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二部、7から連続投稿しております。
よろしくお願いいたします。
「……どうして、こうなったのかしら…」
一人、ネグリジェを着た女性が窓辺でぽつりと漏らす。黒い髪に青い瞳。少しだけ垂れた目。カレン・ファフニールだった。
窓の外は既に暗く、雲一つない夜空が広がっていた。しかし、カレンの心は曇り空だ。
幸せに、なったはずだった。
初恋の人と結婚して、幸せな―――両親のような―――家庭を築くはずだった。
*****
「アレックス様!」
「あぁ、ただいま、カレン」
「昨夜はどちらにいらしたの? 夕食をご一緒しようと思ってお待ちしていたのに…」
「済まないね。僕にも付き合いというものがあってね」
「でしたらご連絡を下されば…」
「あはは、何を言っているんだいカレン。君は伯爵夫人なのだから、大きく構えていないと」
「……」
結婚して二週間、カレンはアレックスからの扱われ方に不満を抱いていた。最初の二週間は良かった。常に一緒にいてくれて、愛情を感じていた。しかしここ最近、彼は家に帰ってこない日がある。それが寂しいと訴えても、アレックスは先ほどのように伯爵夫人なのだからとしか言ってくれない。どうしてだろうか。
「あぁ、明日一緒に演劇を観に行こうか」
「っ! 本当ですの!? 嬉しいっ!」
でも、彼は決まってカレンが不安を感じているとそう言ってくる。そして約束は守られ、まるでお姫様のように扱われるのだ。
綺麗なドレスを着て、愛する人と一緒にいる時間は、カレンにとって至上のものだった。しかし、それも何日か続くと、またアレックスはカレンを一人にする。
一度、寂しいので実家を訪れたいと言うと。
「カレン、君はファフニール家の夫人だよ? もうマイヤー家の娘ではないのだから、少し考えて行動してくれると嬉しいな」
「……はい」
そう言われてしまえば、何も返せなかった。それに、愛されていないわけではないと思っている。ドレスを買いたいと言えば買ってくれるし、花束もくれる。一緒にいるときはカレンしか見えないと行動で示してくれている。だから、愛されていないわけではないのだ。
……それでも、カレンは時折感じる寂しさに、どうしようもなく不安を感じていた。
「カレン、明日、アンドレに会いに行こうか」
「! 久しぶりにアンドレに会えるの、とても楽しみですわ!」
今日もまた、彼はカレンの不安を感じ取ったのか、そう提案してくる。きっと、自分が感じる不安なんて、大したことではないのだろう。彼が帰ってこない日があることくらい、どうというものではないのだろう。
―――きっと、彼から時折香る自分以外の女性ものの香水の香りも、気のせいだ。
*****
「ヘレン、この書類を頼む」
「はい、ノア様」
その日も、ヘレンはノアに付き添って忙しくしていた。当主であるエルサは、屋敷にいることが本当に少なく、その仕事の代行を全てノアが執り行っていた。ターニャとエメリオは寂しがるのかと思いきや、案外そうでもなかったことに驚いた過去を思い出して、ヘレンは一人忍び笑いを零す。
「何か面白いことでも書いてあったのか?」
「っ失礼しました…。いいえ、ターニャ様とエメリオ様のことを思い出して…」
「二人の?」
「はい」
ターニャとエメリオは、母エルサのことが大好きだ。しかし、一度寂しくないのかと聞いたときの返答に、ヘレンはつい笑ってしまったことを話す。
―――お二人は、エルサ様があまりお屋敷にいらっしゃらないことを寂しく思われないのですか?
―――寂しいわよ?でもねー。
―――うん。
―――?
―――ママ、帰ってくるとすっごくくっついてくるんだもの。
―――ね。僕たちのこと大好きすぎるよね。
―――毎日あれだと、疲れちゃうわ。
―――うん。たまにだからね。それに僕たちママから愛されているし、愛してるけど、毎日だとトンクスみたくなっちゃう。
―――トンクス?
