「木々の温もり」⑥
「……やめて。二人とも」
ゆっくりと。
カーラは喉の奥から声を押し出した。
今にも掴みかからんばかりの勢いだった二人の間に割って入っている。
彼女の両腕は左右にぴんと突き出され、両の手のひらはそれぞれを物理的に制止していた。
「――よろしいのかしら?」
額を掴まれ、据わりの悪い頭を抑えつけられた格好のまま、ユスティスがからかうような声をあげる。
「そんなに簡単に、私に触れたりなんかして。私の力はご存じでしょう?」
触れたものを全て“黄金”へと変化させる能力。
「かまわないよ」
脅迫じみた言葉に、カーラは動揺せず応えた。
「ユスティスさん。あなたがボクを金に変えようとしたら、金になった手であなたの頭を叩き潰すだけだもの。あなたがボクの全身を金にするのが早いか。ボクがあなたを殴るのが早いか、試してみる?」
静かな気配に獣の獰猛さを含ませて、
「マスターが休んでるあいだ、勝手に殺し合いなんてさせない。殺されたって、殺させない。――殺したって殺させないから」
「あら……。カーラさん。あなたは随分とまともな方だと思っていましたけれど。随分とたがが外れていらっしゃるんですね」
くすりとユスティスが笑う。
一方のルクレティアは平然としていた。
カーラが仲裁に入ることさえ予期していたかのような態度で、しかしその全身からは濃い魔力が立ち昇っている。
「ルクレティアも。それ、止めて」
カーラはユスティスの足元に目線を落とした。
そこでは円状に魔力の輝きが軌跡を描き、励起している。
カーラはその魔力がいったいどういった働きを意図されているかは視覚できないが、ルクレティアのやろうとしていることがどんなものかは想像がついた。
恐らくは、足場の地面を崩そうとしているのだろう。
魔法を使えない元王女は、たったそれだけで転落してしまう。その穴の深さが、ちょっとした怪我で済むとも思えなかった。
ルクレティアがちらとした視線をカーラに向ける。
一言もないまま、その全身から渦巻くようだった魔力の気配が薄れていく。それに併せて、元王女の足元で励起状態だった魔素も落ち着いていった。
ひとまずこの場が収まりそうなことに、カーラがほっと息をつきかけたところに、
「……なにやってるんだ?」
男の声が響いた。
「マスター!」
扉に現れた彼女達の主人である若い男、マギはひどい二日酔いに悩まされているような表情で、頭を抑えている。
カーラは慌てて両手を引っ込めた。
その拍子に、抑えられていたユスティスの頭が首の上から滑り、地面に転がる。あらあら、と元王女の身体がそれを追いかけながら、
「なんでもありません。ちょっとした姉妹喧嘩みたいなものです。――ね、お姉さま?」
地面を転がる頭部から楽しげに声をかけられた令嬢は、それを無視したまま、男へと視線を転じた。
「お加減はよろしいのですか、ご主人様」
「いや……。すこぶる悪い」
「ご自身の状況は理解していらっしゃいますか?」
「ああ。酷い目に遭った――いや、待て」
はっとした様子で、マギは顔を上げた。
「今、何日だ? 俺がストロフライのとこに行ってから」
「えっと。一か月くらいだと思います」
「一か月!?」
男が驚愕に目を見開く。
自分がベッドで唸っていた期間の長さに驚いたのだろう。カーラは思ったが、
「たった一か月か?」
続いた言葉に、カーラはルクレティアと顔を見合わせた。
ちなみに、と令嬢が冷静に補足する。
「ご主人様がお戻りになったのは半月ほど前ですわ。山頂に向かわれてから、お姿が発見されるまでは十日といったところでした」
「十日!? あれがたった十日だってのかっ?」
愕然として立ち尽くす男の様子に戸惑いながら、カーラは訊ねた。
「マスター、大丈夫ですか?」
「いや……。“時間”の虚しさをはっきり自覚した。ほんと、なんでもありなんだな……」
うんざりと呟き、こちらに向かって歩き出そうとした男の膝がかくんと落ちた。
崩れ落ちそうになる相手を慌てて支えに行って、カーラは顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「ああ、うん。……あれ、ちょっとヤバいな」
「無理もありません」
冷ややかにも聞こえる声でルクレティアが言う。
「一月近くも寝たきりだったのですから、相当に足腰が弱っているはずです。粥を用意しますから、お座りになっていてください」
「ああ、悪い。頼む」
カーラに介添えされてテーブルまで進みながら、ふとなにかに気づいた様子でマギは視線を巡らせた。
