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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興6年(228年)
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函谷関にて

 建興6年(228年)孔明と司馬懿は長安を制圧し、陳倉を守る魏将の孫礼が司馬懿を慕って公称20万実質2万の軍を率い投降してた。


 孫礼と司馬昭に長安を任せて、孔明と司馬懿は洛陽攻略へと東へ向けて兵を進めた。


 そしてこれは時間との勝負でもあった。


 兵が加わり膨れ上がるのは必ずしも良いことばかりではない。


「この勢いのままに函谷関を抜き、洛陽を落としてしまいましょう」


 諸葛亮がそう言うと司馬懿もうなずいた、だがその表情はすぐれない


「うむ……兵が増えれば必要な食料も増える、だが……」


「蜀は輸送の困難なこと極まりないのは事実ですな」


 それだけでなく楚漢戦争の頃は秦の領土は農業先進地帯でもあり、その生産力は他の場所に比較して高いと言えた。


 しかし、河北や中原で麦と大豆や米と麦の二毛作が広まり始めると険しい地形の多い益州は収穫で見劣りするようになっていく。


 そういった弱みを補うべく劉備は塩鉄の専売令を出し、安定した品質の銅銭の鋳造を行い、南蛮と呼ばれる地域との交易で経済を活性化させているものの、どれだけの人口を抱えられるかはやはり農業の生産力に負うところが大きい。


 そして魏の度支尚書(たくししょうしょ)という軍事財政を統括する任務を負っているのは司馬懿の弟の司馬孚であり彼は各前線へへ兵員・物資を的確に補充して、兄の戦いを後方から支援していた。


 しかし蜀の補給を行っていた李厳は策士陳羣の謀略にゆらぎ謀反を起こしている。


 どちらの国のほうが後方支援が安定しているかは一目瞭然であり、それが諸葛亮や司馬懿にとっ店舗不安でもあった。


 古来より中国では降伏した兵士をそのまま生き埋めにすることが多いのも、単純に降伏した彼らに食わせるだけの物資がないためであることも多い。


 降伏した兵士の分の食料まで輸送計画に入れて運用するようなことはないのだ。


 そのほかにも魏では司馬氏は重用され河南尹の司馬芝は司馬懿の兄である司馬朗の族兄で、司馬朗に比べると無名な存在であったが、その政策は弱者を救済する公明正大なもので農業政策の重要さを曹叡に説き、信頼を得てもいる。


 そして函谷関は戦国時代末に合従軍により何度か攻撃されているが落ちることはなく、劉邦も函谷関を攻めることなく迂回している。


 もっとも項羽は函谷関をぶち破っているし、その前の陳勝呉広の乱のときも周章(周文)が、それまでは何人も敗れなかったといわれた函谷関を抜いてはいるが、これはどちらも守備兵がすくなかったがゆえにできたことであった。


 洛陽の西は山地で函谷関関の両側は崖になっており、道はとても狭い。


 そして狭い道の底を大軍が進むのは決して良いことではないのである。


 三国志の時代では洛陽が董卓によって焼き払われ、長安は李傕と郭汜の争いで大きく焼けたためもあって、戦国時代や楚漢戦争のような大きな合戦は起こっていないが、函谷関は2層の楼閣と、3重に張り巡らされた高い城壁で構成さ、西からの脅威の防壁として機能していた。


 この関を境に華北は関東と関西に分けられたが日本では箱根を境に東側を関東というのはこれに習ったものである。


 10日ほどで蜀漢軍は函谷関までたどり着いたがそこで待っていたのは皇帝の曹叡と縛り上げられた司馬懿の母や弟たちであった。


 この時代は母親とは一緒にすんでいないことも多く、そもそも遠征に連れていくようななことはしない。


「ふむ、司馬仲達よ。

 我が国を裏切り、朕が与えた軍を持って、朕に刃を向けるか。

 そのためにお前の九族は皆殺しにされることになるのはわかっておろう」


 家族思いな司馬懿にとって母親を真っ先に出してくる曹叡のやり口は汚いといえたがそれだけの効果は高かった。


「むむむ……」


「だが、今なら朕の元へ戻ることを許してやろう。

 ただし隣りにいる男を殺してその首を朕に捧げればだがな。

 そして余生は下手くそな歌でも書いて過ごしておればよかろう」


「それが天子のやることか!」


 司馬懿は軍事政治に通じている万能な人物と思われているが、文学的素養は全然なく、彼の書いた詩はひどすぎると後世でも笑いものになっていたりするのだから、無論これは嫌味である。


 そして曹叡はしれっと答えた。


「朕の祖父である太祖武皇帝(曹操)は徐(庶)元直を引き入れるために、その母親を自分のところへ招き寄せて、己のもとに引き入れたというが、それに問題があるとでも言うのかね?」


 無論それだからといって司馬懿は再度蜀を裏切ることは出来ないし、だからと言って母を見捨てるようなことを言えば儒学の影響の大きい時代ではその名が大きく失墜する。


「ぐぬぬ……」


 歯ぎしりする司馬懿にたいして曹叡は冷酷に告げた。


「ふむ、司馬(孚)叔達よ、鄧(艾)士載とともに逆賊となった兄を討て」


 司馬孚にも思う所はあったが、母親も自分自身の妻子も人質になっている以上その名に逆らうことは出来なかった。


「はっ!」


 そして鄧艾は吃音のせいで周りから疎ましがられたため中々出世できず、苦学して典農の属官である稲田守叢草吏となることができた、彼は高い山や広い沼地などを見かけると、いつも軍営を設置するのに適当な場所を探そうと測量を行ない、それを地図に書き記していたが、その当時、彼のこの行動を奇異であるとして嘲笑する者が多かったという。


 しかし、司馬懿に謁見でき、司馬懿は彼の才能を高く買い、属官に任命し、次いで尚書郎に昇進させた。


 その司馬懿の裏切りは彼には許せないことであった。


「司馬(懿)仲達よ、なぜに天子よりお借りした兵を持って、天子に害をなさんとするか!」


 彼は司馬懿を尊敬していたがゆえに、その裏切りは許せなかったのだ。


 鄧艾は強情かつせっかちで思い込みの激しいはた迷惑な性格であったことも司馬懿に災いしたのだった。

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