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イライアスは、奇妙な違和感に襲われていた。
「イライアス様! アンドレと一緒に遊びませんこと?」
「いらー!」
「えぇ、構いませんよ」
自分は、エリザベスに頼まれてマイヤー家の様子を見に来ている。それに間違いはない。そしてその目的も果たしている。
次女カレンは明るく、淑女としての教育がしっかりとなされているのか距離感を取るのがとてもうまい。長男アンドレアスは、少し人見知りをするものの、慣れれば酷く懐く可愛らしい男の子だ。
「イライアス殿、酒は嗜むのかね?」
「えぇ」
「そうか! よければ一杯やらないか? いいものが手に入ったんだ」
「喜んで」
当主であるドナルドは人が良く、家族を大切にしているいい父親だった。
「イライアス殿、カレンとアンドレの相手をしてくださって感謝いたしますわ」
「夫人、いいえ、私も楽しませていただいておりますので」
「そう言っていただけて嬉しいわ…。そうね、夕食はイライアス殿の好物にしようと思うのだけれど、何がお好きかしら?」
奥方であるジャクリーヌはたおやかで、家をしっかりと守っているいい母親だった。
「いらー! アンドレと、遊ぼーーー!!」
「待って、アンドレ! そんなに急いだら転ぶわよ」
「っ………うわああああああんん!!!」
「ほらもう、大丈夫? 怪我はない?」
「いたいよぉぉぉぉっ!!」
「よしよし、泣かないで、アンドレ」
転び、そのまま床に伏せたアンドレアスを、カレンがすぐさま抱き上げる。真っ青な瞳からはぼろぼろと涙が零れ落ちている。抱き上げたカレンは、仕方ないわねとでもいうようにそのふくりとした頬に口づけを落としている。
「あらあらアンドレ、どうしたの」
「お母さま、アンドレったらイライアス様と遊びたくて走ったら転んでしまったの」
「あらまぁ…やんちゃね、アンドレってば」
「ままぁーー」
ぐずぐずと泣きながらアンドレアスは夫人へと手を伸ばす。甘えたい盛りなのだろう。
「おぉ、アンドレ。どうしたんだ、そんなに泣いて」
「あなた、転んでしまったようよ」
「なにっ、怪我はないか?」
「お父さま、大丈夫よ」
「そうかよかった」
アンドレアスの泣き叫ぶ声が聞こえたらしい主人が、急ぎ足でやって来る。そして泣きじゃくる息子を慰めていた。それだけを見れば、なんて仲の良い家族だろうと思う。
その場にもう一人の娘、長女であるヘレンがやって来ないことを除いては。
「…ヘレンはどうしているのですか?」
「お姉さま? ごめんなさい、イライアス様…私はわかりませんの」
「さっきロドリゲスと一緒にいるのを見たわよ」
「そうなのか?」
「お父さまってば、お姉さまが何をされているかご存じないの?」
「む…私も仕事などで忙しくてな…」
言い訳のようなそれに、イライアスは笑みの下で苛立たしさを覚える。
「そうですか、ヘレンと話せていないので、少し話に行きたいのですが」
「やーーー!!」
イライアスがそう言うと、泣きじゃくっていたはずのアンドレアスが頬を真っ赤にしながら叫んだ。先ほどまでの痛みによる赤らみではなさそうだ。
「どうしたんですか、アンドレアスくん」
「へれのとこいっちゃ、やだ!!」
「アンドレってば…ごめんなさい、イライアス様。アンドレはお姉さまのことを苦手にしているの」
「ヘレンを、ですか?」
「お姉さま、アンドレに少しだけ厳しいから」
イライアスにはカレンの言う厳しいヘレンというのが想像できなかった。
そうだ、こういった些細な違和感が散らばっているのだ。
イライアスがマイヤー家に滞在して、既に五日は過ぎた。その間にヘレンと顔を合わせるのは朝食、夕食時が多い。どうやら昼食はヘレンは別で取っているらしく、カレンとジャクリーヌ、そしてアンドレアスの四人で取ることが多かった。
話をしようとヘレンを探すも、彼女は忙しくしているらしく、なかなか捕まることがない。その代わりなのだろうか、カレンとアンドレアスにはよく会い、ともに時間を過ごした。
そしてカレンがヘレンを厳しいと言った理由を知る。
「いらー! あれとって!」
「駄目ですよ、アンドレアスくん。あれはとても重くて危ないものです」
「~~~~やーーー!!!!」
「駄目よ、アンドレ、貴方に何かあったらカレンちゃん泣いちゃうわ」
「やなの~~~!!」
アンドレアスは、慣れてくれば来るほど甘えているのだろうか…我儘になっていった。自分の欲しいものが手に入らなければ暴れまわるように泣く。嫌いなものは食べない。それくらいであればイライアスも何も言わなかっただろう。だが、問題はそのあとだった。
「……どうして、アンドレアスくんに我慢を覚えさせようとはしないのですか?」
「イライアス様? アンドレはまだ四歳ですのよ?」
「ですがじき五歳になるのでしょう?」
「イライアス様ってば、お姉さまと似たような事を仰るのですね」
「ヘレンとですか?」
「えぇ。お姉さまもアンドレに我慢を覚えさせたほうがいいって仰るの。でもお父さまもお母さまも幼いうちは自由にさせてあげたいとお考えなの」
「そうですか…」
イライアスは戻ってきたヘレンが何をしているのか、ぼんやりとだが想像がついた。
そうして彼女が自分に相談しない事実に、自分でも予想しない打撃がきたのも、感じた。
