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退院の手続きを母に任せ、ロビーで座って待っている間も、胸に淀んだままのものに酔っている気分だった。ホットコーヒーで手を温め、気を紛らわせようとレイラを思い出していると、視界に誰かの革靴の先が入り、止まった。
「退院できてよかったじゃないか。彼女の力かな?」
落ち着いた声に振り向くと、小振りのスーツケースを手にした男性がいた。焦げ茶色のコートとハットで、紳士的なスタイルをしていた。灰色の髪を覗かせ、口周りと顎には髭を綺麗に蓄えている。鍔下から覗く澄んだ青い瞳は優しく、不思議と、家族の様な温かさを感じた。
首を傾げるアクセルに、男性は微笑む。
「久しぶりに美しいものを見た。絵画の様だった。何せ、厳しいものばかり見るもんでね」
彼の言う事がよく分からず、アクセルは目だけで動揺する。
「この時間にお困りなら、答え合わせを頼みたいんだが」
「……おじさん大丈夫? 俺の採点は厳しいぜ?」
尚の事おもしろいと、男性は静かに、しかし楽し気に頷いた。どこにも怪しさを感じない、寧ろ楽しそうな彼に、アクセルは安心してしまう。不意に舞い込んだ時間はいい暇潰しだろうと、のってみた。
男性は顎に手を触れ、真剣な眼差しになる。
「お互い、まだまだぎこちないが、想い合ってるんだろう。彼女の気遣う様な触れ方に似た動作が、君にも見られた。お互いにとって、どうするのが心地いいのかを知ってるのか」
アクセルは紙コップを落としかける。男性の先程までの温かい眼差しは、温度をどこかに残しながらも、貫いてくる様だった。
「急かす様な事もしない。何が相手にとって不快かも、分かってる」
アクセルは首を左右させ、思わず口を開きかけたところ、男性が緩やかに人差し指で止める。
「だから君は、何かマズい事を彼女に言ったかもしれないと、すぐに気付いた。そして情報を処理し、適切な言葉を見つけようと、顔を逸らした。腹を抱く様にしたのは、自分をハグして安心させるため。大丈夫、きっと良い言葉を探せる、と」
途端、レイラとの時間が鮮明に蘇ってくる。ただその時の映像を見るのではない。もう一度、その時の自分の立ち位置に、そのまま置かれている様な感覚だった。
「でも、眉が寄った様子からだと、ベストな言い方が浮かばず苛立ったのか。そして心配が増し、口を噤んでしまう。ぐっ、とね」
男性は漸く間を置くが、アクセルは、もはや何を切り出す気にもなれず、彼を見上げるしかできなかった。それを揺さぶる様に、男性は、まだあるぞと悪戯に口角を上げる。
「これは男性によく見られがちなんだが、襟を引っ張ったりする動作がある。君はどちらかと言えば触れただけだったが、とにかく、何か気になる事があったんじゃないか。気になるあまり、鼻や顎にも触れた。そうする事で落ち着きを求める。そしたら」
男性の楽し気な話し声で、レイラとの時間がどんどん紐解かれていくと、アクセルはむず痒くなる。
「彼女にもそれが移ったみたいだ。彼女の交差していた足に力が入ると、君と同じで、腹をハグする様に抱えた。どうにかしたくなったんだろう。何も言わなくなった君をね。太腿に手が移り、擦るというか、搔く様な動きがあった。そうする内に、彼女の方が先に良い手が浮かんだんだ」
アクセルは視線を逸らし、空笑いする。本当なら、自分からハッキリと約束をしたかったところを突かれている様で、顔を見せられなくなる。
「彼女は鞄を背に回し、互いの距離が縮まった。そして君は、それに救われて、横になるみたいに首を傾けた。やっとリラックスできる、といった具合にね」
「もういいって!」
「いや、最後だ。君もまた距離を詰めるんだ。もう詰めきれないのに、毛布をどかしてでも。だがこれは、近寄りたいだけじゃない。視界から障害物をどかすのと似た様なものだ。相手をもっと見やすくする。そしてそれは、彼女も同じだったのかもしれない」
アクセルは立ち上がると、男性はすぐさま滑らかに訊ねた。
「君達は、付き合ってはいないんだろう。だが、そういう小さなアクションを、デートとして自然にカウントしてる様に見える。そして、あたかも、そういう関係にあると自分を誤魔化してる様にも。でも、知り合ってから長そうだ。望むところに辿り着けないのは、互いに慎重派だからかもしれない。そうなるのは、好きってもんじゃなく、愛してるが故にだろう」
「おじさん、エロ親父って言われるだろ。Dマイナスだ! Fでもいい!」
アクセルは彼に噛みつく傍ら、動悸や、変に吹き出す汗を、コーヒーごと一気に飲み干した。
※高校でよく使われるのはA, B, C, D, Fの評価で、その中でも細かく+や-が添えられたりします。ちなみにEが飛ばされている理由には、優秀や合格といった単語を連想させるというものがあるそうです。Fには不合格や落ちるといった単語を連想させ、他のアルファベット同様、誤解をされる確率が低いのだそうです。
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