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スライムなダンジョンの閑話集  作者: 再藤
また始まる前の、後日談
35/35

「蠢動。そして」

 その場に足を踏み入れた瞬間、ヴァルトルーテは全身を奇妙な感覚に包まれた。

 世界に満ちる魔素。

 その一切が周りから失われてしまったかのような感覚。


 だが、実際にはその逆だということを彼女は知識として承知していた。

 この場所には魔素が満ち溢れている。あまりに濃密に存在しているために、かえって存在していないのではないかと錯覚をおぼえさせる程に。


 始原の地。

 世界を創造した精霊達が、はじめて生命を作りだしたとされる場所。

 この世界に生きるものにとって特別な意味を持つはずのその空間は、一見なんの変哲もない拓けた場所でしかなかった。


 元々、エルフは過度に装飾する習慣を持たないが、碑文や祭壇どころか、仕切りさえ存在しない。

 その必要がないからだった。

 そんなもので飾り立てなくとも、エルフが精霊やその成したことに対する尊崇を忘れるはずがないし、わざわざ立ち入りを禁じなくとも、この場を荒そうとする輩がでるはずもない。


 賢人族と人間達から呼び表される森の一族は、自分達では別の名称を好んで用いることが多かった。

 ――精霊の使徒。そう名乗っている。


 場には数名の姿がある。

 円座を組むようにして囲んでいるのは、一族のなかで長老と呼ばれるエルフ達だった。

 外見は一様に若々しい。


 エルフには不老という種族的な特性がある。

 でも。ヴァルトルーテはぽつりと胸の裡で呟いた。不死ではない。そして、不老というのも肉体だけのことだ……。


 実際、彼女の視界に映る長老達はひどく老いていた。老いて、疲れていた。

 肉体的にはなんの変化もないからこそ、精神的な加齢は一層ありありとして、顕著にそれを感じさせるようだった。眼差しは深い失望と悔恨に濁っている。


 泥をかき回すように、長老達の声が耳に届いた。


「――精霊様方の様子は――」

「――混乱。この一言に尽きる――」

「――天の三精霊様は――」

「――変わらん。創世以降、彼の方々が姿を現したことは一度もない――」

「……外の様子はどうだ」


 最後の言葉は彼女に向けられたものだった。

 全員の視線が自分に突き刺さるように感じられて、背筋を伸ばす。心持ち、視線を伏せるようにして答えた。


「混乱しています。しかし、」

「しかし?」

「その混乱はどちらかと言えば……精霊や、それに対することではなく。世界中にばら撒かれた、代物についてのものです。金の欠片――人間が貨幣として使っているものとひどく似た代物が、場所や種族を問わず、世界中に配られ、そのことで大きな混乱が起こっています」

「竜め」


 呻くように、一人の長老が吐き捨てた。


「いったいなにを考えている。突然、わけのわからないことを喚いたかと思うと、人間の真似事をして。この世界を自分の庭だとでも思っているのか」

「思っているのだろうよ」


 白けた口調で答えたのは、浮いた雰囲気を漂わせたエルフだった。

 他の長老達と違い、まとった気配に老いや疲れを感じさせない口元は、世の全てを皮肉るように歪められている。


「竜にとってはこの世界など玩具のそれだ。自分のやったことで下界にどんな混乱が起ころうと、いったいどれほどのことがある?」

「他人事のような物言いだな」

「客観的な意見というだけさ。我らが得意としていることはそれだろう?」


 からかうように返され、発言者が不満そうに沈黙する。

 道化るような笑みを表情に刻んだエルフは、同じように渋い顔を見せている一同を見まわしてから、ヴァルトルーテへ視線を転じた。


「――ヴァルトルーテ、報告をありがとう。そして、どうやら我々は君に謝らないといけないようだ」


 穏やかな口調で告げる。


「君が以前から主張していた通り、我々はもう少し外に目を向けるべきだった。であれば、このような事態にならなかっただろう」


 それを聞いた別の長老が眉を吊り上げた。


「我々に事態の責任があると言うのか」

「さあ、それはどうだろう。しかし、今のように無様に右往左往するような“事態”にはならなかっただろうな。……今回の事件は我々の関知しないところで起こり、そして終わった。最後まで我々は全く蚊帳の外だった」


