「甘い囁き」④
話を終えると、ディルクは慌ただしく部屋を出て行った。
会合の調整に向かった若い商人が段取りを整えるまでの時間、ルクレティア達にはバーデンゲン商館の特別室が宛がわれることになった。
しかし、バーデンゲンの人間からその旨を受けた美貌の令嬢は相手の厚意に豪奢な金髪を振って、
「お心遣い感謝いたします。これから少し街に出て参ります。ディルクさんがお戻りになるまでには帰りますので、ご安心ください」
それでは誰か案内の者を、という申し出も丁重に断り、建物を出た。
「ルクレティア、どこに行くの?」
後ろをついてきたカーラが訊ねた。
「工房へ」
「工房?」
「ええ。この街の細工職人に頼んでおいたものがあるのです」
そこでちらともう一人へと視線を向ける。
二人のあとをついてきているその人物は退屈そうにしていた。
「ユスティス。街を見たいと言っていましたわね。工房に向かう途中、少しであれば通りに寄っても構いませんよ」
元王女がきょとんと目を瞬かせた。
「……いいの? お姉さま」
「かまいません。見ていないところで騒動を起こされるよりはマシでしょう」
にこりともせずに、ルクレティアはそれからカーラに視線を移して、
「カーラ。疲れているかもしれませんが、貴女にもついてきてもらってよろしいかしら」
「それは全然、大丈夫だけど」
目を丸くしていたカーラが、ふふっと嬉しそうに笑った。
「なんですか」
「ううん。ルクレティア、優しいねっ」
ルクレティアは眉をひそめ、口を開きかけたが、なにも言わなかった。黙って肩をすくめて、さっさと歩き出す。
ある程度の規模がある街のほとんどがそうであるように、ギーツの街も職業別やそこで暮らす住民層によって大まかに区画が分かれている。
商館地区は河川の近くにあり、工房地区はそこからやや離れた街の外れに位置していた。
ルクレティアは街中央の広場を抜け、工房通りへと向かった。通りには露店が立ち並び、多くの人が溢れている。
「さっきの河川沿いもだったけど、すごい活気!」
ほとんど人の壁のような眼前の様子にカーラが頭を振った。
優雅に人の群れをかわしながらルクレティアは訊ねた。
「なにか気づきませんか?」
不思議そうに周りを見回した短髪の少女が、ふと顔をしかめた。
「――なんだか、みんな辛そうだね」
「そうですわね」
ルクレティアは頷いた。
通りを行きかう人々の顔には、どれも疲労と苦渋の色が濃い。周囲に満ちた気配はいわば、陰気な活気さだった。
剣呑に怒鳴りあう人々の隣を過ぎながら、
「必死、懸命。多忙と充足とは似てはいても異なる概念です。もがけばもがくほど、むしろ泥沼にはまり込んでしまう。さりとて、もがくのを止めるわけにもいかないものでしょう」
カーラが顔をしかめる。
「どれだけ頑張っても、報われないの?」
「無論、このような状況でこそ才能を発揮する人物はいます。混乱下で目を輝かせ、それに乗じて、あるいは助長してでも財を成す。ある意味、それこそが個人の才覚というものであり、今はそれが発揮されやすい事態ではあるのでしょうが――」
言いながら、ルクレティアは近くの露店に寄った。
青果物が並んだ店棚の向こうに、疲れた顔の男が肘をついている。ぶすっとした愛想で口を開いた。
「こりゃ珍しい。貴族様がわざわざ買い物かい」
「いくつか果実をいただけますかしら」
「いいとも」
店主は皮肉っぽく唇を歪める。投げやりな動作で両手を広げて、
「ご覧の通り、物はいくらでもあるんだ。どれだけでも持っていってくれていいぜ。だが、貴族様にこんなことを聞いちゃ失礼かもしれないがね、金はあるのかい」
「レスルートのものでよろしいかしら」
ルクレティアが数枚の硬貨を見せると、店主は露骨に顔をしかめてみせた。
「悪いが、それだとひどい値段でしか売れないね。知ってるだろ? ここ最近、貨幣の価値がとんでもないことになってるんだ。どれもそうだが、特にうちの国のが酷い。今じゃ金貨が、ちょっと前の銀貨くらいの価値しかないからな」
「では、他国の貨幣では如何ですか」
「グルジェあたりのなら、ありがたいね。あそこのは昔から質がいいし、今も安定して出回ってる」
