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新三国志 退廃帝曹叡と賢英帝劉禅  作者: 水源
建興7年(229年)
16/41

呉の皇太子孫登は己の状態にしばし悩む

 孫堅の長男である孫登は、生母の身分が低かったため、孫権は正室である徐夫人に養子として育てさせ、その結果、彼は孫権の嫡男として扱われていた。


 彼は221年、孫権が呉王に封じられたときと同時に、魏から東中郎将の官位を与えられ、万戸侯に封じられたが、このときは病気を理由としてそれを辞退している。


 また魏は孫権にたいして孫登を人質に差出すように要求したが、これは孫登がまだ若すぎるという理由で拒否しているが、実際は魏への臣従は仮初のものでしか無かったからだろう。


 同年に孫権は孫登を正式に王太子とし、孫登の周りには諸葛瑾の息子の諸葛恪、張昭の息子の張休、

顧雍の孫の顧譚、陳武の息子の陳表ら優秀な若者が集められていた。


 225年に孫権は孫登の妃にかっての赤壁の戦いの功臣である周瑜の娘を迎え彼女は周妃と呼ばれるようになる。


 ただし最初の妃である周妃は早くに死去しており、その後に孫権が孫登の妃に相応しい女性として芮玄の娘を選んだのだが。


 そして、孫登は孫権が帝位について、建業に遷都をしたあとも、孫登と尚書の役所は武昌に留められたが彼は、陸遜や是儀(しぎ)や諸葛恪達、側近と相談した上で懸命な判断を行い、問題なく統治を行っている有能な人物であった。


「なんとかうまく行っているのも陸(遜)伯言や是(儀)子羽のおかげだな」


「いえいえ、それは太子様のお力ですよ」


 ただし、この頃は次弟の孫慮のほうが孫権に寵愛されていて、孫登の立場は微妙であった。


「ふぅ、私が皇太子でいられるかどうかは現状微妙なところかもしれないな」


「そんあことはございますまい」


 しかし、孫登は臣下のものに対して、君臣の礼を超えた付き合いをしたといわれ、同じ車に同乗したり、寝食をともにしたりもし張温の薦めにより中庶子の官が設置され、陳表達がそれに就任すると、孫登は中庶子達が君臣の礼に捉われ過ぎているとして、頭巾をとるよう命じたりしたが、皇帝という立場についた孫権から見ればこれはあまり良いことには見えなかった。


 この時代の車への同乗というのはよほど信頼している同格の人間にしか許されないものであったのである。


「皇帝には皇帝らしいふるまいがあるというものだ。

 そのあとを継ぐ東宮があのように振る舞うのはどんなものだろうか?」


 それを聞くと張昭は孫権にいう。


「皇太子殿下が皇帝らしくないふるまいをされておられぬとおっしゃられますが、野原を駆けて虎と戦う皇帝がどこにいらっしゃいますでしょうか?」


「ああ、そんな事もあったな」


 孫権はおまえが言うな案件が多すぎて張昭にはさんざん諌められているのである。

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