「甘い囁き」②
案内されたバーデンゲン商会の建物で、一行は奥の間に通された。
最上級の賓客に使われる応接室には、品のいい調度が慎ましく整えられている。
クッションの効きすぎた椅子の座り心地に落ち着かない様子を見せるカーラの隣で、ルクレティアは平然と腰を落ち着かせていた。
カーラを挟んだ向こう側に座る、彼女の血の繋がらない妹も同じ気配だった。
「失礼します」
扉が開き、お茶入れの道具を盆に載せたディルクが中に入ってくる。盆には茶器以外に、平たい小箱も載せられていた。
男はテーブルに茶器を揃えると、三人分のお茶を淹れてそれぞれの前に差し出した。
カップを持ち上げて鼻先で香りをくゆらせる。とてもよい紅茶葉だった。手際も申し分ない。
「慣れていらっしゃるのですね」
「小さな商会ですから、人手が足らないことが多々あります」
男の言葉は謙遜だけではなかった。
部屋に通されるまで、商館の内部ですれ違う人間は極めて少なかった。
人の気配そのものが薄い。
商館内で行われる類の商いは市場のように大声で怒鳴りあうものではないが、それにしても異常な静けさだった。
「皆さん、外に出ていらっしゃるのですか?」
「ええ、まあ。色々とトラブルが起こっていまして」
「お手紙でいただいた案件に関わりがあることでしょうか」
「その通りです。是非、お知恵を貸していただければと……」
手にした紅茶を一口してテーブルに戻し、ルクレティアは頷いた。
「伺いましょう。そのために参ったのですから」
「ありがとうございます」
ディルクが頭を下げた。
すぐに目線を持ち上げて、真剣な表情で告げる。
「率直に申し上げますと、今、この町の商いはひどい混乱した状態に陥っているのです」
「すべては例の件が発端なのです」
ディルクは言った。
例の件の詳細について具体的な言及はないが、ルクレティアを始め、ほかの二人もそのことを問おうともしない。
それは誰にとっても当たり前すぎる事柄だった。
ルクレティアは黙って相手に先を促す。男は頷いた。
「前代未聞の告白とともに、世界中に配られた金貨――いえ、金貨によく似た、金貨より金貨らしい、純金製のチップ。それに関わる大混乱が起こるだろうことは、誰の目にも明らかでした。ルクレティア様からよくよくご注意がありました通り、我々も可能な限りそれに対してはいたつもりなのですが……事態は、どうも一介の中堅商会では手に負えないことになってしまったようでして」
「失礼。ディルクさん。私は何度かお手紙をやりとりさせていただいていたので、今度の事態についての経緯もそれなりに理解しているつもりです。しかし、ここにいるカーラやユスティスはそうではありません。そちらからお話ししていただいてもかまいませんか?」
「かしこまりました。それでは初めから。――黄金竜ストロフライ様が振る舞われた、純金の、薄く、円状の記念品。それはまず、ここギーツや、メジハ近隣の街や村に降り注いだようですが、その日のうちには他国にまで及んでいたようです。世界中に頒布されるまで、数日さえかかっていないかもしれません。空高くから飛来したというのに、それによる事故や怪我人の類の話を聞かないことも大変に不可思議なのですが……それはまあ、そういうものなのでしょうね」
肩をすくめる男の顔には、竜に関わる誰もが浮かべる表情があった。諦めと悟りの境地。
「とにかく、その金貨――便宜上、このように表現させていただきますが――は、多くの人の目に触れましたが、しかし誰もそれがなんの用途に使われるものか理解できませんでした」
「お金、じゃないんですか?」
不思議そうに訊ねるカーラに、ディルクはにこりと笑って、
「少なくとも、我々が知るどの国のどの貨幣にも、このようなものは存在していないのです。純金製の通貨なんてありえませんからね。しかし、おっしゃるように、形状からして通貨の類ではないかと思われました。そして、先にあった“宣言”から、これが竜に関わるなにかであることを類推することも難しいことではありません。我々は色めき立ちました。これこそは、“竜の貨幣”ではないかと考えたからです」
ルクレティアは頷いてみせた。
「貨幣を利用するのは人間種族の大きな特徴だと思われていました。近年、魔物種族のなかにも同調する動きが出てきていたとはいえ、それを彼の竜族達も使っていたとなると、驚くのも無理はありませんわね。どこぞの黄金竜が初恋記念につくって大判振る舞いしてみせただけ、などと考えるよりは、よほどまともな思考です」
「確かに、そのような正答に行き着いた者は皆無だったでしょう」
若い商人は苦笑して、
