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スライムなダンジョンの閑話集  作者: 再藤
また始まる前の、後日談
26/35

「真白い想い」⑩

 その場の空気が凍りついた。


 それまでの雰囲気が一変し、不穏どころではない気配に包みこまれる。

 奔放な妖精達さえ一斉にぴたりと口を閉ざして、誰もが顔面を蒼白にしていた。一つ目の巨人が大きく身じろぎするが、ほとんど引きつけに近い。ちらりと黄金竜が一瞥すると、それだけで石になってしまったように硬直する。


 唾を呑む音さえ響いてしまいそうな静寂のなか、不機嫌そうにストロフライが続けた。


「別に手をだすな、なんて言わないけどさー。中途半端にってのは、ちょっと感じ悪いよね。ねえ、スケルちゃん」

「な、なんでしょう……?」


 がくがくと震えながらスケルが応えるのに、竜少女はひたりとそれを見据えて、


「スケルちゃんって、ほんとにマギちゃんのことが欲しいと思ってる?」


 スケルの目が大きく見開かれた。


「――なにをっ。おっしゃいます! 自分はちゃんとっ、」

「ほんとにぃ? なんかさー、今いち本気に思えないんだよね。本気じゃないっていうか、なんか他のことに気がとられてるっていうかさ」


 むしろ、と目を細める。


「他のことを考えないように、そうしてる? それとも、他のことを考えてるから、そうしてるのかなあ?」


 訊ねられたスケルが声を失った。


 愕然として目を見開き、その全身が身震いしているのは、絶対的な強者から言葉を詰められていることに加えて、それ以外のなにかがあった。

 自身の奥底に潜めたなにかを言い当てられて、それを隠すように目を逸らそうとするのに、


「あたしの目を見て」


 静かに、だが何物も抗えない強制力を湛えた言葉が告げる。

 スケルが怯えた眼差しを返す。それに向かって、いっそ優しげに黄金竜の少女が告げた。


「スケルちゃん。あたしの前で嘘がつけると思えるなら、答えてみてよ。今、自分のことだけを思ってる? まっすぐに、マギちゃんだけのことを想ってる?」

「それは――」


 スケルは言い淀んでから、呻くように応えた。


「……スラ姉のことを、考えてました」

「スラ子ちゃんのこと?」


 ストロフライが小首を傾げる。


「どうして、スラ子ちゃんのことを考えてるの?」

「そりゃあ――スラ姉がいたらいいのにな、とか。早く帰ってきたら、と思うのは普通じゃないですかね」

「そうだね。けど、それって今まさにあたしと勝負しながら、考えること? それとも、それを考えながらじゃないと、その場にいられないの? おかしいね。それじゃまるで、スケルちゃんがこの場にいないスラ子ちゃんのために、そこにいるみたいじゃない」

