つかの間で見せかけの平穏
孫権が帝位についたことで中国大陸にはつかの間で見せかけの平穏が訪れていた。
蜀では呉を討伐しようという声の高まりとは裏腹に孔明は陳震を呉へ送って早急な同盟の再締結を計っていた。
夷陵の戦いのときに曹操が蜀に対して行動を起こさなかったのは当時に曹操はそれどころでなかったからである。
そうなった原因は218年に荊州南陽郡では太守である東里袞が曹操に認められようとして領民に過酷な賦役を課し、それに不満を抱いた侯音が関羽と通じて反乱を起こしたことからはじまる。
侯音は翌年219年に樊城を守る曹仁によって斬られたが、これにより南陽郡における曹操の支配がゆらぎ軍が動揺する事になった。
更に同年、定軍山の戦いで劉備は夏侯淵を切り漢中争奪戦に勝利して漢中王を称した。
それにより関羽は前将軍に任命され、独自行動の軍権を得た関羽は南陽郡に進軍を開始する。
この時樊城は曹仁が、襄陽は呂常が守っていたが、曹操は関羽の進軍を知って于禁を大将にした軍を援軍として派遣し、曹仁も龐徳を遊軍として城外に出して関羽と戦わせた。
この時の長雨で漢水が氾濫し、于禁軍の多くが水に飲み込まれ、于禁は高地に上ることでなんとか難を逃れたが、関羽が水軍を使って攻撃してきたために、3万の兵とともに降伏した。
一方の龐徳は配下の董衝や董超らが降伏しようとするとこれらを斬り、あくまで抵抗を続けたが、配下の将が関羽に降伏して孤立無援になると、舟を使って曹仁の樊城に逃れようとした。
しかし彼は、捕らえられて斬られた。
このときまで于禁は魏の将軍でも筆頭格であったが、降伏によって大きくその名を落とすことになる。
関羽はそのまま樊城と襄陽を包囲し、樊城も洪水により城壁の上部まで水没し、孤立無援の状態に陥っていた。
これにより曹操の支配地で反乱が起こり、曹操は動揺し遷都を考えるようにすらなった。
赤壁の戦いの敗北の後の曹操は全体的に精彩を欠いていて、郭嘉や荀彧と言ったそれまで彼を支えてきた参謀ももういなかった。
しかし曹操の参謀である司馬懿と蒋済はこれに反対し、217年から曹操に形式上臣従していた孫権に関羽の背後を突くことを勧め、江南に孫権を封ずることを許せば、樊城の包囲は解けると進言した。
実際にに215年の孫権と劉備の荊州争奪戦などによりすでに孫権と関羽の仲は険悪化しており、更には217年に魯粛が死去して呂蒙が都督になっていた。
呂蒙は長江を超えて曹操と徐州を争ってもたいして得るものが無く、荊州より関羽を排除して長江に拠った方が孫権のためになると進言しており、孫権もこの意見を尤もだと認めていた。
更に関羽は傲慢な性格で孫権を格下であると軽視しており、関羽の娘と孫権の息子との婚姻を申し入れた際、関羽はこれを断り孫権を怒らせたうえに、関羽が孫権の率いた援軍が遅れたことを怒鳴ったことなどもある。
さらに関羽が呉と蜀の国境となる長沙郡と零陵郡の境にある湘関の米を収奪したことが孫権が関羽に対する攻撃を決定した原因である。
孫権は呂蒙を先陣として荊州へ秘密裏に進軍し、その頃関羽の本拠地の江陵・公安は関羽が不在になっていた上に、さらに関羽に反感を抱いていた守将の糜芳と士仁らが寝返り、あっという間に荊州の関羽の支配地は孫権に奪われた。
そのころ樊城では長雨のために城壁が水没し、関羽が水軍を使って兵糧攻めを行なっていたために食糧も尽きかけていた。
曹操は新たに徐晃に5万の軍勢を与えて援軍として繁盛へ送り込んだが、このときの徐晃の軍は徴兵されたばかりの新兵中心の編成のうえ寡兵であった為、独力での攻撃は行なわず更なる援軍を待ちつつ地下道などを用いて曹仁との連絡を取ったうえで、徐商・呂建らが更なる援軍として到着すると、徐晃は攻勢に移った。
その後も、曹操は徐晃に少しずつ援軍の追加派遣を行っているが、曹操の援軍が小出しであったのはは、定軍山の戦いの敗北や、于禁軍の全滅の損害がおおきく魏軍がそれを立て直すのに時間がかかっていた上に反乱鎮圧にも苦労していたという事情があった。
関羽は徐晃に野戦を挑んだが、徐晃はこれを打ち破っり、退却する関羽軍医追撃を行って関羽に大損害を与えた。
関羽は樊城から撤退したがその頃には荊州を孫権に奪われたことを知り、関羽は益州に逃れようとしたが、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、麦城に拠った。
孫権から降伏勧告受けると、関羽は一度偽って降り遁走したが、孫権は潘璋·朱然を派遣して関羽の退路を遮断し、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、関羽および子の関平を捕らえた。
関羽と関平は斬首されて、その首は、孫権の使者によって曹操の下へ送られた。
こののち、呂蒙は関羽の怨霊に呪い殺され、曹操は関羽の亡霊に悩まされ衰弱死することになる。
それはともかく曹操は孫権を荊州牧とし、荊州の支配が認められ、劉備はは荊州を完全に失う事となる。
そして222年、劉備は関羽を殺された怒りによる報復と荊州奪還を目的として軍を進め、呉の孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが、軍の大半と数多くの人材を失う歴史的大敗を喫したが曹操はまだ積極的に動けないでいたのだ。
そういった状況であった夷陵の戦いの前後のときと現状は違い、長安を奪取したものの、雍州北部を奪回されて補給線を切られそうれそうな状態で、呉との開戦を行うわけには諸葛亮には絶対にいかなかったのだ。
陳震は衛尉に任じられると江東へ早速向かったが、諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を送って述べ、「孝起の誠実純朴な性格は老いてますます固いものがあります。東西の友好を促進し、なごやかに喜びをともにする時代において、貴重な存在といえましょう」と書いている。
夷陵の戦い以前には馬良が同じような任務にあたっているが、彼は夷陵の戦いの際に殺されており、外交能力に優れた人物が多いとは決して言えないのも蜀漢の悩みの1つであった。
陳震は呉の国境に入ると、関所役人に布告の文を渡して告げて、両国の友好関係を発展させ、国家の制度の異なるところ事情をくみとって適切な指示をたまわるように丁寧に挨拶をした。
そして陳震が武昌に到着すると、彼の行動を伝え聞いた孫権は陳震とともに祭壇にのぼり、いけにえの血をすすって盟約し、魏を打倒した後の天下を分配を決めた。
この際は徐州・豫州・幽州・青州は呉に所属させ、并州・涼州・雍州・冀州・兗州は蜀に所属させ、司隷の土地は函谷関をもってその境界としたのである。
「まずはめでたいことでございます」
「うむ、まことめでたい」
陳震はギリギリの落とし所としてこれにうなずいたが、孔明としてはできれば司隷全部を蜀に帰属させてほしいところであったろう。
洛陽は魏の首都であると共に漢の首都でもあったのだから。
無論、どちらも皇帝は一人でいいと考えていたから、最終的に盟約通りに魏の領土を分け合うつもりは両国にはなかったわけだが、この時曹叡は表立っての行動を控えていたのでつかの間で見せかけの平穏が落とずれていたのである。




