「真白い想い」③
ただでさえ真っ白い友人が血相を変えて地上に戻っていくのを見送って、マーメイドのエリアルは溜息をついた。
「やれやれ。忙しいことだ」
客の残した茶碗を片付けていると、ちゃぷり、と湖面から顔を出した若いマーメイドが興味津々な眼差しで、
「隊長、隊長。スケルさん、上手くいきますかね?」
「さあな。なるようになるだろう」
気のない返事に頬を膨らませた相手の横に、ちゃぷちゃぷと二つ、三つと頭が浮かんでくる。
それぞれ好奇心の塊のような表情で、
「えーっ。隊長は気にならないんですか?」
「そんなことはない。上手くいって欲しいとは思ってるさ」
ただ、とエリアルは肩をすくめる。
「スケルは別に子種が欲しいというわけでもないだろう。色恋沙汰というのか? 陸の連中の、そういうのは私達と違ってどうもややこしいからな」
魚人族は基本的に群れ全体を家族として、つがいを求めるのも瞬間的なものだった。
だから、自分が逢瀬を求めたマギが他にどんな相手と身体を重ねていようとあまり気にはならない。
それは彼女の個性というよりは種族としての特性であるはずだったが、
「えー。そういうの、隊長だけだと思いますよー」
という言葉にきょとんとして、エリアルは目をしばたかせた。
「……そうなのか?」
「そうですよー。あたし達だって、最近は自分の相手を探したりしてますからー。そういう話もみんなでしてるんですよ」
「そうなのか。……知らなかった」
立場というのもあるのだろうが、多少の疎外感を覚えて憮然とすると、あわてて短髪のマーメイドが言ってくる。
「あ、でも、別にそういうんじゃなくって。だって、エリアル隊長にはマギさんがいるじゃないですかー」
エリアルは眉をひそめた。
「別に私がマギに子種をもらおうとしてるからって、関係ないだろう。なんなら、お前達だって頼んでみればいい。できればスケルの後にしてやって欲しいがな」
えー、と若いマーメイド達が顔を見合わせて、
「うーん、マギさんかぁ」
「それはちょっと。ねえ」
「何故だ。我々にとっての恩人だぞ、なにが不服だ。まあ、マギ一人の血を入れるというのも種族全体にとっては危険かもしれないが」
そもそも異種族交配とは決して望ましいものではない。
世界に満ちる魔素の神秘――あるいは不気味な力で、生物的に異なる相手とさえ子を為せてしまう。
それは多くの種族にとって自分達という種の形質を失わせてしまう恐れがあった。
エルフを始め、ほとんど絶対的にそうした行為を禁止している種族が多数を占めるなかで、魚人族はそうした禁忌的な感覚が薄い種族ではあった。
そもそも、海中には精霊の祝福を受けた生き物は決して多くない。
「えっと、そういうんじゃなくてですね、」
複雑そうに、恐る恐る一人が切り出した。他のマーメイドと口を合わせて、
『マギさんって、あんまり趣味じゃないんでー』
「……なんだろうな。そう言われるとそれはそれで腹立たしいが」
唸るエリアルを無視するように、若いマーメイドは自分達だけできゃいきゃいと話に盛り上がっている。
やれ、冒険者がどうとか、ああいうのは金を持ってなさそうとか姦しい様子に呆れながら、エリアルはわずかな不安を覚えた。
これまで魚人族は海中深くで安穏と過ごしてきて、他者との交流はほとんどなかった。
人間との悲恋などがおぼろげに語られるのも、つまりはそれがほとんど御伽話のように現実感の薄いものだったからに過ぎない。
元々の居場所を追われた彼女達は今、陸地に近い生活環境で過ごしている。
異種族交配はもはや遠い話ではなかった。
実際、死に絶えてしまった男達に代わり、種を存続させるために異種族の血を受け入れることをエリアルは決めている。
だが、それは本当に正しい決断だっただろうか。
彼女達に伝わる御伽噺では、人魚が人間との間に産んだ子は人魚としての形質を強く残していたという。
しかし、それが真実そうであったかどうかはわからない。
例えそうだとしても、その子だけが特別だったかもしれないし、あくまで相手が人間種族だからかもしれない。