「それは、」


 スケルが絶句する。

 にっこりと黄金竜の少女は微笑んで、


「そんなことないよね。スケルちゃん、自分のためにそこにいるんだよね?」


 スケルの拳がぎゅっと握りしめられる。


「……悪いですか!?」


 俯き、顔を上げた元スケルトンの少女が吠えた。 


「あっしは、スラ姉に創られたんですよ! 自分が、スラ姉のためにこの場にいたって、なにがおかしいんです!」


 声を荒らげる彼女に、


「アホか!」


 それに倍する怒声が返った。


 雄叫びのようにその声を荒らげたのは、黄金竜ストロフライでも、それ以外の女性陣でもない。

 マギだった。

 俯せに倒れ、背中に大勢の妖精達にのっかかられて髪の毛を引っ張られている世にも情けない姿の男が、情けない姿のまま、今までに見せたことのない怒りを露わにしている。


「誰が、お前にそんなことをしろって言った! お前にスラ子の身代わりをしろだなんて誰が頼んだ! お前は、お前だろうが!」


 男は吠えた。


「お前はお前で、スラ子はスラ子だ! 誰かのためとかふざけたことを言ってないで、俺が欲しいんなら、きちんと自分のために奪いに来いってんだ!」

「……情けないことを堂々とおっしゃいますこと」


 呆れたようにルクレティアが呟いた。

 ぐ、と顔をしかめたスケルが、


「ご主人には――わからないんですよっ。自分の気持ちなんか!」

「わかるか!」


 マギが怒鳴り返す。


「わかって欲しいなら言ってみろ! わかってやるから聞かせてみろ! なにも言わないのにわかるわけあるか、馬鹿!」

「この――」


 わなわなと全身を震わせて、スケルは叫んだ。


「馬鹿ご主人!」


  ◇


 騒動が落着したあとの空間では、勢いのままに大宴会へと雪崩れ込んでいた。


 巻き込まれた魚人族や妖精族、古の巨人だけでなく、洞窟に残っていたその他の面子も集められ、森や地下湖からも大量に呼び込まれる。

 その場に関わるほとんど全ての魔物達を集めた宴の参加者数は優に百を超え、メジハからどれだけの酒や馳走が運び込まれてもまるで足りそうになかった。そこに黄金竜の少女がさっと腕を一振りすると、たちまちに溢れんばかりの馳走が器とともに現れる。誰も見たこともない遠く異国の果実が山なりに積み重なり、肉厚の焼き物が香ばしい香りを炊き上げる。妖精好みの木の実や蜜から、魚人族のための海産物など、多種多彩な料理が文字通りに視界を埋め尽くして、参加者から歓声が沸いた。


 乾杯の音頭の響く間もなく宴が始まり、たちまちに活況を呈する。

 そうした光景を、宴の主人役を務める黄金竜はどこか満足げに眺めていた。精霊形をとり、自分用の酒椀を傾けているその隣に座らされた短髪の少女がおずおずと声をかける。


「あの、ストロフライさん」

「ん? なーに、カーラちゃん」


 心から機嫌の良さそうな視線に戸惑いながら、カーラは訊ねた。


「その……よかったんですか?」

「よかったって、なにが?」

「スケルさんです」

「スケルちゃん? なにがいけないの?」


 きょとんとした表情で訊き返されて言葉に詰まってしまうカーラに代わって、その隣で極上に澄んだ葡萄酒を口にしていたルクレティアが続けた。


「いけないわけではないですが、些か意外ではあります。まさか、勝ちを譲られるとは思いませんでした」

「あたし、勝ちを譲ったりなんかしてないよ?」


 カーラとルクレティアは思わず互いの顔を見合わせた。


「それじゃ、さっきの勝負は本気で負けた。ってことですか?」

「え? あたし、負けてなんかないけど」

「えっと。でも、」


 困惑顔になるカーラに、ああ、と気づいた表情でストロフライは頷いた。


「そういうことか。っていうか、あたし、今回は最初からスケルちゃんのお手伝いをしてあげてただけだよ。そんなのに勝ちも負けもないでしょ? あたしの狙い通り、そうなったわけだし」

「そう、なんですか?」

「そだよー。勝負だったら、あたしが負けるわけないじゃん」


 からからと笑う。

 ルクレティアが眉をひそめた。


「それでは、先程のスケルさんへの厳しいお言葉もわざとですか?」

「ああ、あれはねー。スケルちゃんがなんか悩んでる風だったから。あたしがスケルちゃんの中を読んで、それを伝えちゃってもいいけど――問題は本人がどう気づくかでしょ? 気づいたら、あとはスケルちゃんの問題だし、マギちゃんの問題だもん。だから、ああいう言い方してみたわけ」

