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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興12年(234年)
34/41

曹叡は合肥新城へ親征する

 呉の孫権が10万と号する主力部隊を率いて合肥新城を攻撃、陸遜、諸葛瑾らは荊州の襄陽、孫韶、張承らは徐州の淮陰へ兵を進めているとして、もし合肥新城が落ちれば勢いづいた呉の兵は襄陽や淮陰も陥落させるであろう。


 だからこそ曹叡は満寵の作戦を却下して合肥新城を堅守するように命じたのだ。


「今まで一度も落ちたことのない合肥新城が呉の手に落ちたとなれば、あちらはそれを大々的に宣伝し、こちらの兵の士気を削ぎにかかるであろうからな」


 満寵は優れた武将であるが多方面に渡っての戦略眼までを持ち合わせているわけでは必ずしもなかった。


 とは言え一時的に城を放棄して敵を内部に引き込むという作戦もまた有効ではあるのだが。


 曹叡は近衛の大軍を率いて合肥へ向かっていた。


 そして孫権は合肥新城を攻撃したが、守将の張穎らの前に攻めあぐねていた。


 陸遜、孫韶らはそれぞれ1万程度の兵で、孫権の率いている兵も実際は5万ほどだった。


 この時代兵数を過大に宣伝するのは戦争の常であるが、5万という数は呉が攻勢をかける場合に動員できる最大戦力でもあった。


 曹叡に主目的を見抜かれ、合肥方面の防衛を手厚く行われたことを考えれば、襄陽への派兵はもう少し増やすべきであったかもしれないが、孫権は陸遜だけに手柄を立てさせるつもりはもとよりなかった。


 満寵は諸軍を率いて合肥の救援に向かわんとしたが、このときに汝南太守で満寵の旗下にはいっていた田豫が満寵へ進言した。


「現状では諸軍を率いて救援に向かうのは呉軍の計略に乗る事となり危険である。

 むしろ今は呉軍は進むに任せ、城の守りを固め、敵が攻めあぐねて撤退する時になってから救援の軍を出し、疲弊した所を破るべきである」


 満寵はそれに同意し曹叡に上奏すると曹叡は田豫の策を採った。


 満寵は揚州・豫州・兗州の軍を集結させようとしたが、それを諦め、少数の部隊を引き連れて合肥へと急いだ。


 そして満寵は合肥へと到着すると、数十名の奇襲部隊を繰り出して、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払い、孫権の甥の孫泰を射殺した。


 合肥新城の張穎はよく守っていたがその兵数は数千にすぎず、満寵の救援が無ければいずれ合肥新城は落とされていた可能性は高かったから満寵の判断は正解であった。


 結局、孫権は攻城兵器を焼かれた為に合肥新城に大きな打撃を与えることができずにいた所、曹叡の軍勢が数百里に接近してこともあり慌てて撤退した。


 孫権の撤退を受けて曹叡は西へ兵を返すことになる。


「司馬懿がおれば諸葛亮を押さえ込めるであろうがな」


 こうして呉軍による合肥攻撃ははまたもや失敗したのであった。

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