 皮肉に歪められた表情を強く、若い長老は返した。


「この世界の在り方そのものが変わるような大事件があったというのに、我々はそれに関わることが出来なかった。それどころか、ヴァルトルーテ達が独自に動いてくれていなければ、いまだに何があったかすら把握出来ていなかったかもしれない。その一点だけでも、我々は彼女達に感謝しなければならないはずだ」


 それに、と続ける。


「皆、彼女が伝えてくれたことを忘れたわけではないだろう? 金の大精霊様がなにをおっしゃり、なにをなさろうとしたか」


 長老達の顔が一斉に歪んだ。


「大精霊様は、精霊の教えという“言葉”ではなく、人間達が好んで使う“金”を用いようと判断なされていた。我々はこう言われたわけだよ。お前達ではもはや『精霊の代理者』として力不足だ、とね」

「……他の大精霊様方までそれに同意されたわけではない!」

「その通り」


 悲鳴のような反発に若い長老は悠然と頷き、


「だから、今も大精霊様方は奥で話し合いをなさっているのだろう。だが、そのこと自体がすでに前代未聞ではないか。今まで、精霊様同士で意見が異なるということはなかったはずだ。ようするに」


 唇を吊り上げる。

 ほとんど嬉々としたように引き裂かれた口唇から、致命的な言葉がもたらされた。


「我々がこれまで尊び、奉ってきた『この世界の在り方』は破綻しかけている。いや、すでに破綻しているのだ。ヴァルトルーテ、君が言った外の世界で起こっている混乱というのも、つまりは“金”のことなのだろう? “精霊”ではなく」

「……はい」


 ヴァルトルーテは正直に頷くしかなかった。


「世界中にばら撒かれた――竜の金貨は、人間達のあいだで取引されていたようですが、最近では、それに魔物が関わり始めているようです」


 怪訝そうに眉をひそめる長老達に補足する。


「以前から、魔物の一部で人間を倣って貨幣を用いようとする動きがありました。今回の出来事は、その動きを急激に加速させるものになると思われます。つまりは、」

「――この大陸の全てで、人間のように“金”が使われ始める。か」

「……恐らくは」


 長老達から深いため息が漏れた。


「貨幣などと。あんなものは、際限なく欲望を増長させる代物だ。そんなものが世界中に蔓延ってしまえば、世界は――」

「だが、終わらない」


 厭世するような独白を若い長老が遮った。


「やがて必ずこの世界を滅ぼす瘴気。それの発生を最低限、抑えるために――少しでもこの世界を長く保たせるために。我々は節制を尊び、“精霊の教え”としてその必要性を教えてきた。魔素という身に余る力を抑制しなければならなかったからだ。しかし、そんな必要はなくなった。何故なら、瘴気はなくなってしまった」


 どこか気の抜けた表情で肩をすくめて、


「なるほど。そうなってしまえば、確かに精霊の教えは必要ないのかもしれない」


 呻き声が上がる。

 若い長老はそれを皮肉そうに眺めて、


「不満かね。だが、実際にそうだろう。外の世界で騒がれていることは精霊や瘴気ではない。もちろんまだ事態に気づいていないということもあるだろうが……今や外の連中の関心事は“金”だ。“精霊”ではなく」


 皮肉っぽい笑みを寂しげに移ろわせ、頭を振る。


「これはつまり、思想の質的変換ということなのだろうな。“精霊”から“金”。精神的なものから物質的なものへの転化。我々はその渦中にいるのだよ。古き良き時代は終わりを告げ、今やこの世界は変質してしまった。そして我々エルフは――」