「そうだったんですか……」


 感心したようにカーラが嘆息する。ルクレティアは意外そうな表情を隠さず、


「なんというか、随分とお優しいのですね」

「まあ、スケルちゃんとは付き合い長いしねー。って言っても、あたし達の感覚じゃなくてこっちの世界で言うと、だけど。五年とかだっけ? その分のおまけって感じだよ」

「なるほど」


 納得の動作を示してから、金髪の令嬢はわずかに唇を噛んだ。


「どしたの?」

「いえ。少し、悔しく思います。今回の件がただの茶番であることは理解していましたが――それでも、少なくとも私は本気でした。ここにいるカーラや、シィさんとて同じ気持ちだったでしょう。それが、ストロフライさんにははなから相手にされていなかったのかと、そうした歯がゆさが少々あります」

「ああ、ごめんね。そういうつもりはないんだけど」


 黄金竜の少女はひょいと肩をすくめた。

 竜が謝った、という驚天動地な出来事に目を見開いている二人に向かって気軽に笑いかけて、


「あたしと張りあおうって言うんなら、せめて本気でいてよってのは本音。そういうとこ、三人ともちゃんと出来てたでしょ? だから、馬鹿になんてしてないし、侮ってもないよ。そうじゃなきゃ、わざわざ名前覚えたりしないってば」


 もちろん、と続ける。


「あたしが負けるわけないけどね」


 絶対的な自負に彩られた笑みに、カーラとルクレティアの二人は気圧されるように顎を引く。しかし、紛れもなくこの世界で最強の生物を目の前にして、どちらともその目を逸らそうとはしなかった。


「最低限、同じ男を奪い合う相手としては認められた。と、思ってもよろしいでしょうか」

「そういうことだね」

「……負けません。絶対」

「そうこなくちゃ」


 ストロフライは軽やかに笑った。


「せっかくの初恋なんだから。あたしは全部、味わうつもりなの。いいこと、悪いこと、酸いも甘いも、腹立つことも辛いことも! そのためには、カーラちゃんやルクレティアちゃんにだって頑張ってもらわなきゃ困るもん。ほら、恋敵ってつきものでしょ?」

「……よろしいのですか? 世界最強の黄金竜。その戦績に、初めて黒星がつくことになってしまうかもしれませんわよ」

「そうなれば、とっても楽しいね」


 油断や慢心ではなく、自分が全てに勝つことを当然のものとして自覚する超越者の微笑みで、竜の少女は答えた。手に持った酒椀をぐいっと乾かして、


「あたしは、それを求めてる。そして、それでいて勝つから、あたしはあたしなの。誰にもそれは否定できない。出来るわけがない。それでもいいなら、かかってくればいいよ――あたしは全てを叩き潰す。欲しいものは全部、手に入る。ストロフライ・ヴァージニア・ウィルダーテステの矜持って、つまりはそういうことだもん」


 不敵な眼差しで見据える。

 それを受けた少女二人も、それぞれの持つ椀を大きく傾けた。一歩も引かない眼差しを返す。


 あはは、と黄金竜は笑った。

 心から楽しそうに、そして心から待ち望んだ声音で大声を張り上げる。


「ああ、もう! 早くスラ子ちゃんが戻ってくるといいのになー!」



 地上から地下まで、全ての居住者が外にでた湿気た洞窟では、その奥にある生活空間に二人だけが戻って来ている。


「ったく。酷い目にあった……」


 妖精達から無理やり頭のてっぺんを三つ編みにされているのをほどきながら、ぶつくさとマギが文句を言った。


「いやあ、すみません。まさかこんなことになるとは……」


 頭をかくスケルに、洞窟の主人はぎろりと半眼を向けて、


「すみませんで済むか。どれだけ俺が恥を晒したと思ってる!? どうせ俺が気を失ってるあいだもひどいことになってたんだろ」

「まあ、それなりに。ちなみに、どういう話が暴露されたか聞きますかい?」

「嫌だ! 聞きたくない! 聞いたらきっと立ち直れない!」


 両手で耳をふさぐマギにスケルは苦笑して、


「まあ、ご主人には悪いと思ってますよ。カーラさんやルクレティアさんに、シィさんや妖精族の皆さん方も、エリアルさん達も。ストロフライの姉御に巻き込まれたのは、全部、あっしのせいですからね」

