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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興12年(234年)
37/41

続・五丈原の皇帝対決

 五丈原において当初魏軍は最低限対応できる兵力として2万を曹宇に与え送り出していた。


 これは諸葛亮の蜀軍とほぼ同等の兵力で、呉の半分ほどの国力の蜀が南の抑えや司馬懿の別働隊などの兵を分けて最大限できる兵力でもあった。


 そして曹叡自身は4万の兵を率いて援軍として五丈原へ現れておりその兵力差は6万対2万となった。


 これだけの兵力差があれば下手に小細工をするよりも正面から押しつぶしたほうが良いという曹叡の判断は過ちではなかった。


 ただし、彼の頭脳をもってしても司馬懿の援軍が間に合うとは思っておらす、劉禅が自ら兵を率いてこの場に現れたのも計算違いであった。


「とはいえ、速度を優先したのであれば何らかの問題はあろう」


 実際に司馬懿は昼夜兼行の進軍を強行し、本来であれば半月はかかる所をわずか8日で五丈原までたどり着いたが、脱落する兵も多くその兵力は5千ほどだった。


 劉禅の方の兵力も成都の守りのために関羽の子供である関索及び関銀屏に兵を預けてきたためこちらも兵力は5千ほどであった。


 だが双方ともその意気は高く魏軍の後方に食らいつくと、その陣を次々と崩していった。


 魏軍近衛部隊は曹操が張魯を破って漢中を奪取したときまでは勝っていたが、劉備との漢中争奪戦で夏候淵が切られた後に曹操も遠征したが結局は撤退しており、曹丕の時代には呉への親政も行ったがこれまた破れていて、勝利の経験がない状態であった。


 そして曹叡が帝位についた後で実際に戦場で敵と干戈を交えるのはこれが初めてだったのである。


 更には前任の曹真が病死して曹宇が権限を引き継いで間もない状況もあった。


 そういった理由もあって兵数では魏軍が大きく勝っていたものの、後方からの攻撃に魏軍は大きく崩れたのである。


 更には魏の謀略によって結果的に父である趙雲を殺された趙統と趙広の趙兄弟や、兄弟が意識不明などになった滄海の怒りはすさまじかった。


「父の敵! ここで取らせてもらう!」


「わが怒り! 思い知れ!」


 敵だ怒りだと言われても魏軍の兵には全く意味がわからないが、その気迫がただならぬことだけはわかる。


 そして劉禅は自ら前へはでず、後方にて声を張り上げる。


「皆のもの! 相父、翻っては我が国の存亡の危機である!

 しかし、ここで逆賊たる曹叡の首を取れば魏を滅ぼすこともできよう。

 奮戦するは今ぞ!」


「おおう!」


「姜維に馬謖よ、我が剣となり敵を討つのだ」


「はっ!」


「一命に変えましても!」


「ふむ、あの孔明が主君と仰ぐだけのことはある。

 負けてはおれぬが……ただ突っ込むだけでは逃すこともあろう」


 司馬懿が狙うのは曹叡の首であった。


 一見劣勢な魏軍だが総兵力ではまだ蜀を上回っている。


「無様なものだな、まずは兵を落ち着かせよ。

 相手は少数だ、まずは正面の敵を押しつぶせ!」


 曹叡は孔明の部隊へ攻撃を仕掛けることを命じた。


「ふむ、こちらを集中して狙ってきましたか、

 ふふふ、だがそれも計算通りです」


 それに対する孔明もまた曹叡の攻撃を受け止めるべく羽扇を振りかざした。


「最後の悪あがきです。

 皆さん今一歩持ちこたえてください」


 こうして五丈原ではお互いの国の存亡をかけた激闘が繰り広げられるのだった。

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