 そこで言葉を切り、ぐるりと一同を見渡して、


「その変化にはっきりと取り残されつつある。精霊から見放され、他種族との交わりも絶ってきた我々だ。“使徒”と“教え”の二つはエルフという種族の根源に位置していたものだった。存在意義と言ってもいい。それを損なおうとしているのだ。そして我々はまさに、世界から忘れられようとしている」


 若い長老が口を閉じた。

 ヴァルトルーテは相手の表情の変化に気づいた。

 それまでどこか投げやりだった眼差しに、明確な感情が映り込んでいる。改めて若い長老が口を開いた。


「――諸君、それでいいのか」


 沈黙。

 渦を巻くように気配が立ち上がる。

 怒り、悲嘆。

 それに類する感情が魔素を介してその場に充満し、ヴァルトルーテは息苦しさを覚えた。


「……いいわけがない」


 ぽつりと一人が呟く。すぐに他が続いた。


「いいわけがないぞ……!」


 堰を切ったかのように、次々に長老達が口を開く。


「人間。そして“金”だと? 連中にこの世界を導くことなど出来るものか。やがて自らの欲望に身を亡ぼすのが関の山だ。それも世界を道連れにして!」

「そうとも! たとえ瘴気がなくなろうと――いや、だからこそ、自らの欲望を抑える術を持たなければならない。そうでなければ、また別の滅びが訪れるだけではないか」

「我々は。そして、“精霊の教え”は意義を失ってなどいない! 今、このような時だからこそ、教えが必要とされるべきなのだ!」


 欝憤を晴らすかのように声を荒らげる。

 自然と視線が集まったのは、長老達のなかで一度も喋っていない唯一の人物だった。

 もっとも老いを感じさせるその若い老人が、ゆったりと口を開いた。


「……我々は、誤った」


 砂地を吹く風のように乾いた声で、


「誤った。それは事実だ。過ちは認めなければならない。だからこそ――今度は、我々は過つべきではない。我々には、果たさなければならない責がある」

「責とは?」

「もちろん、この世界を導くことだ」


 静かに、だが固い覚悟を秘めた言葉が宣言した。


「我々は精霊の使徒である。この世界は精霊が創りたもうたものだ。ならば、その世界の在り方をより正しい方向へ導くよう努力しなければならない」


 ヴァルトルーテは最長老と目されるエルフの言葉を黙って聞いていた。

 相手の発言は個人のものばかりでなく、今後の一族の指針になり得る。

 そのなかで、自分の知人達についてどのような判断がなされるか、緊張とともに彼女は待った。


 そして、


「――同時に、我々は精霊以外のものがこの世界の在り方を変えることを、そして変えたことを許してはならない」


 もっとも恐れていた言葉を耳にして、彼女はきつく目を閉じた。


 言葉が続く。


「精霊を喰らったという、不定形。その不定形を作った人間。たとえそれが結果的に、瘴気がなくなりこの世界が滅びの定めから逃れられたとしても、我々は決してその存在も、行いも認めることは出来ない。――明らかに、その両者は我々の“敵”である」

「それは、」


 思わず反駁しかけた言葉を飲み込む。


「ヴァルトルーテ、なにかあるかね」

「……いえ」


 彼女が答えると、長老達は各々が近くにいる者同士で語り始める。


「だが、その人間というのは、例の黄金竜の恋慕している輩なのだろう。竜の怒りを買うことになりはしないか」

「なに、竜が人間如きに本気になるはずがあるまい。たとえなったとして、すぐに飽きてしまうだろうよ――」

「――それ以外の人間達への対応はどうする」

「――確か、我々の血を引くと喧伝している国があったはずだ。あれを使えばよい――」

「――まさか。あんな連中を我々の同朋と認めてやるとでも――」

「――仕方あるまい。人間どものなかには精霊を崇めない不届きな国もあるという。それらに対抗させるためにも、人間の国に協力者が必要だ――」

「――その通り。精霊への反発者。それに対する反動もあるだろう。未曽有の混乱に、今こそ精霊の教えが必要だということを我々は教え諭さなければならない。その尖兵となる相手が必要だ――」