「そうらしいな」


 渋面でマギが頷いた。


「だがまあ、もうちょっと穏便なやり方はなかったのかと思うが、ストロフライの奴は大げさではあっても、決して無計画じゃない。ってことは、今回のも必要なことだったんじゃないのか?」

「多分、そうなんでしょうね」


 スケルは自嘲の笑みを浮かべた。


「多分、ストロフライの姉御にはなにもかもお見通しなんでしょう。それをわざわざ、手間をかけて自分に気づかせてくれようとしたんだと思います」

「お前がそれに気づいた、ってことは、問題は解決したってことなのか? 大切なのはそこだろ」

「そうですね……」


 弱々しく頭を振って、


「いえ。まだ解決してないっす。……ご主人、」

「おう」

「さっきの話ですが。――実は、ずっと秘密にしてたことがあるんです」

「ほう」

「自分、骨の時にぶっ壊れて、スラ姉に創り直してもらいましたよね」

「そうだな」

「その時、自分の創造主はスラ姉になりまして――つまり、あっしとご主人の創造関係は、そこで無くなってるわけですが」

「うん。それはまあ、知ってた」

「はい。そんでですね、それって自分にとってはすごく有り難いことだったんです。友達になれると、思いましたから。だから――そういう意味でもスラ姉には感謝してたんですが」


 スケルはそこで口をつぐんだ。

 不安と不吉。それまで自分のなかに押し殺してきた感情が、箍を外してしまうことに恐怖を覚える。

 彼女が踏み切れないあいだ、彼女の主人はそれを促すのでもなく、じっと黙って待っていた。


 ようやく覚悟を決めて、スケルは息を吸いこんだ。

 頭を俯かせて、一息に告げる。


「――ないんです」

「ない?」


 マギが眉をひそめた。


「ないって、なにがないんだ?」

「創造関係の、……繋ぎです。創造者と、被創造物とのあいだに感じられる魔力の繋がりが、ないんですよ。――自分と、スラ姉のあいだに。スラ姉がいなくなったあの時から、ぷっつり無くなっちまったんです」


 沈黙が落ちた。


 創造者と被創造物とのあいだにある、魔力的な関わり。

 それが感じられないことが意味するものは一つのはずだった。――すなわち創造者の、消失。


「……なるほど」


 重い嘆息が響いた。

 俯いたまま、スケルはびくりと肩を震わせる。

 彼や、この洞窟に関わる全ての存在が待ち望む、“誰か”の帰還。その可能性を根本から否定する事柄を今まで黙っていたことへ、厳しい非難が向けられることを彼女は覚悟したが、


「――ばーか」


 実際にあったのは呆れ返ったその言葉と、こつんと頭を小突かれただけだった。

 驚いてスケルが顔を上げると、


「ばーか、ばーか」


 さらに額を小突かれる。


「な、なんすか。人が謝ってるのに、その言い草はなんなんです!」

「馬鹿に馬鹿と言ってなにが悪い」


 涙目で訴えるスケルに、マギは半眼でそう言って、


「あのなあ」


 息を吐いた。


 頭をかきながら、


「そんなことで悩んでたのかよ。ったく、早く言えよ。一人で悩んでどうする」

「言えるわけ――ないでしょう! ご主人や、シィさん、皆さんがあんなにスラ姉が帰ってくるのを待ってるのに、それがいつまで経っても無駄だなんて!」

「なんで無駄なんだよ」


 スケルはきょとんと瞬きした。

 それからきっと目つきを険しくして、


「ですから! あっしとスラ姉のあいだの、」

「創造・被創造関係が途切れた。それだけだろう」


 それがどうした、と言いたげな表情で、マギ。


「それだけ、って――」

「お前とスラ子のあいだにあった、魔力の繋がりが無くなったんだろ? それがなんで、スラ子が戻って来ないことになるんだ?」

「それは、」


 言いかけて、スケルは言葉を詰まらせた。自分にとってあまりに当然のことに正面から疑問を呈されて、軽い困惑に包まれる。


「だって。創造者と被創造物ってのは、そういうもんでしょう……?」

「そうか? まあ、普通はそうだが――スラ子だぞ? あのストロフライとも張りあってみせた、あのスラ子だ。それが、自分の帰ってくる、帰ってこないに関係なく、お前との主従関係を切ってみせたってなんの不思議がある?」

