揚州戦線異常なし
この年にはかつては張遼と共に戦っていた曹休が石亭の戦いで大敗している。
張遼は黄初3年(222年)に病が重くなり江都で死去している。
そしてその後、孫権は曹休は呉の得意とする謀略である偽装降伏により曹休を、鄱陽郡の太守であった周魴を用いて計ったのだ。
それまでしばしば後の軍勢を打ち破っていたことが帰って仇になったとも言えるが、周魴の偽装投降の芝居は徹底されつくされたものでもあった。
周魴は曹休に、投降の意思を七通にも及ぶ手紙で伝え、彼の屋敷に孫権の詰問の使者まで訪れさせたり、さらに役所の前で断髪して謝罪させたりというようなことまでも行った。
自分の領内でも芝居をしたのは、魏の間諜が潜り込んでいる事を予測していたわけだがこれは赤壁の戦いにおける黄蓋の苦肉の計にも通ずるが、敵を騙すにはまず見方からということでもあったろう。
曹休はすっかり騙され、豫州の軍事を任されていた賈逵を別働隊として、総勢10万もの兵を率いて呉に進軍させたが、陸遜を大都督とし全琮や朱桓を率いて自ら出陣した孫権に破れた。
曹休は孫権軍がいると知ると、騙されたことを悟ったが、撤退しては恥の上塗りになり、自軍が大軍であることもあって進軍を続けさせたが、陸遜の待ち伏せや、朱桓と全琮による左右からの奇襲によって、壊滅に近い状態になり退路もふさがれた。
賈逵は全速力で救援に赴いて、曹休を救ったが、曹休は賈逵に対して、礼ではなく叱責を食らわした。その理由は、救援に来るのが遅かったという理不尽なものであっって、この二人は以前から仲が悪く、これ以前にも曹休が賈逵の昇進の邪魔までしたことがあったのだ。
この戦いの後、曹休の処分については、皇族の一員であるということから不問とされたが、曹休は大敗したのが余程に堪えたのか、その年の内に背中に腫れ物を発して死亡し、賈逵も同時期に病死したため、揚州には曹休の後任として、満寵が赴任することになる。
遼来遼来と恐れられた張遼に比べれば知名度は低いが満寵も歴戦の軍人である。
曹操が楊奉配下の徐晃を引き入れるときにはり、面識のあった満寵が説得にあたり徐晃は曹操のもとへ帰順して大活躍した。
官渡の戦いの時期には、袁紹の故郷である汝南の太守を任せられ、袁紹の親族や劉備、それらの騒動に乗じて蜂起した劉辟等とも戦った。
その後いろいろあったが、曹仁の参謀として樊城に駐屯し関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあったが、冷静に状況を判断し、徐晃の援軍を得て関羽は撃退、押して後の呂蒙により関羽は捕縛され処刑された。
曹丕の時代にも、呉との戦いで功績を挙げて昇進した。
石亭の戦いでは賈逵の軍に監軍として従軍しているが、満寵は賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となった。
この豫州から揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になったが、曹叡による詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉も不問とされた。
「蜀が長安を落としたと聞いて、孫権は兵を率いてここへやってくるであろう。
その前に呉の将が投降を申し入れてくるかもしれないが受け入れてはならない」
それに対して兗州・青州・豫州・揚州の刺史である王淩が反対した。
「我々に下るというものをすべてはねのけていてはこの後に続くものはいなくなるであろう。
ここは迎え入れるべきである」
満寵と王淩はこれ以前から対立して、王淩は満寵の失脚を狙ったのである。
そして王淩は投降を願い出たものに対して、自らの僅かな手勢だけで迎えに行かせたが、王淩は夜襲により兵の多く失うことになった。
満寵はそれを聞くとため息を付いた。
「だから言ったのだ、現状では受け入れるべきではないと」
そして孫権は蜀の洛陽攻撃に呼応して合肥に攻め寄せる気配を見せたため、兗州と豫州の軍を召集する事を上奏し、それは許可された。
孫権は攻め寄せたが合肥城は落ちなかったため、撤退していったので、こちらも兗州と豫州の軍を撤退させたほうが良いと部下から進言されたが、満寵はそれにうなずかなかった。
「孫権の撤退は偽装だ。
前回は奇襲、今回は偽装降伏と偽装撤退。
だが孫権は演技が下手すぎるな」
満寵のよみどおり孫権は10日ほどしてから再び合肥を攻撃したが備えを怠らなかった合肥の兵に迎撃されて、攻めあぐね、攻撃を諦めて撤退していったのだった。
「これで大丈夫であろう。
兗州と豫州の軍は戻るように伝えよ」
「かしこまりました」
かつて、張遼はあえて空気を読まないことで少数の騎兵で呉軍を打ち破ったが、満寵は正確な洞察でこの後も呉の軍を撃退しつづることになる。
魏の最大の強みは人口の豊富さによる有能な人材の豊富さでもあったのだ。
そして孫権は石亭の戦いの後に陸遜を歓待し、王並の待遇を与えたが、本心では陸遜の名声が自分を超えることを恐れて自ら兵を率いて合戦を行うのだが、
そのたびに敗れて余計に陸遜の名声が高まるのを恐れることになる。
これは諸葛亮を全面的に信頼して全権をもたせた劉禅や、基本的には有能な武将に任せ必要なときは自らも出て敵を撃退した曹叡との羇旅の差というものであったろう。




