「甘い囁き」③
「魔物?」
自身も人狼の血をひくカーラの言葉に、ディルクは鷹揚に頷いた。
「左様です。まさに魔物と言うしかありません。禿げ上がった頭髪に、ぎょろりとした金壺眼。そして全身が緑色の小柄な男でした」
「実際にご覧になったのですか?」
ユスティスが訊ねる。
「はい。そのインプ族の男が現れたのはこの街だったのです。理由は、まあ一つしか考えられません」
「この街に魔物との商いの実績があるからですわね」
ルクレティアは言った。
ディルクが頷いて、
「恐らく。私どもバーデンゲン商会が、ルクレティア様に仲介していただいた『アカデミー』との交易を始めたのは、まだほんの数か月前のことですが。恐らくは、その事実を知っていたからこそでしょう」
「アカデミーの人が、バーデンゲン商会との取引に来たんですか?」
カーラの問いに、商人はゆっくりと首を横に振った。顔をしかめながら、
「そうであればよかったのですが。残念ながら、そのインプ族の小男は、我々の商会を訪れて来たわけではありませんでした。あくまで、『魔物との取引経験がある街』であることが重要だったのではないかと思われます」
「どういうことですか?」
混乱したように、カーラが眉を顰める。
ディルクは答えず、視線をルクレティアに向けた。カーラとユスティスも同じく、美貌の令嬢に注目する。
三人の視線を浴びて、ルクレティアは静かに口を開いた。
「……多彩な魔物達が共同生活を営む稀有な組織である、魔物アカデミー。その彼らが、ここギーツを舞台とし、魔性植物の産物であるハシーナを武器として人間社会、そして経済流通に浸透しようと暗躍していたのは、半年ほど前のことになります」
「ご主人様がおっしゃるには、五年前、ご主人様がアカデミーの本部に在籍していた頃は、アカデミー内部に貨幣の流通はなかったそうです。取引では、物々交換といった原始的なやり取りが主だったとのこと。弱肉強食が絶対の不文律であるのはアカデミーでも同じだったということですから、取引そのものが稀だったのでしょう」
優雅な口調で続ける。
「それから五年が経ち、彼らは独自の商材を用いて、人間の街に入り込むまでに達しました。いまだ、彼らには独自の貨幣などは存在しないようですが、すでに十分な経済観念を理解できる域に至っていると考えるべきです。ディルクさん、バーデンゲンは彼らとの取引になにを用いていましたか?」
「通貨と、物品交換が半々ずつ程度ですね。この国の金貨や銀貨。それに少額ではありますが、隣国のものを求められることもありました」
「つまり、彼らはこの国以外との商いも視野に入れているということです。そしてもちろん、その目は同じ程度、人間以外にも向けられているでしょう」
「人間以外って、つまりアカデミー以外の?」
「そうです」
ルクレティアは頷いて、
「アカデミーがバーデンゲン、そしてそれ以外との商いをする為には、商材となるものが必要です。それをどこから手に入れるかとなれば、同じ魔物達からになります。では、どうやって。魔物の作法によればそれは力ずくでとなるのでしょうが、彼らは今まさに新しいことに着手しているところなのです」
「……ようするに、アカデミーの人達は、自分達以外の魔物の人達にも、通貨を広めようとしていたってこと?」
「間違いないでしょう。人間と、魔物。異なる価値観のあいだを貨幣で取り持つ。その仲介役に入ることで、アカデミー、そしてバーデンゲン商会はそれぞれ多大な利益を得ることが出来るはずでした。いずれその交易の事実が周囲に知れ渡り、いわゆる独占状態が失われるまで、早くとも半年。あるいは一年程度は、先行益が享受できると考えていたのですが」
ルクレティアはそこで言葉を切り、ため息をついた。
「ストロフライさんがおやりになったことが、それらを全てご破算にしました」
「この金貨が?」
「そうです。大量に世界中に配られた純金貨。それは誰にとっても平等な目安であり、今までの世界を覆す代物です。精霊語と、それによって伝えられる『精霊の教え』。今までこの世界を支配していた“言語”にとって代わる、新たな価値観。……ストロフライさんがやったことは、我々が長い年月をかけて徐々に拡大していこうとしたことを、ただの一瞬で成し遂げてしまったのです。すなわち、人間と魔物との、巨大で混沌とした経済圏の確立ですわ」
