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「おはようございます、ヘレン様。ご朝食は、問題ございませんでしたか?」
「イリーナさん、はい。とても美味しかったです」
「それは、よろしゅうございました。料理人が、喜びます。それでは、準備を手伝わせていただきますわねぇ」
「…あの、何を準備すればよろしいのでしょうか?」
翌日、ヴィノーチェ家の面々と朝食を終えたヘレンは、準備を手伝いに来たイリーナを不思議そうに見ながら問う。そんなヘレンに対して、イリーナの目がきらりと光った。びくりとヘレンの肩がすくんだ。怖い。
「ヘレン様、私が用意したお洋服は、お気に、召しませんでしたか?」
「いいえ! そんなことは! ただ、素敵すぎて…」
「まぁ! そう仰って頂けて、とても嬉しいですわぁ…。なら、そちらにお召し替えになりましょぉ? それにお化粧も」
「え、でも、これからノア様のお仕事のお手伝いで…!」
「だからですわぁ。ノーサツ、しましょ」
ヘレンはイリーナが何を言っているのかよく分からず、目を点にしながらも促されるがまま着替えさせられる。用意されたドレスは、紺色に銀色のさし色が入ったシンプルなものだった。しかし生地はとても良く、さし色として使用されている銀の配置はシンプルとは思わせない意匠だ。
「こ、こんなに素敵なものを…?」
「ヘレン様の為に、用意させていただきましたので。黒い髪と青い瞳とだけしか、聞いておりませんでしたので、ご用意できたのがこれだけですけど、もっとたくさん、用意いたしますわねぇ」
「えぇ…!? そ、そんな、申し訳ないので…!」
「駄目ですよぉ、良いものを着られませんとぉ」
「あ…」
考えてみれば、ヘレンはマイヤー家を出る際に必要最低限の衣類しか持ち出していない。金に関しては自分に与えられた小遣いを貯金していたので、それを持ちだしている。そこから、オルト家滞在中は費用を工面してもらっていたのだ。つまり、ヘレンはあまりものを持っていないということになる。
「も、申し訳ありません…、配慮足らずで…」
慌てて謝るヘレンに、イリーヌはきょとんとし、そして苦笑した。
「違いますわよぉ、ヘレン様。せっかくヘレン様は素材がよろしいのですから、生かしませんと。当主様からもノア様からも、お願いされておりますから、気にされないでくださいまし」
「で、ですが…あ、今所持している分しかないのですが、費用に充てていただければ…」
「それは私ではなく、ノア様にお話ししてくださいな。私では判断できませんもの」
「あ、そうですよね、ごめんなさい…」
謝り続けるヘレンに、イリーナは鏡台に座るように言う。そして化粧品を手に取りながら、落ち着いた声音で優しく話し始めた。
「ヘレン様、謝るばかりが、いいことではありませんのよぉ。当主様もノア様も、無駄なことは、お嫌いですわ。でも、ヘレン様には、そうしていいというお考えですのよぉ? それに、謝ってばかりですと、言葉が軽くなってしまいますわぁ」
「言葉が、軽く…?」
「はい。ヘレン様は、悪いことをされているわけではないのでしょう…? でしたら、謝るのではなく、感謝の言葉を言ったほうがよろしいですわぁ」
「感謝の、言葉…」
「えぇ! そのほうが、言われた相手も嬉しいですものぉ」
考えてもみなかったそれに、ヘレンは驚きながらもそうかと納得する。確かに、謝ってばかりでは相手も疲れてしまうだろう。
「……とても素敵なドレスを選んでくださってありがとうございます、イリーナさん」
ヘレンは少しだけ緊張しながらも、笑みを浮かべていった、それにイリーナは、深い笑みでどういたしまして、と返したのだった。
「ノア様、失礼してもよろしいでしょうか?」
「あぁ、入ってくれ」
準備のできたヘレンは、おかしなところはないかと確認し、そして扉を開いた。イリーナは完璧ですわぁと太鼓判を押してくれたが、少しだけ気恥ずかしさがある。家では、このような装いをしたことがなかった。
「あぁ、やはりイリーナに任せてよかった。似合っている」
「っ…あ、ありがとうございます…色々と手配をしてくださいまして」
「構わない。仕事を手伝ってもらう以上、人に会うからな。これからもイリーナに手伝ってもらうといい」
「はい」
「では早速だが、簡単な試験をしたい。ここにある書類を重要度・期日ごとに分けてほしい」
「わかりました」
「量があるから、ここを使うといい」
「ありがとうございます」
「分からないものに関しては後でまとめて聞く。そうだな……一時間もあればできるか?」
「…大丈夫かと思います」
「では頼む」
ヘレンは執務室に用意されている来客用の机を使いながら渡された書類を見始めた。結構な量がある。正直一時間で終わるか分からないが、それでも頼まれた仕事だ、期待されているとは思えないが、出来ることはやろう。
黙々と書類を見始めるヘレンを、ノアは少し見つめ、そして手元の書類へと視線を落とした。
コツコツ、と。置かれた大きな時計が時を刻む音を奏でる。執務室には二人だけ。だが、一言も会話はなかった。
正直に言って、ノアはヘレンに対してそこまでの期待をしていなかった。バーゲンムートでは優秀かもしれない。だが、それはあくまでもバーゲンムート国内での話だ。ここ、カロリアンにおいてそれは同義語ではない。母エルサからはヘレンがバーゲンムートの過去問題において優秀な点数を取ったと聞いてはいたが、それと実務は別だと考えていた。