ルクレティアは後ろを振り返り、肩をすくめた。
「これが、信用です」
「信用?」
「貨幣はその中に含まれる金銀等の含有率によって価値が定まり、その額面は原価より高く設定されています。しかし、額面通りの価値を市場が認めてくれるかどうかは別です。基本的に、貨幣というのは発行すれば発行するだけ利益が出るようになっていますが、かといってそれを乱発したり、含有率を下げるなどの行為をおこなえば貨幣としての価値が損なわれてしまい、地金以上の意味を失ってしまうのです」
「それが、お金の価値がなくなるってこと?」
「そうです。その貨幣を発行している相手がまっとうであれば――つまり、その信用が貨幣の価値を担保するわけですが、この国にはそれがありません。今回の騒動が起こる以前から、地方の領主が好き勝手に私鋳した貨幣が出回っていたくらいですからね」
「どうして他の国の貨幣なら信用されるの?」
「今が異常な状態であることは誰の目にも明らかだからです。それぞれの貨幣元では、流通する貨幣の現状について危機感を覚え、なんらかの対抗策をとろうとするでしょう。それも見越したものが、“信用”です。近年、武断的な政治改革が成功して飛躍的に国力が増強しているグルジェなどはその最たる例ですわね。国が強いと貨幣も強いのです。国が信用されれば、貨幣も信用されます。逆に」
「……信用のない国はお金まで見捨てられる。この国って、本当に信用がないんですね」
わずかに眉をひそめたユスティスが、複雑そうに呟いた。
「市場は正直ですからね。異常事態となればなおさらです」
ルクレティアはそっけなく頷き、怪訝そうな顔つきになっている店主に懐からもう一枚を取り出して見せた。
不自然なほどの真新しさで輝くその竜の図柄の金貨を見た店主が目を剥いた。
「こちらのものなら、如何ですか」
店主はまじまじとルクレティアを見つめ、嫌そうに両手を投げ出した。
「嫌がらせのつもりかい? そんなもの、この店にあるモン全部渡したってまだ足りねえよ」
「と、こうなるわけです」
ルクレティアはそっと息を吐いた。
「元々が純金相当の代物である上に、多くの国や取引先から好まれる“竜金貨”。その影響を受けて、相対的にその他の貨幣価値が下がってしまう。通貨価値の二極化による生活通貨の不足が、さらに市場の混乱を招き、物はあるのに売れないという事態まで生じさせる。いずれ混乱が収まることはあっても、その時までに既存の貨幣体制はほとんど壊滅していることでしょう。……いえ、現時点でほぼそうなっていますか」
「そんなの、どうすればいいの?」
途方にくれたようにカーラが言った。
それに対してルクレティアが答えようとする前に、ユスティスが言った。
「あら、簡単じゃありませんか?」
ルクレティアは静かに相手を見つめて、訊ねた。
「どうすればいいと思うのですか?」
「こうすればいいんですよ、お姉さま」
元王女はにこやかに言って、ルクレティアが店棚に置いたレスルートの銀貨に手を触れた。
摩耗し、燻った色合いの通貨が、元王女が撫でた後には燦々とした輝きの金貨に成り代わっている。
「なっ――」
目の前で起きた出来事に店主が絶句した。
「これで、“同じ”でしょう?」
得意げに胸を張るユスティスに、ルクレティアは冷ややかな眼差しのまま、小さく頭を振った。
長い睫毛を落とし、視線に憐みを含めて相手を見やる。
「……ユスティス。それで、貴女はどうしたいのです」
「それで? どういうことかしら?」
不思議そうに訊ねる相手に、
「例えば、この世界中が金に変わったとして。“そんなこと”で、貴女は満足できるのですか」
投げかけた言葉には怒りや呆れではなく、深い憐憫が含まれていた。
ユスティスが目を見開く。
わなわなと唇が震え、きつく噛み締められる。瞳に憎悪に似た光が灯った。
「――お姉さまのバカ!」
叫び、ユスティスは駆けだした。
人の海に飛び込み、周囲を押しのけるように去っていく。
「ユスティスさんっ!」
「カーラ、すみませんが追ってあげてくれませんか」
「でも!」
