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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興11年(233年)
30/41

孫権は公孫淵に九錫を授けるが、公孫淵は呉の使者を斬り、その首を魏に送る

 各国にあまり大きな動きがないまま年は変わり建興11年(233年)となった。


 孫権は顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、公孫淵の内通を信じて宿舒・孫綜らとともに太常の張弥(ちょうび)執金吾の許晏(きょあん)・そして賀斉(がせい)の子である賀達(がたつ)らに九錫の礼物と策命書と兵1万を持たせ海上から遼東へ彼等を派遣した。


 孫権は特に賀達に期待をしていた。


 賀斉は揚州南部の反乱鎮圧に多大な功績を上げていたが、非常に派手好きな事でも有名であり、常に上質で豪華な武具を着飾って戦に赴いた。


 賀達、弟の賀景ともにそれぞれ立派な評判があって、優れた部将であり、軍征の度に功を立てた。


 だが、父に似て派手好きな上に身勝手にふるまって掟を破ることがしばしばあったので、爵位を与えられることはなかった。


「そなたには今呂(蒙)子明となってほしいのだ。

 この度の人をうまく全うせよ」


「かしこまりました」


 こうして彼等は船で遼東へ向かった。


「ふむ、小賢しいことをするものだ。

 田(予)国譲に命じて公孫淵を討たせよ」


「かしこまりました」


 田予は再び青州の兵をまとめて幽州へ向かった。


 これを聞いた公孫淵は孫権が派遣した張弥・許晏・賀達らを斬り、恩賞を奪った上でそれらを田予に献上してしまった。


  公孫淵の裏切りに激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、顧雍や薛綜らの諫止により思いとどまった。


 結果は諫止した顧雍・陸遜・張昭らの予想通りであって、張昭は、公孫淵が本心から呉に従おうとしている訳ではないと最初から反対しており、それに対して孫権は張昭の態度に怒って、剣に手をかけたが、張昭は孫策と呉夫人の遺言を理由にあくまで反対を貫いたので、孫権は剣を捨て、御座から降りて張昭と向かい合ったが、結局は使者を出発させた。


 張昭は意見が容れられなかったことに腹を立て、病と称して家に引きこもり、出仕しなくなった。


 孫権は土で張昭の屋敷の門を塞いだが、張昭も負けずに内側から土で門を塞いだ。


 しかし孫権は自らの誤りを悟り、何度も詫びを入れたが、張昭は家に引きこもったままだった。


 さらに、孫権が直接門前から声を掛けても、重病を理由に面会を断った。


 このため、またも孫権は激怒、張昭の家の門に火をつけて脅したが、張昭はますます扉は固く閉ざしたため、孫権がその火を消させた後もしばらくその門の前で待っていたのを見かねた張昭の息子らが嫌がる張昭をかかえて連れだし、孫権は張昭を自分と同じ車に乗せて宮中に帰り、張昭に深く謝罪したため、ここまでされたら、と張昭も通常通りに朝議に参加しするようになった。


 一方曹叡は公孫淵を大司馬及び楽浪公に封じることで手懐けようとした。


「とはいえ、あの男は信用はできん」


 曹叡は毌丘倹を楽浪郡南に派遣して、公孫淵を監視させつつ呉と高句麗の攻撃に備えさせたのだ。

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