「とはいえ、そうした推測がなくとも、その金貨は間違いなく人々の関心を惹いたことでしょう。まばゆいばかりの輝きはもちろん、それには彫刻家が渾身を込めたような精巧な芸術性がありました。しかも、それは一枚だけではありません」
言って、ディルクは盆に置かれた小箱を手元に引き寄せると、それを両手で慎重に開いてなかのものを取り出した。
何重にも布にくるまれた箱の奥底から、黄金色の硬貨が姿を見せる。
ルクレティアはカーラに目線を送った。
頷いたカーラが、懐から革袋を取り出し、そこから一枚の硬貨を出す。
テーブルに並べられた二枚の硬貨は同じものだった。寸分の狂いもなく。
「……いまだに信じられない思いです」
感嘆の吐息を堪えるように、ディルクが呟いた。
「まったく同質で、同形状。そんなものがこの世に存在するとは」
「そうですわね」
ルクレティアはそっけなく同意してみせた。
現在の人間種族が持ちうる技術では、同じものを複製することはほとんど不可能だった。
型をつくったところで、そこに出来るムラまでは防げない。
どうしても細部には人の手を加えなければならないが、完全に同じものとなると熟練の職人にも至難の業となる。そもそも、職人とは個を消すことを志向する生業ではなかった。
たとえ魔法を使ったところで、その問題はなくならない。
人間にとって魔法の才能とは親から子に引き継がれるものではない。
突発的に発現する本人だけの才能を、本人だけが理解できる勘所と修練で腕を磨き上げていく。そうした意味では、魔法使いも一種の職人に違いなかった。
「こんな代物が、何千枚、あるいは何万枚も振る舞われたわけですから、今回の混乱も当然ではあるのですが……ああ、すみません。とにかく、まったく同じ金貨が大量に存在するだろうことを知った我々が、それの持つ価値に気づくのには時間がかかりませんでした」
「金だからですか?」
ユスティスが訊ねた。
その声が奇妙な真剣さを帯びていることに気づいたが、ルクレティアは視線を目の前の若い商人から外さないままだった。
それを聞いたディルクは曖昧な笑みを浮かべて、
「……難しいところですね。確かに、この“金貨”は金にしか見えません。その色、肌触り、どれも我々が知るものです。しかし、我々は当初、本当にこれが金かどうかとても迷いました。我々が知るものと、一点だけ、しかしあまりにも大きな違いがありましたから」
「――不壊、ですわね」
ルクレティアが言った。
ディルクは頷く。
「左様です。金というのは、本来、とても柔らかいものなのです。柔らかいことから加工が簡単であり、また他の金属を混ぜて合金とすることも容易でした。普段、我々が金として想像するものは、ほとんどが合金です。なぜなら、金そのものだけでは柔らかすぎるからです。すぐに傷がつき、形が崩れてしまう。――しかし、この硬貨は」
苦悩するように頭を振って、
「まったくの逆です。どれだけ熱しても、どんな大男が槌で叩き潰しても、傷一つ負わない――これは、“金”であって金ではありません。そうとしか言えないのです。ですから、我々の間ではこの物質のことをこんな風に呼んでいます。竜の金、すなわち“竜金”だと」
「そんなことはありません。これは金です。私にはわかるんです」
ユスティスが言った。
ディルクは穏やかに微笑して、
「金ではあるでしょう。しかし、ただの金ではない。偉大な竜達の棲まう何処かでしか採れない不思議な金か、それとも元々は普通の金に、竜がなにかしらの力を加えてこのようにしているだけなのか。我々にはそれさえわかりません。ですから、“竜の金”というわけです。実際、そのどちらでもいいのかもしれません。我々にこの金貨をどうにもできないことは変わらないわけですから」
悔しげにユスティスが唇を噛む気配を感じながら、ルクレティアは口を開いた。
「変化しない。この一点だけで、確かに一般的な金と区別する理由としては当然でしょうね。加工がしやすい、ということが金の持つ大きな利点ではあったわけですから」
「左様です。現状では、この“硬貨”は文字通り、貨幣として利用する以外の道はないように思われています。もちろん、この金貨を振る舞われた当のご本人が、そのような使われ方を求めていらっしゃるとは思えませんが……」
「特に気にされてもいらっしゃらないでしょう。ストロフライさんにとってはあくまで下々の世界のことです。その場の勢いでやってみせた、ただの戯れのようなものでしょうからね」
「勢い、ですか……。今まさに世界中が混沌とした状況に陥っているところを体感している身としては、とても笑えませんが」
「笑う以外にない、ということもあります。お話を続けてください」