―――そう! 可愛がられすぎて、禿げちゃう!
―――ぶっ!!!!
それは猫かわいがりと言いたいのだろうか。しかしトンクスの頭頂部と二人への愛情は聊か違うのではとおもいつつも、ヘレンは笑いを必死に堪えた。
「…っあの子たちは…」
「…失礼ですが…ヘレン様っ…トンクスは可愛がられているわけではっ…ないかと…ぶふっ!」
話を聞いていたノアとイクスは、かつてのヘレンと同じように笑いをこらえながらそう零す。この場にトンクスがいなくてよかった。きっとこれを聞いたら、泣いてしまうかもしれない。
「それにしても、ヘレン様も大分この御屋敷にお馴染みになられましたね」
イクスはそう言いながら、ノアの見ている書類を纏めている。しかしよくよく見れば、よっぽどツボに入ったのか、涙目だ。
「そうでしょうか…? そう言って頂けると嬉しいです…」
「あぁ、二人もすごく懐いているしな。それにたまに二人の勉強を見てくれているだろう?」
「少しだけですよ?」
「謙遜するな。二人からヘレンの教え方は分かりやすいと聞いているよ」
「えぇ。ヴィヴィアンヌさんも助かると言っておられましたよ」
ヘレンは二人からの誉め言葉に気恥ずかしくなり、書類で顔を隠す。大したことをしているつもりはなくとも、そう言って褒めてもらえると嬉しく感じる。
「あぁ、でもイリーヌが…」
「イリーヌさんですか…?」
何かしてしまっただろうかとヘレンが不安に思いながらイクスを見ると、彼は苦笑を浮かべていた。
「ヘレン様をもっと着飾りたいと嘆いていましたよ」
「もう、十分良くしてもらっていますのに…」
侍女、イリーヌだけではないことをヘレンは知らない。イリーヌを筆頭に、アイリスとシャーリーという侍女が、どうにかしてヘレンを着飾りたいとノアに直談判している事実を。
「まぁ、たまにはイリーヌたちの願いも聞いてやってくれ、ヘレン」
「はい」
ノアは、どうしてイリーヌたちがヘレンを着飾りたいのかを何となく理解している。この家で年頃の娘と言えば、ヘレンだ。もしこれでヘレンが弁えずにいたのであればそんなことにはならなかったのだろうが、ヘレンは慎ましくいる。ドレスも必要以上は不要だと思っているし、既製品で十分だとも思っている。そんなところも気に入っているのだろう。
さらに言うのであれば、ヘレンは磨けば光るタイプだと彼女たちは豪語する。そしてそれはノアも同意見だ。だが、あえてそれをしないのは、母エルサの思惑を何となく理解しているためだ。
きっと、母はヘレンがノアの婚約者になればいいと考えている。
それ自体は、悪いとは思っていない。ヘレンという女性と過ごしているうちに、彼女という人を好ましく思っているからだ。だが、かつての婚約者を思い出すと、なかなか踏み込めない。
それ以前に、ヘレンの気持ちも大事だ。彼女は、カロリアンでは一人でも生きていける女性だ。男の手を必要とする人ではない。しかし、自分と結婚をすれば、ヘレンはヴィノーチェ家から離れられなくなる。
ノアは、ヘレンの意志を尊重したいと考えていた。
「失礼いたしますぅ、お茶のご用意が整いましたわぁ」
ノアがそう物思いに耽りながら書類を見ていると、イリーヌが休憩の時間を伝えに来た。
「ああ、もうそんな時間か。二人とも休憩の時間だ」
「「はい」」
三人はイリーヌの後に続いて、続き部屋へと移動する。そして用意されている紅茶に舌鼓を打った。
「そういえば、ヘレン様ぁ、新しいドレス、ご用意いたしましたのよぉ?」
「え!?」
「先日、ノア様にお伺いして、私どもで勝手ながらデザインを決めましたのぉ…」
