曹叡は大月氏の朝貢を受け入れ、民衆を慰撫する
前漢の孝文帝の時代に匈奴の征討に遭い、月氏王が殺されて、それによって集団は二手に分かれた。
そのうちのひとつはがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつは南山羌に留まって小月氏となっった。
大月氏は最終的に中央アジアのソグディアナ(粟特)に居を定めたが、その頃前漢は日々北方の匈奴の侵入に悩まされていたため、共同で匈奴を撃つべく、武帝は使節団を西域に派遣した。
しかし、時間が経ちすぎたこともあって、すでに復讐の心は無く、その国家は安泰しており、漢がもはや遠い国でしか無かったため、軍事的な同盟を組むことはなかった。
そうしてその後はあまり縁のなかった大月氏だったが、229年に大月氏国の王である波調が使者をよこして貢物を献上したので、曹叡は波調を新魏大月氏王に任じた。
「絹の道の交易路を抑えておくことも重要ではあるな」
曹叡がそういうと陳羣もうなずいた。
「そうですな」
ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路は漢の時代には既に完成しており、中央アジアのオアシスを相互に結びつけて形成されたそれは、東アジア・インド・中央アジア・西アジア・エジプトやローマなどのヨーロッパまでを結ぶ交易における幹線道路であって雍州や涼州はその東の端に位置する。
大月氏の支配地域は、中国・インドなどとヨーロッパや西アジアなどの間を結ぶ交通路の大部分を占めていたため、この地の隊商による貿易は莫大な利益をもたらし、オアシス都市は繁栄するのである。
そして諸葛亮の北伐にはその交易の権利を魏から奪うことも含まれていたのだったが、長安陥落後の洛陽攻撃を優先しすぎたことでそちらは失敗したのである。
もっとも曹叡が曹丕と同程度の軍事的才能しか持っていなければ、曹丕の急逝による混乱によって洛陽は陥落し、雍州や涼州は蜀漢の領土になっていてもおかしくはなかった。
それでも冀州などの豊かな地域はまだ健在であったが。
そして曹叡は告げる。
「先の戦で民も疲弊しておろう。
妻のない男、夫のない女、孤児などの税は今年は免除せよ。
なお妻のない男と夫のない女は婚姻を結ばせ、孤児を養子にするように勧めさせよ。
今年はまだ大きな戦は起こらぬであろうからな」
陳羣は首をかしげる。
「よろしいのですか」
曹叡は陳羣の言葉に答えた。
「なにとりあえずは今年だけだ。
そして家族を作ればそういった者も働かざるを得なくなろう」
陳羣は深くうなずいた。
「そのとおりでございますな」
曹叡は兵士や農民の数を確保することが国力そのものであることをよく理解していた。
劉禅に諸葛亮や司馬懿、そして孫権にとっては先帝である曹丕より曹叡はよほど厄介な人物であったのだ。