「はい。――“竜金”。そうした認識が、大きな驚きとともに我々に浸透しだした頃、それを扱った取引も始まりました。特に率先してこの“竜金貨”を求めたのは、一部の富豪や好事家の類でした。竜に関わる代物は、それだけで価格が跳ね上がります。ふと見れば道端に落ちているかもしれないものが、かなりの大金に変わるのです。この金貨が高く買い取られるらしい、という噂はすぐに広がり、竜金貨の売買は活発になりました。ここまでの事態になったのが、金貨がばらまかれて約ひと月前のこと。最初の混乱が起こったのも、その頃です」
ディルクはそこで言葉を区切り、深々とため息を吐いた。
「……それは始め、物価の上昇という現象となってあらわれました。恐らく、竜金貨を売却することで一時的に大金を得た人々が、それで大量の物品を買い求め始めたのだと思います。品不足になれば、物の価格は上がります。同時に、今まで市場で使われていた貨幣の価値が下がりました」
不思議そうにカーラが首を傾げた。
「どうしてそんなことが起こるんですか?」
「物の値段が上がるということは、貨幣の値が下がるということでもあるのです。前と同じものが、前と同じだけの価格では買えない、ということですから。ですが、そんな時にもまったく価値の下がらないものがありました。この、“竜の金貨”です」
「もしかして、それでみんな、このストロフライさんの金貨をお金代わりに……?」
目を見開いてみせるカーラに、ディルクはやんわりと首を振る。
「さすがに、そのようなことにはなりませんでした。大量に配られたといっても、絶対数が少なすぎます。そもそも、日常的な売買に扱うには、金貨というのはやや価値が高すぎますね。ですが、この竜金貨の取引がいっそう、活発になったことは確かです。しかも、通貨を介さず、他の物品――相応に価値のあるものとの取引を条件として。これは、一面的に見れば確かに通貨的な使われ方ではあります」
そして。と、息を重く続ける。
「一方、不幸にもこの金貨を持てなかった人々の悲鳴は、ほとんど怨嗟に近いものでした。彼らからすれば、自分達の知らないところで勝手に物の値段が暴騰しているのですから、当然でしょう。物不足。市場の混乱。店によっては売り控えをするところも出てきました。そのことがまた物価の上昇を招くわけです」
「典型的な恐慌状態ですわね」
ルクレティアは頷いて、
「しかし、そうした混乱は一時的なものではあります。ストロフライさんのばらまいた金貨は無限ではありません。新しく作られない以上、決して数には限りがあるのです。その流通量が定まれば自然と価値も定まり、それに付随してその他の物価も落ち着きをみせるでしょう」
「はい。商いをしていれば、物価の変動や、事実、あるいは根も葉もない噂に基づく市場の混乱はままあることではあります。今回、それが大きなことになりすぎたのは、今からひと月近く前の“十日間の夜”の影響もあるでしょう」
ああ、とカーラが顔をしかめた。
「そっか。それで……」
「はい。あれも、この世の終わりを想像するには十分な異変でした。まさかそれが――いえ。とにかく、あの十日間が事態を深刻なものにしたのは間違いありません。人々の混乱はほとんど限界に達し、ついには商店を襲う暴動まで起き始めました」
そこでディルクはちらと視線をユスティスに向けて、
「……ご存じのことと思いますが、この国は現在、中央の威光が著しく損なわれている状態です。他国の、強力な指導者を持つような国であれば、軍隊による鎮圧やそれによる一時的統制なども可能でしょうが、我々にはそれは期待できません。我々商人は、自衛のために会合を持ちました。この街にも商人組合があります。もちろん、そこではこの混乱をどう抑えようかという話し合いもありました。品物を隠したり、価格を徒に跳ね上げることのないよう、いくつかの取り決めがありました。自分達に出来ることで協力して、なんとか市場が落ち着くのを待つしかない――しかし、事態はそれで終わりませんでした」
ごくり、とカーラが息を呑む。
すでに事態の動向を手紙で聞いていたルクレティアは静かに男の話を聞いていた。
意識はカーラの向こうに座る人物に向けられている。その相手は先ほどから、話にひどく集中している様子が感じ取れた。
「あるいはこのまま、世界に日が昇ることは二度とないのではあるまいか。我々がそんな風に不安を感じ始めた頃、その人物は現れました。それが、事態を決定的に複雑化しました」
自らの目で見てきたように、ディルクは重く、深い口調で告げた。
「食料品の類を積んだ一風変わった外観の馬車で、その人物は現れました。精霊語を話し、手に黄金竜の金貨を握って。――その姿は、人間ではありませんでした」