「それは。――でも、そんなことをする理由がないじゃないですか。いったいどうして、スラ姉がわざわざ創造・被創造関係を切らなきゃいけないんです」

「そんなの決まってる」


 マギは肩をすくめて、


「お前がさっき言ったじゃないか。――“友達になりたい”からだろ」


 きっぱりと断言した。


 思いもがけない言葉を受けて、スケルは息を止めた。


「友、達……?」


 耳から入った言葉の意味を咀嚼するように、ゆっくりと口の中で呟く。


「自分と、スラ姉が? 友達ですって?」

「ああ、そうだ。俺とお前がそうなれたみたいに、スラ子も、お前と友達になりたいって思ったんだろうよ。だから、主従関係を失くした。フラットになるためにな。なにが不思議だ?」

「不思議もなにも――不思議でしょう!」


 スケルは大きく頭を振って、


「スラ姉は自分にとっちゃ命の恩人なんですよ! なにも言えないまま、なにも出来ないまま朽ちてくだけだったのを救われて! 身体までもらえて! そんな相手のことを、友達だなんて言えますか!」

「それはお前の感情だろう。スラ子はそう思わなかった。それだけじゃないか」

「――感情?」


 スケルはマギを見据えて、それから力なく笑った。


「……ご主人。気休めは止してください。感情って言うなら、ご主人のそれだって感情でしょう。スラ姉が消えたんじゃなくて、繋がりを切っただけだなんて、そんな証拠ないじゃないですか。なんの根拠もなしに、自分に都合のいいように解釈してるだけです」

「失礼だな。根拠ならあるぞ」


 むっとしたようにマギが言った。


「どんな根拠があるってんです」


 胡乱に訊ねるスケルに男は胸を張って、


「俺が信じているからだ」


 言った。


 なんのてらいもなく、まっすぐに見つめる表情には一寸の迷いも見えない。


 あまりに堂に入った態度にスケルは一瞬、呆気にとられてしまい、全ての反論を忘れた。ぽかんと男を見つめてから、


「……ご主人、本気で言ってんです?」

「本気も本気。頭の先から足の爪先まで、完全に本気だ」


 そう言い切ってみせる。

 再び言葉を失って、スケルはまじまじと目の前の相手を凝視した。


 マギというこの男、誰より長くこの洞窟で過ごしてきたのは間違いなく彼女だった。彼女がまだ口の利けないただの骨繋ぎでしかなかった頃から、スケルは長い時間を共にしてきた。

 男の性格など知り抜いている。

 そのスケルからすれば、こんな風に自信に満ち溢れている男など見たことがなかった。あまりにも自分が知る男の性格像と違いすぎて、いったいいつから自分はそれを見過ごしていたのかと思いかけて――ふと気づく。


 違った。

 やはり、男は男だった。


 目の前にいるのはただ、自信に満ち溢れているように見せようとしている男の姿だった。

 周囲に心配させないよう、自身の不安をひた隠し、不敵に笑って、やせ我慢をしてあくまで胸を張ってみせる。そういう、必死な小物の姿だった。


 それに気づいた瞬間、スケルは吹きだしてしまった。

 くつくつと笑う。目を閉じた拍子に涙が零れた。瞳に滲んで痛みをおぼえて、それでまた涙が浮かんで流れた。


「なんだよ」


 不貞腐れたようにマギが言う。

 スケルは笑って、泣けて、泣きながら笑った。


「いやあ。すみません。……すみません、ご主人」


 ぼろぼろと零れる涙をぬぐって、改めて男を見つめた。

 視界に映る姿は、五年前からほとんど変わっていない。……変わっていないように思う。年数分の加齢以外は、その冴えない造作も、頼りなさげな表情も、決して屈強では身体つきも。なにひとつ変わらない。


