葉の意味が良く分からなかった。そんなノアに、イクスは晴れやかな笑みを浮かべて続ける。
「もし、今私が生家に戻ったとしても、私は頑張れません。ですがノア様、貴方は違う。貴方には、支えたいと思う家族が、頑張りたいと思える感情を持つ家族がいる。……それは、私には持てなかったものです」
「――――――」
その時になってようやく、ヘレンの羨ましいという言葉の意味の欠片がノアには分かったような気がした。
つまるところ、ヘレンがノアを羨ましいと言うのは、彼女がそう思えなかったことから起因するのかもしれない。
ヘレンは、家族を愛していると言い、そして同じ口で家族を棄てたという。つまり、愛していたけれど頑張れなかったのだ。頑張れるほどの何かが、ヘレンにはなかった。あるいは、家族がヘレンに対して持たせられなかった。
だから、”羨ましい”。
ヘレンは、ノアのように家族の為に頑張ることが出来なかった。彼女の家族はノアの家族のように、頑張ろうと思わせる何かをヘレンに感じさせなかった。
それが他の貴族でも普通であれば、ヘレンはそうは思わなかったのかもしれない。しかし他国と言えど、同じ貴族のノアたちは違った。
「……そう思えないことを、悔いているのか」
「いいえ。いくら過去に戻ったとしても、私の両親は私を棄てたことでしょう。当時の私にそれを理解せよというのが土台無理な話です。……私は何も知らない無知な子供でしたから。……それに、私はザクセン様、エルサ様に拾って頂けた今こそが、幸いだと思っております。ですが、あくまでも私個人の意見です。他の方がどう思われ、考えられるかは異なりますので」
「一言多いのが、玉に瑕だな、イクスは」
「恐れ入ります」
結局、イクスにはバレているのだろう。ノアがどうしてイクスに問うたのかを。
「……これが終わったら、休んでくれ」
「かしこまりました。……晩酌の用意は如何されますか?」
「…いや、要らない」
前回はヘレンの理性を無くすためだったが、今回は要らないだろうとノアは考える。彼女はここに来てから色々と感じ、学んでいる。その彼女に対して、酒で酔わせて話させるのは違うだろう。
イクスはノアが断ることをあらかじめ予想していたのか、深くお辞儀をした。
そして。
「ノア様」
「何だ?」
「私はノア様より若輩の身にはなりますが、一つだけ助言をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「イクスが、か? 珍しいな。私に何かを言うなんて。構わない、お前のことは信頼しているからな」
「では。エルサ様ではありませんが、ノア様も進んでもよろしいかと存じます」
「?」
ノアはイクスの言葉の意味が分からずに、その涼やかな顔を見た。
「私から見て、ですが。今までの貴方はご家族以外に目を向けることは少なかった。その貴方の今の行動の意味を、よくお考え下さい。そうすれば、自ずと道は見えてきますよ」
「……胸に刻んでおこう」
ノアはイクスの一言を少しだけ考え、そしてすぐさま止めた。彼が言いたいことが、なんとなく分かり、そしてノアの防衛本能がそれを止めさせたからだ。
「……ノア様、考えることも、想うことも、感じる本能ですら罪にはなりません。時にそれらは貴方を傷つけるでしょうが、同時に、貴方を成長させてくれますよ」
立ち上がったノアは、執務室からヘレンの部屋へと向かうべく、歩き始めた。