*****
「お初にお目にかかります、リンデンベルグ殿」
「こちらこそ、お初にお目にかかります。ファフニール殿」
イライアスが滞在して七日目。カレンの婚約者候補のアレックス・ファフニールがマイヤー家を訪ねてやってきた。にこりと微笑むアレックスは、ふんわりとした空気を醸し出している。
カレンは心底彼に惚れているのだろう、頬を紅潮させて彼を迎え入れていた。
「こんにちは、アレックス様。お久しぶりですわね」
「カレン、今日はお招きいただきありがとう。相変わらず可愛いね」
さらりと甘い言葉を吐くアレックスに、カレンの頬が薔薇色に染まる。もじもじとしたその姿は、まさしく恋する乙女だった。
「アレー!」
「やぁ、アンドレ。元気だったかい?」
「うん! きょうはなにする?」
「そうだなぁ…とりあえず少しお話したいな」
「えぇ……あそびたい……」
「もちろん、あとで一杯遊ぼう?」
「うん!」
そしてアンドレアスの扱いもうまかった。きっと彼はすでにマイヤー家に受け入れられているのだろう。だが、やはりイライアスの予想通り、その場にヘレンの姿は見られなかった。
「アレックス様! 今日いらっしゃると聞いて取って置きの紅茶をご用意したの!」
「とても嬉しいな、カレン。伯爵、夫人、お久しぶりです」
「あぁ、よく来てくれたな」
「アレックス、自分の家のように寛いでいって」
マイヤー家の面々もアレックスをカレンの婚約者として認めているのか、親しげに会話をしている。そうして一行はサロンへと足を運ぶ中、反対側からヘレンがやってきた。
「…ファフニール殿、お久しぶりです」
「あぁ、ヘレン。中々お会いできないので心配しておりましたよ」
「それは失礼しました。私は恙なく生活をしておりますので、どうぞお気になさらず」
ヘレンのそのそっけなさに、イライアスはおや、と思った。イライアスの知るヘレンは、常に社交的な印象があったのだが、そうでもないようだ。
しかし、致し方あるまいとも考える。姉の自分ではなく、妹のカレンの婚約者なのだ。きっと面白く思えないのだろう。
「相変わらずつれない…。まぁ、カレンと結婚すれば、親族になるのですから、仲良くしましょう?」
「っ……もちろん、カレンの旦那様として、よろしくお願いします」
イライアスは、その二人の会話にまたも違和感を覚える。しかしそれが何かを掴む前に、ヘレンが歩き始める。
「お姉さま、これからサロンでお茶会なのよ?」
「そうだぞ、ヘレン。アレックスもイライアス殿もいらっしゃるというのに、どこに行くのだ?」
ヘレンの背に、カレンと主人の声が投げつけられる。しかしヘレンは振り返るものの、洗練されたカーテシーを見せるだけだった。
「ごめんなさい、カレン、お父様。これからグリンデル先生がいらっしゃるの」
「何? 私は聞いていないぞ?」
「ごめんなさい、お父様。これからのアンドレアスの教育方針について色々と聞いていたの。ほら、私も手伝えるかもしれないから」
「…そうか。それなら仕方あるまい。先生によろしく伝えてくれ」
「もちろんです」
ヘレンはにこりと微笑みを浮かべると、そのまま背を向け歩き出す。
イライアスは、自分がとんでもない間違いを見落としているのではないだろうかと、不安に思いながらもカレンたちの後についていった。
******
「……やっぱり」
「ヘレンお嬢様、どうされるのですか」
ヘレンはグリンデルが待つ応接室で、渡された書類を見て嘆息した。その真正面には苦虫を噛み潰したようなグリンデルが座っている。
「アンドレアスの問題だけでも手一杯だというのに…」
「確かに…しかし頑張り屋青年だと噂される彼を、どうして疑ったのですか?」
「……」
ヘレンは、彼が来た際に感じる粘着質な視線を思い出して、ふるりと震える。そして数度しか顔を合わせていないのに、苦手だと思わせる彼を忌避したくなる。
元から、あまり好きになれなかった。そして、グリンデルが持ってきた書類を見たら、嫌いにすらなりそうだった。
―――君が…。あの子とは違った感じの美人さんだね
―――病にかかったんだって? あの子がとても心配していたよ。でも、そんなんじゃ誰かに嫁ぐこともできないだろうねぇ…
―――君も一緒に来るかい? 大丈夫、ともに可愛がってあげるよ
反吐が出そうな、男だ。
男―――アレックス・ファフニールは、ヘレンが一人の時だけ声をかけてきた。しかしヘレンも忙しい身、そうそう見つかるはずもないのに、何故か彼はどこからともなくやって来てはヘレンに声をかけるのだ。
きっと、カレンが自分のことをすべて話したのだろう。だから、彼はヘレンのことを病持ちの引き取り手のいない哀れな格下の女だと見ているのだ。そう言葉にされなくとも、雰囲気でわかる。
だから、ヘレンはグリンデルに彼を調べさせた。
アンドレアスのこともあるが、一番直近で問題なのはカレンだから。
「グリンデル先生、私は、双子の妹に幸せになってほしいだけです。だから、絶対に変な男のもとへ嫁がせたくないのです」
かつてはもう一人の自分のように感じていた妹。五歳を機に、二人の道は分かれたが、それでも双子なのだ。十月十日、ともに母の胎で成長した。
カレンはどう思っているか知らないが、きっと同じだろうとヘレンは信じている。
………ヘレンは、知らなかった。
恋というものを。




