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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興10年(232年)
28/41

孫権は本格的に公孫淵から馬を求め、曹叡は田豫を用いてそれを阻む

 孫権は昨年夷州・亶州の探索が失敗に終わったこともあり、将軍である周賀と校尉である裴潜(魏の人物とはまた別人)を使者として、海上から遼東におもむかせた。


「やはり、公孫淵との同盟は重要だ、うまく説得してこちらにつくように仕向けよ」


「かしこまりました」


 二人は絹や綿・茶など南方の珍品を積んだ船で遼東へ向かい馬と絹などの交換を成功させた。


「ではこちらからも返礼の使者を贈ろう」


 公孫淵は返礼の使者として校尉の宿舒(しゅくじょ)・郎中令の孫綜(そんそう)に名馬と毛皮を持たせて呉に臣従する意を示すために周賀らに同行させ、呉へ向かわせた。


「ふむ、あまり良い動きとは思えぬな。

 田(予)国譲にめいじて討たせよ」


「かしこまりました」


 田予(でんよ)幽州漁陽郡出身で劉備・公孫瓚に使えたあと曹操・曹丕・曹叡に仕えた人物である。


 黄巾の乱において劉備と旗揚げをともにしながら、曹丕の時代には、北方の非漢民族である鮮卑族や匈奴族の対応でも活躍しており、今でも一線で活躍している人物である。


 田予は青州の諸軍を率いて山東半島にある港の成山で待ち伏せを行い周賀は討たれたが、宿舒らはなんとか呉に到着し、そのまま孫権に謁見して、孫権は彼らを賓客として最上級に対応でもてなした。


「うむ、よく来られた、ゆっくりとされるがよかろう」


「ありがとうございます」


 しかし、宿舒と孫綜がわざわざ返礼の使者として呉に出向いたのは、臣従という名の同盟を結んで本当にメリットが有るか、呉が本当に魏に対抗できる力を有しているかどうかを実際に見るためでもあったが、呉の土地が予想以上に山だらけで農業に適しているとはとても言えず、呉の力を当てにして魏から独立しようとしても遠すぎて、魏によって先に攻撃されるのは明らかに自分たちであるという事実を知っただけであった。


 さらに田予により周賀が討たれたことも問題だった。


 魏には有能な人材が多数いたが、呉にそれに対抗できる人材が揃っているようには彼らには見えなかったのである。

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