愉しげに鼻を鳴らして、
「この金貨は、精霊語を介さない者同士でも取引を可能にします。少し前に、シィさんがサイクロプスの巨人となさったように。異種族間交易を可能とする程のツールに成り得る代物が、世界中にばら撒かれてしまったのです。まだ互いの経験も、理解も足りないうちに。――結果が、この混乱です」
「ごめん。ちょっと整理させて」
腕を組んで、カーラが考え込んだ。
「えっと。つまり、この街に来たのは、アカデミーの人じゃなかったんですか?」
「そこはちょっとややこしいところですね。厳密に言えば、アカデミーの魔物ではありませんでした。しかし、なにかしら関わりがある相手ではあるでしょう」
「……どういうこと?」
持ってまわった言い回しに混乱して、途方に暮れたようになりながらカーラがルクレティアを見る。ルクレティアは肩をすくめて、
「この街が魔物との取引があることを知った上で訪れた以上、アカデミーと関わりがあることは確かでしょう。ただし、アカデミーが訪れるのであれば、バーデンゲンを訪れればよろしい。そうではなく、ギーツという“街”を訪問したのであれば、そこには別の意図があるということです」
「それは、なんですか?」
ユスティスが訊ねる。
ちらとそちらを見て、ルクレティアは答えた。
「恐らく、アカデミーは事態を早く進めるつもりなのでしょう。バーデンゲンとの秘密裏の交易で、少しずつ経験を積み、富を蓄えながら、周囲の魔物達へ自分たちの影響力を増していく。そうして、やがて魔物達の経済活動を牛耳るくらいの野望は持っていたはずです。しかし、ストロフライさんが金貨をばら撒いてしまったことでそうはいかなくなった。まだ彼らの準備が整う前に、全世界に“異種族間の交易”の可能性がオープンになってしまったのです。この金貨が存在する以上、いずれそうなるのは自明の理ですからね。だから彼らは、自分達も早く動くことにした」
「具体的にはどういうことなの?」
「まだ可能性が可能性であるうちに、自分達で率先して始めてしまうことです。つまり、人間と魔物の交易を一商会とのあいだで秘密裏に行うのではなく、もっと大々的に行おうというのです。たとえば“街”。あるいは、“国”に。そうしてわずかばかりの先行利益を確保するのと同時、既成事実として自分達の立場を確保してしまうつもりなのでしょう。機を見るに敏と言えます」
ルクレティアの評に、ディルクが苦笑を浮かべる。
「この街を訪れたインプは、『アカデミーの紹介で来た』と言いました。そういうことであれば、我々としても怒るわけには参りません。もちろん、彼らが裏で繋がってないとは考えていませんけどね」
「街に来た魔物の人も、ホントはアカデミーの人だってこと?」
「アカデミーの意を受けた魔物ではあるでしょう。アカデミーとバーデンゲンとの秘密裏の、いわば独占的な交易が契約として成立している以上、アカデミーが断りなく街とのあいだに新たな商いを始めるのでは角が立ちますが、“アカデミーの関係者”でなければ問題はありません」
「でも、そんなのアリなの?」
納得いかないようにカーラが頬を膨らませるのに、ディルクは達観した様子で頭を振って、
「まあ、それも商売ではあります。元々が、人間と魔物の商いということでなにがあるかわかりませんし、前提条件が崩れた以上、交易を秘密裏に留めておくことの利がありませんからね。相手に上手くしてやられたのなら、それはこちらの反応が遅れたということですよ。正直、目先で巻き起こっていた市場の混乱に気をとられて、そこまで考えが回っていなかったのも事実ですし」
「魔物のなかにも、なかなかに利け者がいらっしゃるようですわね」
「まったく。よい勉強になりました――で済む話であれば、商人をやっていれば嫌でも抱え込むことになる失敗話になるわけですが」
ディルクは沈鬱に顔をしかめて、
「問題はそこで終わらなかった、と」
「はい。先ほど申し上げた、事態の複雑化とは、実はその先のことなのです。……魔物が街を訪れ、その荷に食料品の類がふんだんに積まれていることがわかると、街は狂喜しました。その段階で、生活に必要な食糧さえ不足しがちになっていたのです。買い溜めや、売り渋りの影響でしょう」
「その魔物の人が持ってきた積荷のおかげで、品不足は解消したんですね?」
ほっとしたように言うカーラに、商人は微妙に唇を歪めて頷いてみせた。
