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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興6年(228年)
8/41

遼東に異変あり

 この年の年末公孫康の跡を継いだ公孫恭が甥の公孫淵に、太守の座を奪われた。


 これは公孫恭が兄の公孫晃を可愛がって、公孫淵を遠ざけようとしたのが原因であったと言われているが、兄が洛陽に出仕して役人として働いている間に、公孫恭が性的不能でありそれでは太守は務まらないと無理やりに譲らせたのだった。


 曹叡はその報告を聞くと言った。


「ふむ、ならば正式に遼東太守に任命してやるとしようか」


「良いのですか?

 悪い例として残りそうでございますが」


「子をなせぬものに太守が務まるともおもえぬがな」


「……そうかも知れませぬ」


「田(豫)国譲が幽州におれば何かあっても対応できよう」


「かしこまりました。


 田豫は演技では影が薄いがかなりの実力者である。


 彼は幽州の出身ではじめは劉備が公孫瓚の下に逃れた時、まだ年だった田豫は劉備に仕えて、劉備から非常に高く評価された。


 その後劉備が公孫瓚の下から去って陶謙の下で豫州刺史になると、田豫は母の老いを理由に劉備の下から去り幽州へ帰郷したが、この時、劉備は田豫に対し「君と共に大事を成せないのは惜しい」と言い、別れに涙を流したという。


 その後は、公孫瓚の下で働き同僚の王門が袁紹側に寝返り、1万の兵士を率いて来襲してきた時は、城壁の上から王門を弁舌でやり込めたがその才能を示したが、公孫瓚は任用しなかった。


 その後、公孫瓚が敗死し、鮮于輔が漁陽太守を代行すると、彼と旧知の仲であったため長史に採り立てられ、鮮于輔と田豫は曹操に帰服すると北の守りの役割を担って功績を上げた。


 その後、田豫は南陽太守に任命され、その前任の太守である東里袞の悪政により侯音が反乱し、数千人が山賊となり、その仲間の囚人500人が収監されたままになっていたが、田豫が彼らを説得し釈放すると、その恩寵に感謝した者達が仲間を説得したため、一朝にして盗賊は解散し、郡は平静さを取り戻した。


 曹操が没して曹丕がそのあとを継ぐと、鮮卑や烏桓が国境を騒がしたため、田豫は持節・護烏桓校尉となり、牽招・解俊とともに鮮卑を監督するなど、北方の非漢民族である鮮卑族や匈奴族の対応などでも活躍した。


 田豫のやり方は、非漢民族たちを分割して統治するもので、互いに争わせるべく策略をめぐらせていた。


 また、幽州・冀州を荒らし回っていた山賊の高艾を鮮卑の素利の協力を得て斬り、首を都に送った功績で長楽亭侯に採り立てられた。


「さて、これに乗じて孫権や諸葛亮がどう動くかだな」


 曹叡はそうひとりごちた。


 魏の国力は呉と長安を陥落させた蜀漢を合わせても、まだ上回っていたがその内情は必ずしも万全と言えたるものではなかった。


 それは北や西の異民族は南蛮と呼ばれる南の異民族に比べて魏の領土へ積極的に攻撃をしてくることが多く反乱もたびたび起こしていたからだ。

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