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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興7年(229年)
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孫権の魏からの独立と遷都

 年が明けた229年、呉では群臣一同が孫権に帝位に即くことを進言し、孫権はそれに答えて皇帝に即位した。


 彼は呉の初代皇帝となるとともに、すでに独自の年号を使っていたが、それを改元し元号を黄龍と改めた。


 蜀はそれを受けて対応を協議したが、結局は呉との同盟関係を維持することに決め、陳震を祝賀の使者として呉に赴かせ、武昌において孫権と彼は会盟し、魏を破って天下を分配することを誓約し合った。


 その後、孫権は建業に遷都をしたのだ。


 しかしそれまでうまくやっていた外交や人材の登用や育成についてはこの皇帝となって遷都を行ったあたりから独りよがりとなり失敗が増えていく。


 彼は皇帝になるべきではなかったのであろう。


 孫権は己の身と江東の領土を守るために、過去のしがらみにとらわれたり己の面子にこだわったりせずに、その時々で一番有効と思われる相手と手を結びそれにより窮地を脱している。


 曹操が率いる大軍に攻め入られたときには、劉備と手を組み、劉備が荊州返還に応じないと見れば、今度は曹操と手を組み関羽を討ち、劉備も撃退して曹操の死後は息子の曹丕に一時的に従属し、劉備が死去すると諸葛亮の申し入れを孫権が受け蜀と同盟して魏に対抗するという形でその領土を確実に拡大していった。


 それゆえに彼は信用ならないと見るものもいるであろうが、呉が結局三国の中で最も長く命脈を保てた理由でもあるであろう。


 そしてそういった外交と同じように優れていたのは人材の登用とその育成である。


 工程になる前の孫権はただ人材を集めるだけでなく、その育成にも熱心で部下の短所には目をつぶり、長所を発揮できるように育てることを意識して行っていた。


 周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜などは孔明のもとでの蜀漢では活躍できなかった可能性が高い。


 曹操は孫権を高く評価していて「子供をもうけるのならば孫権のごときがよい」という言葉を残しているくらいだ。


 もっとも劉備や関羽は孫権をかなり格下に見ていたようだが、彼は初めて江南地方の自立を成し遂げたといって良い人物だからその前半生は十分に英雄と読んでも良い。


 しかし、皇帝となってしまうとその暴走に歯止めが効かなくなり、度々孫権の行動を諌めた張昭に対して、孫権は帝位に即位できたのは今はなき周瑜のおかげだと述べた後、同意して周瑜を称賛しようとした張昭に対し、もしあの時、張公の曹操に降伏するという進言を聞いていたら、我は帝位に即位するどころか、今頃は乞食になっていたと皮肉っていたりする。


 それでも張昭は参内し孫権と面会する毎に、断固とした意見を述べたため、孫権の機嫌を損ね、目通りすることができなくなった。


 呉の内部が危うくなる兆しはすでに現れていたのである。

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