「ええ。精霊語を介し、竜金貨を持つ。我々とアカデミーとのあいだですでに交易経験を持っていたという事実がダメ押しになって、交易はつつがなく執り行われました。我々としてはダシにされたようなものですが、まあそれはともかく。とにかく、新しい交易先が増え、混乱していた市場が落ち着いてくれるのであれば、それでよかったのです。だが、そうはなりませんでした」
「どうなったのですか?」
「……それ以来、魔物の商人は度々、街を訪れるようになりました。その馬車に積まれた食料品のおかげで、たしかにこの街の品不足は解消されました。しかし、それだけでした」
「それだけ?」
「はい。品不足は解消されても、通貨の価値はそのままだったのです」
若い商人の言葉に、カーラとユスティスが眉を顰める。
話が理解されていないことを察した商人が説明を補足した。
「品不足の結果、物価が上がり、通貨の価値が下がる。あるいは、大量に物が溢れて物価が下がり、通貨の価値が上がる。それならばわかりやすいのです。しかし、今この街は違います。この街では、“十分に物があるにも関わらず、通貨の価値が戻らない”のです」
「……なんで、そんなことに?」
困惑した様子で訊ねるカーラに、ディルクは弱々しく頭を振って、
「竜金貨ですよ」
告げた。
「魔物の商人は、取引する際の通貨に竜金貨を求めました。この国や、他国の通貨を嫌がるのです。物の価値は需要と供給によって定まります。それは通貨であっても同じこと。結果、竜金貨の価値は高まり、今まで我々が使っていた通貨の価値は低いまま。魔物との交易でも竜金貨が有用なことが知られると、人間同士のあいだでも竜金貨の価値はいっそう高いものとなりました。どんな国が発行する公的な貨幣より、私的に作られ、気紛れにばら撒かれた“金貨のような代物”の方が、圧倒的に信用が高いという状況になってしまったのです」
商人は頭を抱えた。
「我々の手持ちに竜金貨が少ないことを知ると、魔物の商人は“仕方なく”、それ以外の通貨でも交易に応じてくれます。しかし、そのレートは我々がアカデミーとのあいだに行っていたものとはかけ離れています。少し前ではありえない値段で、大量の金貨や銀貨が流出しているのです。確かに、魔物との交易が始まったことで商いは活発になりました。今も河川沿いにはたくさんの物品が届いています。しかし、私にはこの現状が恐ろしいものにしか思えません。なにかとんでもない過ちを犯しているような――しかし、止められないのです」
苦悩するように言葉を吐き出して、押し黙る。
項垂れたディルクをしばらく見つめてから、ルクレティアは口を開いた。
「だからこそ、私がここにいるのでしょう」
男が顔を上げる。
救いを求めるような男の眼差しに、美貌の令嬢はにこりともしないまま、ただ碧眼に静かな自信を湛て、
「ディルクさん。街を訪れる前にお願いしてあった通り、この街にいらっしゃる商人組合の方々を招集した会合を開くことは可能ですか?」
「ええ、それは。今夜にでも、席を設けてありますが……」
「今夜などではなく、今すぐにお願いします」
ルクレティアは言った。
その表情に、なにかを察したようにディルクが立ち上がる。期待と、いくらかの不安が入り混じった顔で、
「――わかりました。ですが、いったいなにをなさるおつもりなのでしょうか」
訊ねる若い商人に、ルクレティアは豪奢な金髪を振って、
「以前、ディルクさんがおっしゃいましたわね。この街には王権が行き届いていない代わり、商人や職人による自主性の気風があると。それがなにかの萌芽であるかもしれない、と」
「はい。それは、確かに」
「ならば、今こそそれを芽生えさせる時です」
ルクレティアは言った。
「王や軍による統制が利かないのであれば、商人の手によってそれを成しましょう。魔物、竜。竜金。混沌とした機会にこそチャンスは眠っているものです。アカデミーに出し抜かれたのであれば、さらに出し抜き返してやればよろしい。我々こそが、これから起こり得る未曽有の商機を支配して、主導するのです」
ディルクが絶句する。
驚愕に目を見開いて、恐る恐る訊ねた。
「……そんなことが可能なのですか?」
それに対して、金髪の令嬢はどこまでも華麗に、そして不敵に微笑んでみせた。
「この私以外の、いったい誰にそれが可能でしょう」