渡した書類は、ちゃんと読み解く能力があれば一時間ほどで終わる。重要といっても、即日のものはない。本当に優秀で、尚且つカロリアンの状況、ヴィノーチェ領の状況を知っている者であれば一時間もしないうちに終えるものだ。だが、ノアはヘレンがそれを終えるとは欠片も思っていなかった。
「―――ま」
「……」
「――あ様」
「………」
「ノア様」
「―――っ、すまない、呼んだか」
「はい、お忙しいところ恐縮ですが、仕分けが終わったので…」
「……早いな」
時計を見れば、ヘレンに頼んでから五十分ほど経過していた。
「種類別にも分けられれば良かったのですが、流石に私の勝手な判断ではできませんでした…」
「いいや、構わない。確認しよう」
良かったのは、今日急ぎの仕事がなかったことだ。そうでなければ、ヘレンの書類の仕分けを確認することはできなかっただろう。
「―――そういえば、分からないものはなかったのか」
「はい。期日等は記載してありましたので…」
ノアは渡された書類をそれぞれ確認して、なかなか使えると判断していた。言ったとおりの仕分けだが、下手に勝手に分けられるよりは全然マシだ。ノアは、ヘレンが自尊心の高い人間ではないかと危惧していた。そういった人間は、自分の経験をもとに勝手に分けることがある。それは、今までにあったことだ。
だが、仕事でそれは通用しない。言われたことをしっかりこなすことがまず一番だ。それが出来てから、初めて要領のいいやり方をする。
それを踏まえた上で、ヘレンに問題はなかった。言われた通りに仕分けをちゃんとしている段階で、ノアはヘレンを使える人間と判断した。
「……問題ない。これからも頼む」
「はい」
さらに言うのであれば、無駄な話がないのもいい。仕事をする上でへんに自分の自慢話や、ノアのことを聞かない。それはノアの中でヘレンに対する好感度を上昇させていた。
このまましっかりとしてくれるのであれば、補佐として雇うのもやぶさかではないと考えるほどに。
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「どうし、て…」
その女性は、泣き続けていた。ぼろぼろと、体中の水分をなくすつもりなのかと聞きたくなるほど。
「わたし、は、お役に、たてませんか……」
虚ろな瞳は、絶望を映していた。
「お嬢、さま…わたしの、お嬢様…」
ヘレンの唯一の侍女であるマリは、自分が置いて行かれた現実に涙を流していた。
あの日。自分がヘレンに頼まれて厨房に行っている間に、唯一とした主は自分を置いて消えてしまった。自分では、お嬢様を助けることが出来なかったのだと、態度で示された気がした。あんなに尽くしてきたのに、という気持ちは不思議と生まれなかった。マリが尽くしたいから、尽くしたのだと。ただ、それでも足りなかったのだろうか、と。
「っ……お、嬢、さま…!!」
どうして、自分を連れ立ってくれなかったのだろうか。ずっと傍にいた自分を。
「ヘレン、お嬢様ぁあああっ……!!」
涙が、止まらない。嫌われていたのだろうか。そんなことはないと信じたい。だって、かの方は、自分に対していつだって感謝の言葉を言ってくださったのだ。一度だって、面倒くさいという表情なんてしなかった。
なのに、どうして。
――――どうして、自分を、置いて行かれたのだろうか。
「マリ、マリ」
「……ろどり、げす、さん……?」
ヘレンに置いて行かれたと知った瞬間から、マリは与えられた部屋で泣き臥していた。そんなときに、執事であるロドリゲスが声をかけてきた。正直言って、放っておいてほしかった。
だが。
「ヘレンお嬢様が出られた最後にお会いした。マリへのお心遣いも、聞いてる」
「!!!!」
マリは天からの助けと言わんばかりにロドリゲスに縋った。
「お、お嬢様は、なんと!!」
「……マリ、君ならばきっとヘレンお嬢様を見つけられます。探して、お伺いなさい。なぜ、貴女を置いて行ったのかと」
「ロドリゲス様!! へ、ヘレンお嬢様は、私がお嬢様を見つけることが出来ると、そう思われているのですか……!」
「……言葉にはされませんでしたが、きっとそうでしょう」
「!!!! お嬢様!!」
とてもお辛い目に遭われた自分の主は、自分が見つけ出せると信じてくれている。それはマリに唯一の光明のように思えた。そして少しだけ生まれた余裕に、どうしてヘレンはいきなり家を出る決意をしたのだろうと考える。
「……ロドリゲスさん…どうして、お嬢様はあの日、いきなり出られることを決意されたのでしょうか…?」
「……わかりません。ですが、我々が思う以上に、ヘレンお嬢様のこれからは酷いものでした」
「どういうこと、ですか?」
ロドリゲスが一瞬言い淀み、そしてそれを口にした。
「……ヘレンお嬢様が知っているかどうかはわかりません。ですが私はそれを知っていると考えています。…カレンお嬢様の婚約者、ファフニール様が、ヘレンお嬢様を引き取ることを旦那様に提案されておられました」
「……え?」
「どういった意味合いで面倒を見ると仰られたのか、想像の域を出ません。ですが、あり得ない話です。しかし旦那様はヘレンお嬢様のかつての病のことを気にしておられたため、妙案だと思われたようです」
「そんな……!」
いくら何でも酷すぎる。そんな道を選ぶくらいなら、マイヤー家にいるほうが何倍もマシではないか。…いや、それすらもマシとは言えない。だから、だから家を出ることを決意したのだろうか。
「……ヘレンお嬢様、絶対に、お探しします…!」
翌日、マイヤー家を一人の使用人が辞職した。