 だが――違う。違った。

 そして、その違いをもたらしたものはなんだろう、と思った。


 脳裏に浮かぶのは一人の姿。そしてそれに連なるように、次々に何人もの姿が浮かんだ。


「ああ……」


 得心してスケルは頷く。


 ずっと不思議だったことがある。

 いったいどうして、彼女達がこの男に執着するのか。決して器量にも、見た目にも優れているわけではない。それは、そうなってしまったのだから仕方がない、と言ってしまえばそれだけだが――それでも不思議だった。


 たとえばそれは、彼女達が男を取り合おうとしないことだった。


 もちろん、仲が良いわけではない。

 一人の男を平等に分け合いましょう、などという平和な、あるいは間の抜けた思考の持ち主は一人もいなかった。


 では、彼女達は男に対して、なにを競いあっていたのか。


 その答えが、目の前に現れている。

 つまり彼女達は、この男の表情にこそそれを求めているのだった。

 この冴えない、才に乏しい青年にどれだけ自分の影響を色濃く残せるか。男を鍛え上げ、同時に自分の色に染め上げる――その一事に、女性達は心血を注いでいるのだ。


 他の女達に対して、この男は自分のものだと思い知らせるために。


 そのことに今さらになって気づいた己の不覚に、スケルは大きく顔を歪めた。息を吐く。


「……女ってやつは。怖いですねぇ」

「は?」


 男が眉をしかめる。

 スケルは頭を振って、


「いやあ。ちょいと、他の方々とのあいだにどえらい大差をつけられてることを、ようやく自覚しまして」

「そうなのか? ……まあ、気づけたんならそれでよかったんじゃないか?」

「まったくですよ」


 のんきな物言いにスケルは大きく嘆息して、頭をかいた。


「いやあ、参りました。――ストロフライの姉御に怒られるわけです」

「そうなのか」

「そうでした。……ご主人」


 ん、と答える男に、スケルは告げた。


「惚れてます」


 男は応えた。


「そうか」


 スケルは顔をしかめた。


「それだけっすか?」


 男も顔をしかめる。


「それ以外になんて答えりゃいいんだよ」

「なんかあるでしょうよ。俺もさ、とか、嬉しいぜ、とか! なにスカしてんですか、元引き篭もりのくせに何様です!?」

「何様でもねえよ! んないきなり言われて気の利いたことなんて返せるか! 言えたら引き篭もりなんざやってねーよ!」


 大声で言い合ってから、はあ、とお互いにため息をつく。


「……それで、どうする」

「どうするって。もうちょいなんかないんですかねえ。こっちは、一世一代の告白をしたってトコなんすよ?」

「そんなこと言われてもな。……いつもは、大抵が問答無用に襲われるばっかりで、慣れてないんだよ」


 憮然としてマギが呻く。

 その情けない表情だけは、まぎれもなく自分が知る、以前の相手のもので――スケルは思わず笑いながら、大きな安堵を覚えた。


 同時に考える。

 ――なるほど、まだ自分が色をつける余地は十分に残っている。


「まあまあ。そんじゃ、とりあえず酒でも呑みましょうか。ストロフライの姉御から、たっくさんもらってますし」

「ああ、そうだな。さっさと酔いつぶれてくれたりするなよな」

「しませんよ、そんなもったいないこと」


 スケルはにっこりと笑った。


「せっかくの二人きりなんです。夜はいくらも長いですが、無駄にできる時間なんざありゃしません――」


 そっと腕を伸ばす。

 指先を男の身体に絡めて、彼女は目を閉じた。


「ご主人。スラ姉、戻ってきますよね」

「当たり前だ」

「……ですね」


 真白い想いと共に。



                                          後日談『真白い想い』 おわり



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