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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興9年(231年)
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曹叡は籍田を施し、劉禅はそれを見習う

 年が明けた建興9年(231年)、魏では天子である曹叡が正月に天地と明堂の祭祀を執り行い、次に柵を築いての狩りを催し、陵まで赴き、世祖に太牢を捧げ、祀った。


 太牢とは、古代の帝王が天地の神を祀る際に捧げる供物のことで、牛、羊、豚の三種の家畜の生贄を揃えたもののことである。


 更に春になる問祖霊を祀る宗廟に供える穀物を、天子みずから鍬を持って耕作を行い、その後に種まきをする儀式である籍田(せきでん)が執り行われた。


 なお、魏の領域では支配が及んでいる荊州や揚州の北部くらいしか米は栽培できないので田に植えられる主なものは粟や稗である。


 粟稗は生命力が強く稲を栽培している水田でもたくさん生えてくるので、そういった農場では強害草として嫌われているが、裏を返せばそれだけ手を加えなくとも自然に成長し、収穫をできる可能性の高い穀物であるということでもあり、この時代においてはまだまだ重要な作物であった。


「天帝もなにとぞ照覧あれ、昨年は凶作であったゆえ、今年はなにとぞ豊かな実りをねがいまする」


 昨年の秋、穀物の収穫期の大雨で秋に収穫を行なう麦以外の稲粟裨黍などには大きな被害が出ており、麦については初夏になるまでは、まだ収穫ができないことから飢えるものが出そうな状況である。


 だからといって兵士を減らして農民に振り分けるということができる状況でもなく、戦乱地域から逃げてくるものに屯田を行わせるくらいしか出来ないのも実状である。


 それゆえに今年曹叡は自ら鍬を持ち田畑を耕して穀物の種を蒔いて、今年は豊穣なる実りがあることを願ったのである。


「天の怒りは我の不徳というところか」


 曹叡がそのように愚痴をこぼすと陳羣はいう。


「実際は天候はどうにもなりませぬからな」


 いずれにせよこの時代では干ばつ、冷夏、大雨などの苦難続きの農民たちは、天子自らが田畑を耕すことや、昨年の妻のない男、夫のない女、孤児などの税を免除し、婚姻を結ばせ、孤児を養子にするように勧めせた政策や、土木工事の賦役に参加した者に食事と多少の日当を与えるという政策などでそういった農民たちを慰撫したのである。


 それを聞いた劉禅も同じことをしようと決めた。


「蜀でも長雨で被害がでておるからな。

 朕も民を慰撫するために籍田を執り行おう」


 楊儀はそれに深くうなずく。


「それは誠に良きことかと」


 劉禅やその側近たちが皆で田畑を耕すと、それを見聞きした蜀の民の間でも、もう少し頑張ってみようという風潮が生まれるのであった。


 その一方、呉において孫権が同様な行いをすることはなかった。

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