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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興12年(234年)
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三国統一

 その後の分裂したした魏は官渡の戦いの後の袁家を彷彿する衰退の道をたどった。


 劉禅は政治を行なうには僻地すぎる成都からまず長安へと首都を遷都した。


「ここにおいて朕は漢の復興を宣言する」


 もともと前漢の首都は長安だったのである。


 孫権のほうは一度兵を引いてしまったことで合肥への侵攻が遅れた上に、満寵や田豫といった名将の抵抗もあって領土拡大が進まない状態であったが、孔明と司馬懿はまずは雍州・涼州・司隸を制圧し、幷州、兗州、冀州も陥落させ、曹肇たちを降伏させた。


 そして父の仇と意気を上げる関索と関銀屏の兄妹などを中心に荊州北部も蜀軍が次々に落としていき、蜀は呉を国力でも圧倒することになったのである。


 この状況であっても劉禅は、即時の開戦による力攻めで魏の曹爽派及び呉をしたげようとはしなかった。


「まずは外交によって大義名分を整えつつ、魏の領土の民心を掌握し、国力を蓄える必要があろう」


 呉の孫権が従えば無駄に戦う必要もないし、孫権はすでに暴君としての兆しを見せていたから呉の国内が揺れるに任せておいたほうが良いであろうという判断でもあった。


 そして孫権は呂壱を重用することですでに臣下のものから心が離れていることに気がついていなかった。


 それでも張昭が生きていいるうちはまだ良かったが彼が死ぬと呂壱の専横はますますひどくなり呉は内部から崩壊していった。


 最終的にはそれに乗じて蜀はまず魏の曹爽派を屈服させ、その後に呉の兵を打ち破って、孫権は捕らえられて処刑され、呉も滅んだのである。


 ここに三国は統一され、漢は再興されたのである。


これにてこのお話は終了です。


三国志演義が孔明の死によってその後がおまけのようになるのと同様、曹叡という人物の死は資質においても魏の命運を終わらせました。

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