「……シィとスケルはどうした?」
カーラとルクレティアは、再び顔を見合わせた。
「実は――」
◇
一方、その頃。
妖精達の一行はいまだに歌をうたっている。
「妖精、うったうー」
『うったうー』
「蜥蜴も、うったうー」
『じゅっじゅー』
ついには若い蜥蜴人達までまざりだした陽気な歌声を聞きながら、シィは油断なく周囲の様子に警戒を配っていた。
隣では妖精族の女王が、眉間に皺を寄せるようにして目を閉じている。
背中の羽が鮮烈な輝きを発していた。
妖精族の魔法。
その代表的なものとして知られる“幻惑”は、妖精にとって究極の自衛魔法だった。
相手の認識に干渉して、敵対行動をとらせない。
どれだけ強大な力があろうと、敵意がなければ問題にはならない。歌声が聞こえようとそれを“自然なもの”として聞き流してしまう。
妖精の女王はその強力な幻惑魔法を、結界状態で周囲の広範囲に発動していた。
シィにはまるで及ぶべくもない、強大な力の放出。
それはもちろん容易なことではなかった。
継続的な魔力の放出は妖精族の得意とするところではあるが、放出する力が強くなればなるほど、当然その難度は跳ね上がる。
そもそもが、結界という状態で魔法を固定することが至難の業だった。
しかも移動しながらとなると、魔法の達者な妖精族にとっても決して容易くない。
そうした魔法の行いを可能とするために、妖精の女王は目を閉じてそれだけに意識を集中している。
そんな状態ではちゃんと歩くこともできないから、シィは女王の手をとって彼女を誘導していて、女王の頬がたまに緩んでいた。
なるべくゆっくりと歩くシィの隣を進むスケルから、感心したような声がかかった。
「いやあ。やっぱり妖精さんの魔法って凄いですねえ。これなら、とりあえず結界の魔法が続くあいだは問題なしっすかね」
「……油断しちゃ、ダメです」
シィは頭を振った。
「幻惑の魔法も絶対じゃないです、から。……効きにくい相手も、効かない相手もいます。植物とか」
妖精の“幻惑”は強力な魔法だが、魔力を用いた行為である以上、おなじように魔力で打ち破られてしまう。
魔法に対する強い抵抗力がある相手には効果が薄い場合があるし、ほとんどの植物相手には効果がなかった。
植物には敵意がない。
大方の場合、それには自意識さえない――あるいは、意識の在り方があまりにもかけ離れているせいだった。
「なるほど。魔性植物の類だって、奥にはたくさんあるでしょうしね。気合を入れときましょう」
シィがこくりと頷き返そうとしたその時、
「――――ッ!」
なにかの咆哮が轟いた。
妖精達は歌うのを止め、その場で足を止めた。
森がざわめいている。
動物たちが騒ぎ、鳥のはばたきが耳を叩いた。風がないのに木々が揺れているのは彼らと、そして混乱する魔素の影響だった。
「……厄介なのがいるな」
うっすらと目を開けた女王が、眇めるようにしながら呟いた。
「大物ですかい?」
緊迫した表情で囁くスケルに、
「ああ。だが、おかしいな。森の奥に行けばそのうち遭うかもとは思ってたけど、早すぎる。このあたりはまだあいつの縄張りじゃないはずだ」
「なるほど。とりあえず、進むのは止めて様子を見たほうが良さそうですね」
言いながら、スケルはリーザに合図を送る。
頷いたリーザが、短い蜥蜴語で仲間達に指示を出す。
五十人が一固まりにいれば、いざという時に逃げ出すのもままならない。
シィ達は十人ずつの小さな集団に分かれて、少しずつ距離をとって木陰に隠れた。それぞれの小集団には護衛役の蜥蜴人がついている。
「よろしいですね? なにかあった場合には、一目散に逃げてください。決して無理せず、仲間と自分の命を大事に。そういう感じでお願いします」
全員がこくりと頷く。
陽気な妖精達も、さすがに歌うのは止めて口を閉ざしている。
表情はあくまで突然の出来事にわくわくと胸を躍らせるようではあったけれど。
シィはじっと息を潜める。
先程の叫声はひどく近かった。そして、誰かへの敵意に満ち満ちていた。
それが自分達に向けられたものかどうかはわからない。
だが、もしそうであったなら、それは“幻惑”の魔法が効かないということになってしまう。
どうかこのまま、何事もなくどこかに行って欲しい――シィは祈るように考えた。
がさり、と大きな木が揺れる。
そこから姿を現した相手に、シィは目を見開いた。
樹齢の古そうな大木とほとんど変わらないほど大きな――とても大きな、一つ目の巨人。
巨人の眼がぎょろりと動き、シィ達の姿を捉えて見下ろした。