あるいは、相手となった人間に内包された魔素の強弱が影響していたというのも考えられる。
……少し慎重になるべきなのか。
エリアルが考えたのは今さらのことかもしれなかったが、必要ではあった。
次代の長となるべき幼子が成長するまで、群れの将来を考える責務が彼女にはある。
そうした不安を抱くことには、ある一人の存在が大きく関わっていた。
今、この地下湖にはそこを管理する精霊が不在している。
水精霊。そして、その精霊と同じく――それどころか、それを圧倒的に凌駕する力でそこを支配していた不定形の気配は、一月前になくなってしまった。
そうした管理者の不在が、この場にどのような影響を与えるのか。
新しい精霊が管理者として現れるのか。様々な意味で不安だった。
だから私は、マギに肌を求めたのだろうか。
自分でそう考えるのはあまり愉快ではなかったが、地下湖のある洞窟を支配する人間種族の若者との関係性を失うわけにはいかないという程度の打算は彼女も自覚していた。
「でもマギさんも人間なのに凄いよねー。あの黄金竜のお相手だっていうんだから」
「うんうん。知ってる? マギさん、見つかった時はひどかったんだって。ミイラみたいだったらしいよー」
「やっぱり、竜ってソッチも凄いんだねー」
「お前ら……」
少し放っておいただけで際限なく飛躍していく話題に、エリアルは頭を振った。
「竜の噂をしていると、竜が現れるという格言があるらしいぞ。いい加減に水中に戻れ」
はーい、と渋々に会話を打ち切る若い人魚達と共に、自分も海中に潜ろうとして水面に足をつけて――ぞくりと、エリアルは後ろを振り向いた。
洞窟の地上階へと続く道。
その暗がりの奥から、なにかの気配が近づいてくる。
――敵?
反射的な思いつきは、すぐに自分自身によって否定される。
これは敵ではない。敵にさえならない、――なれない。
この存在は、自分達とあまりにも違いすぎる。
「お前ら、戻――」
れ、と言葉を続けることが出来なかった。
強烈な麻痺毒を受けたように舌が痺れている。
その痺れは全身を縛っていた――いや、違う。大いなる恐れとともにエリアルは自分の間違いを悟った。
身体が動かないのなら、そのまま水中に沈んでいくはずだ。
それがない。まるで固定されているように半身は水面に浮かんだままだ。
つまりこれは、周囲の水が固まっているのだった。
凍るのでもなく。
まるで水が、ただその気配に恐れ慄くように。
そして、そんなことが可能な存在をエリアルは一人しか知らなかった。
より正確には二人の心当たりがいたが、もう一人である可能性は低い。となると、残る一人ということになる。
エリアルは自分を呪った。
若い連中を諌めるつもりで、舌の上に転がした途端にこれだ!
「やっほー」
暗がりから現れた精霊形の黄金竜がにっこりと微笑んだ。
後ろに、彼女の友人を引きずるように連れている。
その眼差しはほとんど虚ろで、まるで死んだ魚のそれだった。
「ちょっと頼みごとがあるんだー」
もちろん否応はない。
そんなものは当の黄金竜も訊ねていなかった。
この洞窟の上から下まで。
それどころかこの世界中全ての頂点に、目の前の存在は君臨している。
断れば死ぬしかない。
断らなくても死ぬかもしれない。
エリアルと、運悪くその場に居合わせた若いマーメイド達は、あまりの恐怖に涙を流しながら頭を頷かせた。
『な、なんなりと……っ』
――黄金竜が四人の手下を手に入れた。
◇
一方その頃。
「はー可愛いスライムは可愛いスライムは可愛いなー。瀝青まじりのちょっと日焼けした感もいいけどやっぱりスライムはスライムブルーだよなーああもちろんニュースランダ、お前だって可愛いよ。スライムの上にスライムはなくスライムの下にスライムはない。スライムはスライムであるということですでに完成しているのでどんなスライムでもそれで一番なんだ。もちろん俺だってお前達全員が大好きさーああスライム可愛い」
岩苔の餌を配りながら、うっとりと陶酔しているマギは平和だった。
今はまだ。