非難するように自分を見る相手に、ルクレティアはため息をついてみせた。
「お願いします。周囲を金化するような真似はしないと思いますが、激情したらどうなるかわかりません。この街も、決して治安がいいだけではありませんから」
「っ、……うん!」
身を翻しかけたカーラが肩越しに目線を向けて、訊ねた。
「――ねえ。さっきのは、言わなくちゃいけない言葉だったの?」
「どうでしょうか」
ルクレティアは、精彩に欠ける口調で豪奢な金髪を揺らした。
「必要な言葉ではあったと思います。そして、私にはああいう言い方しかできません」
「……わかった」
頷き、カーラもユスティスの後を追って人ごみに消える。
ルクレティアはため息を吐き、店主に視線を戻した。
目の前のやりとりと、なにより店棚に置かれた純金のレスルート貨に心を奪われている相手の視界から、さっとその金貨を取り上げて、肩をすくめる。
「手品のようなものです。お気になさらず」
「いや、しかし――今のは……」
「ところで、先ほどのお話ですが」
まだ頭が混乱している様子の店主に、畳みかけるように言った。
「竜の金貨。もしも私がそれでお支払いする、と言ったら如何ですか?」
ぎょっとした店主が、すぐに顔を苦々しく歪めて、
「言っただろう。それに見合うだけのモノなんざ、うちにゃあねえよ。それとも、ここにあるものだけでいいってのかい」
「かまいませんわ」
即答に、店主がぽかんと大口を開ける。
ただし、とルクレティアは続けた。
「この店にある品物を全て買い上げることに加えて、もう一つお願いしたいことがあります。そちらを聞いていただけるのでしたら、対価としてこの金貨をお支払いしましょう」
◇
露店での商談を終えたルクレティアは工房地区に向かった。
職人たちが住み、多くはそのまま工房を兼ねる居住区画は決して治安が良くない。
そんな中を貴族然とした令嬢が歩けば注目を浴びて当然だったが、ルクレティアは周囲の好奇の視線など気にもせずに通りを進んだ。
通りの一角にある古い工房を訪れて、頑丈な木製扉に備え付けられたノッカー代わりの鉄板を叩く。
しばらくすると、わずかに除いた扉から体格のよい中年男が顔を見せた。
無精髭を生やした男は、据わった眼差しでじろりとルクレティアを一瞥すると、一言もないまま、むっつりと建物のなかに戻っていった。扉は開かれたままになっている。
ルクレティアは黙って工房に足を踏み入れた。
工房内は暗く落ち込んでいた。
雑然と物が散乱しており、奥にある炉には火が入っていない。男はさらに奥の部屋へと姿を消していた。
ルクレティアが扉のノブを掴むと、中から低い唸り声で警告が響いた。
「埃を立てるな」
静かに扉を開く。
ひどく手狭な空間の、そこは作業場だった。
一面が採光窓になっている以外は、三方の壁に棚がそそり立っている。棚には無数の道具が陳列していた。ルクレティアには用途のわからない物も多い。
部屋の主はルクレティアのことなど気にも留めない様子で、奥にある机に座ってなにかの作業に没頭している。
「お願いしていたものは、如何ですか」
ルクレティアが訊ねると、男は唸るような声を発してから、顔を上げた。嫌そうにルクレティアを見て、ふんと鼻息を鳴らす。握っていた鏨を放り出し、
「ひとまず、仕上げにかかってたところだ。納得はいってないがな」
「見せていただけますか」
ルクレティアが言うと、男は顔をしかめて、顎をしゃくってみせた。
令嬢は作業机に近づき、そこに置かれているものに目線を落とした。
「……触れてみても?」
男が渋面で頷く。
幼い我が子を奪われるような表情だった。
ルクレティアはそっと手を伸ばし、ひやりとした心地に触れた。
わずかな重みを掴み、掌に乗せる。
作業場は机に限って日が差すような格好になっていて、他はひどく暗いために細部まで確認しづらい。
「ライト」
頭上に魔法の灯りをともし、改めてその白々とした光の元で掌にある物を見つめた。
満足の吐息を漏らす。
そこには精密な意匠で、若い竜が翼を広げた図柄の硬貨が、白い光を受けてそれ以上に冴えた輝きを見せていた。