 再び始まった、長老同士の話し合いの場から、ヴァルトルーテはそっと遠ざかった。

 浮かない顔で歩き、少ししたところで自分を待っている人物に気づく。

 腕を組み、斜に構えたように立つその相手が口を開いた。


「どうだった?」

「……良くないことになりそうだわ。マギさん達は、私達の敵ということに」


 は、と彼女の妹は蓮っ葉に哂った。


「そりゃそうだ。なにせ“精霊喰らい”だからな。だが、その連中がこの世界を救ったのも間違いねえはずだ。それについてはなんだって?」

「……それはそれ、だそうよ」

「相変わらず、糞ッたれな連中だぜ」


 ヴァルトルーテは沈鬱にため息をついた。


「シルは?」

「どっか行っちまってる。このあたりにはうじゃうじゃ他の精霊が集まってるから、息が詰まるんじゃねえかな」

「そう……。話し合い、上手くまとまればいいけれど」

「望み薄だと思うがな」

「……わかってる」


 頷き、考え込む。

 少ししてから彼女は決断した。


「――ツェツィ、あなたはマギさんのところへ戻って」


 ツェツィーリャはちらとした眼差しを向けて、低い声音で短い言葉を口にした。


「ヴァル姉は?」

「私は」


 下した決断が揺るがぬよう、ヴァルトルーテは口早に告げた。


「私は、残るわ。長老達はこれまでの自分達の在り方を反省して、今後は森の外へ積極的に干渉していく方針を固めた。魔物、そして人間達へ。……きっと、これから世界で巻き起こる混乱に、エルフがその拍車をかけることになるわ。混乱を収めるために」

「もちろん、長老どもはそれが間違いなく正しいことだと思ってやがるんだろうな。ったく、これだからああいうバカ共は始末に負えねえのさ」

「そうね。でも本当は長老達もわかっているのかもしれないわ」

「なにを」

「……エルフも、決して欲がないわけじゃないってことを」


 むしろ、と言いかけた言葉を続けず、ヴァルトルーテは長い銀髪を振った。


「――とにかく。長老達がやろうとしていることはとても危険なことだわ。もしもの時に長老達に反対する誰かがいるべきだと思うの。それに」

「それに?」

「……大切なのは、そこに精霊とエルフの影響を残すことよ。どんな立場のあいだでも」


 ツェツィーリャが目を細める。


「そりゃつまり、敵味方になってもってことかよ?」

「……ええ、そうよ」


 彼女の妹は渋面になり、がりがりと頭をかいた。


「気にいらねえな。だとしたって、どうしてオレがあいつらの側なんだ」

「あら、だってあなたはマギさんの護衛でしょう。それとも、私と替わる? あなたが長老達の相手をしてくれるのなら、私は喜んで――」


 思わず零れかけた本音に気づいて、口をつぐむ。

 皮肉そうに笑った妹が、


「……損な役回りだぜ」

「そうね。でも仕方ないわ。私も長老達とおなじ。欲が深いエルフということよ」


 ヴァルトルーテは肩をすくめてみせた。


「それに、確かに長老達はマギさん達を敵だと決めたけれど、だからといってまだ実際に敵対すると決まったわけじゃないわ。少なくとも、マギさんは精霊やエルフを必要ないだなんて考えてはいないはずだもの。手を取り合える可能性だってあるわ」


 自分が口にしているものが願望にちかいことを知りつつ、彼女は続けた。


「だから、マギさんに今日のことを伝えて。そして、ツェツィ、あなたはあなたが思うように行動すればいいわ」

「オレみたいな跳ねっ返りに勝手に行動させていいのかよ? なにをしでかすかわかんねえぜ」

「大丈夫よ。あなたは優しくて聡明なエルフなのだから」


 にこりと微笑んでみせると、ツェツィーリャは嫌そうに顔を歪めた。

 ため息をつき、


「――シル」


 穏やかな風が渦を巻き、風精霊が姿を現す。

 いつもは軽妙な表情がなりをひそめ、真剣な眼差しでこちらを見つめている相手に、ヴァルトルーテは膝をついて傅いた。


「……シルフィリア。お話の通りです。ツェツィには外に出てもらいます。混沌とする世界に、よりよい精霊の在り方がありますよう。精霊のためになどというお題目でさらなる混乱を巻き起こそうとしつつある罪深い我らをお許しください。そして――これからもツェツィを護ってあげてね」


