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馬が駆ける。流れてゆく景色を、ヘレンは楽しむ暇なくただただ馬を走らせた。もう見ることがないかもしれないその景色を、その目に焼き付けることなく。
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「カレン、アレックス・ファフニールとの婚約はやめたほうがいいわ」
「お姉さま…? いきなりどうなさったの?」
「カレン、あの人はカレンを幸せにしない。ほかにもっといい人をお父様に探してもらいましょう?」
「待って、お姉さま、何を言っているの? 私はアレックス様の奥さんになりたいの」
「カレン、あの人は駄目よ」
ヘレンは、アレックスと別れたその足でカレンの元を訪れた。いつもは一緒にいるアンドレアスは、どうやら昼寝の時間のようで、カレンの部屋にはいない。そのことに安堵しつつも、ヘレンはカレンに詰め寄るように話し始めた。
「カレン、あの人は貴女を愛しているわけじゃないの」
「そんなこと! どうしてお姉さまに言われなきゃならないの!? 私がアレックス様と結婚したいのに…! どうしてそんな酷いことをいうの!?」
自分とそっくりの―――少しだけたれ目の―――顔の、その青い瞳から、雫が零れ落ちる。
その表情を見て、ヘレンはわけもなく泣き叫びたくなった。
「カレン、カレンが嫌いとかじゃないのっ、カレンが大事なのっ、お願い、話を聞いて!」
「いや! おねーさまの意地悪! 私が最初に結婚するから、怒っているんでしょ!?」
「違う! あの人はカレンが好きじゃないの! カレンと結婚してお金だけもらおうとしているの!」
「そんなのっ、わからないじゃない! アレックス様が私を好きになってくれるかもしれないじゃない!」
カレンに引きずられたせいなのか、ヘレンはいつになく幼い物言いでカレンを説得しようとするも、カレンは聞こうとしない。むしろ、どうしてそんなことを言うのかと責める勢いだ。
「カレン、お願い、聞いて、私も調べたの、そしたら」
「お父さまが調べてくれて、問題ないって言ってた!」
「お父様の調べだけじゃわからなかったの!」
「嘘! その人が本当のこと言っているってどうやって証明するのよ!」
「私たち、ずっと一緒にいた双子でしょっ…!」
「そんなの!」
ヘレンは柄にもなく泣き叫んで縋り付きたくなった。どうして、信じてくれないのだ。こんなにも、家族を大切に思っているだけなのに、どうしてうまくいかないのだろう。
アンドレアスのことも、カレンのことも、自分のことも。
「お姉さまは、アンドレが生まれてから、いっしょにいなかったじゃない!!」
「―――か、れん…」
カレンは涙を零しながら、たれ目を吊り上げながら詰るようにヘレンに詰め寄る。その勢いにヘレンは飲まれてしまった。
「確かに! お姉さまはすごく頑張っていたわ! 知ってた! でもどうして!? どうして相談してくれなかったの? どうして手を抜かなかったの? お姉さまがそうやって自分で自分を追い込んで、あんなことになって…! お父さまもお母さまもすごく後悔してた! きっと寂しい思いをさせたんだろう、我慢させすぎたんだろうって、すごく後悔してた! だからアンドレは寂しい思いとか我慢させないようにしようって決めたのに…! お姉さま、帰ってきてからおかしい! 前はもっと優しかったのに、どうしてアンドレにあんなに怒るの? どうして私にそんなことを言うの…?」
「か…れ……」
カレンがきっ、とヘレンを睨んだ。
「お姉さまなんて、嫌いよ…」
「――――――」
がらがらと、足元から崩れ落ちる。
どうして、と、掠れた声が喉から漏れるも、激高しているカレンは聞こえていないのかそのまま部屋を飛び出していった。外で待たせていたカレンの侍女エマが、ヘレンを一度だけ非難するような目で見て、カレンを追いかけていく。
「―――どう、して……?」
どうして、こんなにもうまくいかないのだろうか。ただ、家族が幸せになってほしいだけなのに。マイヤー家が、もっと栄えてほしいと思っただけなのに。
父も、母も。後悔しているのはわかっていた。まるで腫物を扱うようだったから。どうしていいのかわからないと、態度で言っていたから。だから必要以上に近づかないようにしていた。ヘレンが責めるつもりがなくても、向こうが責められていると感じているとわかってしまったから。
「な、んで……」
アンドレアスだって、好きで厳しくしようとしているわけではない。大切だから、この世でちゃんと生き残ってほしいから。自分が嫌われるくらいならいいと思って、厳しくしていただけなのに。
「なんで、わかって…、くれない、の……?」
カレンは、双子の妹だ。確かに自分より先に婚約し、結婚するだろう。だが、それを妬む気持ちなど欠片もなかった。むしろ良い相手であれば、巡りで会えてよかったと両手を放して喜びを表明するつもりですらいた。
ヘレンはずるりと立ち上がった。呆然としながらも、ここにいてはいけないのだと思う。自分は、ヘレンは、ここにいてはいけないのだ。
この後イライアスと話す予定だったことすらも忘れ、ヘレンはまろぶように走り出した。そして荷物を簡単にまとめる。マリは別で厨房に仕事を頼んでいたから、まだ戻ってこない。
「ヘレンお嬢様、如何されました?」
「……ロドリゲス」