「え、え…?」
ヘレンはノアとイリーヌを交互に見ながら戸惑っている。そんなヘレンに、ノアは微笑みを浮かべた。
「気にするな。さっきも言っただろう?」
「…ありがとうございます、嬉しいです」
「良かったですわぁ、あ、そうですノア様、折角です。ドレスアップしたヘレン様と、町に行かれたらいかがですかぁ?」
「!?」
にこにことしながら言うイリーヌに、ノアは母の指示だなと考える。どうやら、どうしてもヘレンと個人的な繋がりを持たせたいようだ。
「……そうだな、明日であれば行けるだろう」
「ノア様!?」
「イクス、どうだ?」
「問題ございませんよ。ノア様は元からお仕事を溜められる方ではありませんし」
「だ、そうだ。どうするヘレン?」
「え、あの、その…」
顔を赤くしながら戸惑っている。そんなヘレンに、イリーヌは何かを耳打ちした。ヘレンはイリーヌの言葉を考えているのか、ノアを何回かちらちらと見て決心したのか、小さく頷く。
「……あの、よろしくお願いします」
「あぁ」
初々しいヘレンを、他の三人は優しい目で見ていた。
*****
「お願いします、お願いします、オルト夫人……!」
「…マリ、貴女、どうやって…」
サブリナは、目の前にいるマリを見ながら驚愕を隠せずにいた。
「夫人、夫人でございましょう…? ヘレンお嬢様の居場所をご存じなのは…!!」
「……とりあえず入りなさい」
マリは、疲れ果てた様子で、それでも爛々とした目でサブリナを見ていた。ヘレンがマイヤー家を離れて既に半年以上。その間も彼女は探していたのだろうか。
「オルト夫人、リュシアン先生も、グリンデル先生も、お嬢様の居場所をご存じではありませんでした…なら、夫人なら、ご存知ですよね…!? あの時、お屋敷にいらした夫人なら…!」
「マリ…」
縋るようなその姿に、サブリナは何も言えなかった。正直に言って、マイヤー家にヘレンをここまで探すような人物はいないと思っていたからだ。
「マリ、とりあえず少し休みなさい。貴女、とても疲れているわ」
「夫人、夫人、どうか、知っているかだけでも…! もう、夫人しか心当たりがないのです…!」
ついに涙を零しながら血反吐を吐くように懇願するマリに、サブリナは考え込んだ。
「…マリ、貴女、マイヤー家はどうしたの?」
「辞めました…お嬢様がいなくなられてからすぐに」
「まさか、それからずっと…?」
「そうです、ですから、ご存知でしたら、どうか、どうか…!!」
その必死な様子に、サブリナは非情にはなれなかった。ここに来るまでに、どれほど大変だったのか僅かばかりに想像して。そして、そこまでヘレンを想うマリの姿を見て。
「…知っているわ」
「!! ど、どこに!! 私のヘレンお嬢様は、どこに!!!!」
掴みかかるマリを、サブリナは何とかソファーに座らせようとする。
「安心しなさい、マリ。ヘレン様はお元気よ」
「―――っ、よ、か、たっ……!!」
元気と聞くだけで、マリはその場に崩れ落ちる。心底安心したのだろうか、声にならない嗚咽を零しながら。
「マリ、とりあえず今は湯に入って、食事をしなさい。貴女、今にも倒れそう…」
サブリナがそう言いながらマリの肩に触れようとした瞬間。
「っ、マリ!?」
どさり、とマリが床に倒れる。あまりに急すぎて、サブリナは慌ててマリを抱き起そうとして、そのかさついた唇から穏やかな寝息が聞こえていることに安堵した。
「……ヘレン様、貴女を想う人は、たくさんいますわね」
サブリナは、遠い空の下にいる教え子を思い出しながら、そっと呟いた。