 契約者に崇拝ではなく友情を求めた異端の風精霊は、悲しそうに顔を歪めると、そっとヴァルトルーテの頭に口をつけた。


「……キミの行く末に、精霊の加護を」

「――ありがとう」


 立ち上がる。


 ヴァルトルーテはじっと目の前の相手を見つめた。

 彼女の妹もまっすぐに視線を返してくる。


「……んじゃ、ま。行ってくるわ」

「ええ。いってらっしゃい。マギさん達によろしくね」

「あいよ」


 ツェツィーリャが身を翻して去っていく。


 それを見送りながら、ヴァルトルーテの胸中には予感じみた想いがあった。

 ――もしかすると、これが永遠の別離になるかもしれない。


 いや、そんなものはただの弱気だと自らに発破をかけて、彼女も遠ざかりつつある妹に背中を向けて歩き出す。

 たとえ妹と道を違えることになるとしても、彼女には為すべきことがあった。



 その日。

「黄金竜の宣言」から始まった混乱がいまだ収まりをみせず、時とともにその混迷が深まるばかりのその頃、大陸のとある国が布告を行った。


 ゼルトラクト神国。

 この世界の主権者である“賢人”エルフの血を引く者として、代々が長い耳を持つ女王によって統治されるその人間種族の大国が行った布告の内容は、世界的な一連の混乱に対抗するために諸外国との連携を呼びかけたものだった。