ヘレンが片手で持てる荷物を持ち、駆け足で玄関に向かっているところを、ロドリゲスが見つけたのか声をかけてくる。ある意味一番会いたくなかった相手だ。
ぼろりと、涙が零れる。
「ヘレンお嬢様…!? 一体何が…!?」
滅多に見ないヘレンの涙を見たロドリゲスが、慌ててヘレンの傍にやってくる。
「……ごめんなさい、ロドリゲス」
「お嬢様…?」
「私には、無理だわ…」
「お嬢様…!?」
茫然としながら、それを口にした。それくらい、無理だった。
「お父様もお母様も、私を腫物のように扱う。アンドレアスのことも、わかってくれない…カレンだって、私のことを信じてくれない…これ以上、どうすればいいのかわからない…」
「ヘレンお嬢様、少し落ち着きましょう」
「嫌…もう、これ以上嫌よ…ここに、私の居場所はないわ」
「そんなことございません!」
ロドリゲスの言葉に、ヘレンは嗤った。だって、どうすればいいのだ。きっとカレンはアレックスとの婚約を成立させるだろう。そしてあの男はその外面の良さを利用して、この家を喰い潰そうとするかもしれない。それを回避したいと思っての言葉は、カレンに届かない。
両親にそれを言ったとしても、信じてもらえるのだろうか。ヘレンには、信じてもらえるだろうという考えはもうなかった。
「ロドリゲス…今までこの家に尽くしてくれた貴方に対して、不義理をするのは分かっているわ…。でも、私にはもう無理…。もう傷つきたくない。壊れたくない、憎みたくない、嘆きたくない」
ずっとずっと、家のためにと頑張ってきた。それをいきなり取り上げられて、それでも戻ってきた。自分なりに出来ることを考えて行動しようと必死だった。家族との間に、ちゃんとした絆があると信じていた。
でも、そうではなかった。
確かに自分は一時いなかった。それでも、大事な家族だという根底があると信じて戻ってきた。しかしそれすらないと気付いてしまったら、もうここにはいられない。
「お嬢様…」
ロドリゲスの痛ましいものを見るその視線が、辛い。
「……お婆様の元に行くわ。もう、戻ってこない」
「そこまで、私どもはお嬢様を追い詰めていたのですか…?」
その言葉に、ヘレンは深い諦観の笑みを浮かべた。考えてみれば、十六の娘に執事が頼り切りなのもおかしな話だ。父は確かに領主としての仕事はしているが、家族のことはてんで駄目な人。そのことに不安を感じた使用人が、当主ではなく娘に意見を仰ぎ、方針を決めようとするなんて。
しかしそうさせてしまうくらいには、この家は何かがおかしいのだ。
「……本当に、ごめんなさい、ロドリゲス…。でも、私は、私を必要としてくれる場所に行きたいの」
「それが、大奥様の元、なのですか…?」
「……」
ヘレンはロドリゲスの問いに答えなかった。これ以上、彼に嘘を吐きたくなかったから。
「……そこまでお嬢様を追い詰め、悩ませてしまったのは私の責任でもあります…。お嬢様には色々と手を尽くしていただきました…。もう二度と、あのような事態を起こさないと心に誓っておりましたのに、申し訳ございません…」
「ロドリゲス…。最後のお願いよ…探さないで」
「っ……本気で、お戻りになられませんか…?」
「…わからない。でも、今の私は戻らない…戻れないわ」
ヘレンの返答に、ロドリゲスは目じりに涙を滲ませる。その表情にヘレンの心は痛んだが、それでも一度した決意は翻ることはない。
「……かしこまりました、私の大切なヘレンお嬢様…。どうぞ、お健やかにお過ごしください。何かあれば、私をいつでも頼っていただければ、幸いです」
「ありがとう。マリにも申し訳ないけど、元気でと伝えて。お父様たちには…私を忘れて生きてくださいと」
「マリをお連れになられないのですか…!? 旦那様方にも何も仰られないのですか…!?」
「…一人で、考えたいの。お父様たちも、きっと言われても何もできないわ」
「……あの子は泣きますよ。それに、きっとお嬢様を探します」
「そうね…見つかったら、その時に考えるわ」
ヘレンは、ずっと傍にいてくれたマリを思い出す。この屋敷でも、祖母の家でも、ずっと傍にいてくれたマリ。彼女を置いて行くことに罪悪感を覚えないわけがない。だが、連れていけないのだ。
そして、マリは…いや、マリだけではない。ロドリゲスも、自分を見つけることは叶わないだろう。
「お嬢様、一つだけ、お聞かせ願えませんか」
「何かしら」
「……お嬢様は、この家を…マイヤー家をお見捨てになられるのですか」
「……」
それは、非常に答え辛いものだった。見捨てるつもり、なのだろうか。ヘレンは自問自答する。しかし今の勢いで家から出ることは、見捨てると同義語だ。だからといって、家族を嫌っているわけでも、憎んでいるわけでもない。ただ、疲れたのだ。
「…わからないわ。いつか、戻ってくるかもしれない。戻ってこないかもしれない。あるいは戻ってくる気があってもお父様が赦してくれないかもしれない」
どう転ぶか分からない自分の未来。だが、少なくともかつての家族の仲は取り戻せないだろうことを、ヘレンはぼんやりとだが理解していた。
「……このロドリゲス、ヘレンお嬢様がお戻りになるその日まで、お待ちしております」
「ロドリゲス…」
ヘレンは、ロドリゲスの言葉に返事をしなかった。確証のない約束など、すべきではないから。
「…もう、行くわ」
ロドリゲスは顔をくしゃりとさせながらも、恭しく一礼した。