 同時にその布告には、混乱に乗じて自らの利益を図ろうとする一部の国に対する非難も含まれていた。


 名指しこそ避けられていたものの、はっきりと自分達が矛先に向けられていることを察した当事国は敏感な反応を示した。

 ゼルトラクト神国の布告に対して、それを身に覚えのないものだと一蹴したその国の名をグルジェという。


 野心的な皇太子の指導下において、先進的な改革とそれに伴う経済的成長を収めつつあったその国は、ゼルトラクト神国とは異なる方向性で今回の事態に対することを発表した。

 人間種族の得意とする貨幣、経済交流とその交歓を主軸としたそれは、明らかに「脱精霊」を志向するものだった。


 当然、エルフの末裔を自称するゼルトラクト神国はこれを非難。

 大陸にある人間国家のなかでそれぞれ勢力を誇る二つの大国のあいだでは、その周辺国家を巻き込んで急激に不穏な気配が漂い始めてゆく――



 黄金竜グゥイリエンの魔王災から百年。

 黄金竜ストロフライの気紛れから、世界は大きく動き出そうとしていた。



 そして。


 ◇


 大陸のどこか。


 一人の子どもがとぼとぼと海辺を歩いている。

 擦り切れた衣服に裸足で、手には歪んだ深鍋を引きずっている。毎朝、近くの浜辺に海産物を取りにいくのが少年の仕事だった。


 朝は寒い。

 海は冷たい。


 けれど文句を言うことはできない。

 彼の家は貧しく、家族は多かった。

 幼い弟達に食べさせるために少しでも路銭を稼がなければならない。


 ――だというのに、今日はまるで獲物がとれなかった。


 今日だけではない。

 ここ最近、めっきり海産物が獲れないと多くの大人達が嘆いていた。

 少し前にやってきた大勢の男達が、なにを目的としてかはわからないが海の底を攫うようにしていたことのせいだ、と誰かが言っていた。


 朝市の片隅ではこんな噂も流れていた――どうやら戦争が起きそうだ。


 戦争と言われても、彼にはぴんと来なかった。

 ただ、海産物が獲れないのは困る。

 本当に困っていた。


 今日は昨日と違う場所に行ってみよう。

 そう思っていつもよりさらに早起きをしてみたのだが、結果は芳しくなかった。

 いくつかの貝に、小魚。成果はそれだけだった。

 とてもパン代にはなりそうにない。


 わずかな食料を他の家族に分け与えているために、彼自身も空腹だった。

 足場の悪い砂地を歩いていると、ふんばりがきかずにふらふらと頭が揺れてしまう。


 だから、はじめは幻覚なのかと思った。


 海の向こうから、誰かが歩いてくる。

 薄青色をした相手だった。

 長い髪をたなびかせ、まるで散歩をするかのような気軽さで、その誰かは“海の上”を歩いている。


 ――魔物。


 少年は身を強張らせかけたが、すぐにその緊張は弛緩した。

 相手の表情が見えたからだ。


 その薄青い人物は笑っていた。

 嬉しそうに、楽しそうに、にこにこと微笑んでいる。


 その表情が本当に楽しげで、見ているこちらまで嬉しくなってしまいそうな笑顔に見とれているうちに、その薄青い誰かは彼のところまでやってきて、にこり。微笑んだ。


「こんにちは」


 とても澄んだ声だった。


 綺麗な眼差しに見つめられて、少年はかっと頬が熱くなるのを自覚した。

 こんな美人を見るのは生まれて初めてだった。


「こ、こんちは」

「なにをしてるんですか?」

「か、貝とか。魚。仕事だよ」


 照れくささから、言葉遣いがつっけんどんになってしまう。

 薄青い人物はそれを気にしたようすもなく、


「わあ。偉いですね」

「……別に」


 顔を背ける。

 なぜかわからないが、ひどく気恥ずかしかった。


「それに、全然、獲れてないし」

「そうなんですか?」

「うん。もうずっと。……家じゃ弟達が腹を空かせてるから、困るんだけど」

「そうなんですか……」


 ふうむ、と腕を組んだ相手が、ぽんっと手を叩いた。


「あ、そうだ」


 長い髪のなかに手をやって、なにかを取り出す。


 少年は目を見開いた。


 目の前に出されたそれは、金だった。金の硬貨だ。

 金貨などという代物を見るのは初めてだった。その表面には、竜の姿が彫られている。


「さっき拾ったんです。これがあれば、しばらくご飯には困らないと思いますよ」


 相手がなにを言いたいのかわからずに、少年は眉をひそめた。


「どういう意味?」

「これ、要りませんか?」


 目をまばたかせる。

 すぐに相手の意図に気づく。からかわれているのだ。


「――欲しいけど。もらう理由がないよ」

「ちっちゃいのに、しっかりしてますねえ」


 薄青い人物は目をぱちくりとして、それからふふーっと悪戯っぽく笑ってみせる。


「ですが、安心してください。なにもただであげると言っているわけじゃありません!」

「……お金なんて持ってないよ」

「いえいえ。お金とかじゃなくてですね。ちょっと教えて欲しいことがあるんです。答えてくれたら、そのお礼にこれをあげちゃいますっ」


 えへん、と胸を張るように薄青い相手は言った。


 少年はまじまじと相手を見つめ、その相手が手に載せている真新しい金貨を見つめた。

 ――金貨。

 本当にこの金貨がもらえるのであれば、食料がたくさん買える。

 しばらくどころか、一月は食うのに困らないはずだ。

 それどころか薪だって、ふわふわの毛布だって手に入れられるかもしれない。


 脳裏に、腹を空かして凍えている家族の顔が浮かんだ。


「わかった。……なに?」


 少年は言った。

 いったいなにを聞かれるのだろうと身構える。ごくりと唾を飲み込んだ。


 薄青色の彼女は、ふふー、とまた笑って。


「あのですね、」


 訊ねた。



「――スライムなダンジョンって、知ってますか?」




 後日談はこれで終わり。

 そしてまた、物語が始まる。




                                       『また始まる前の、後日談』 おわり


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