70:悲鳴
日暮れの早い冬は校舎が閉まるのも早く、王立学園の生徒達は追い立てられながら寮へと帰って行った。
終業を告げる鐘が鳴ってから二時間。
部活動も今日は休みのところばかりで、もう残っているのは職員室の教員くらいだった。
灯りが消えているので念の為にランプ片手。
階段を上がる女が一人、トワの濃い影が壁に伸びる。
非常勤のトワは気楽な勤務体制なので本来ならもう帰っても良い時間なのだが、戸締まり後の見回りを代わったのはちょっとした理由が一つ。
ヴィヴィアから貰った万年筆を校舎に忘れてきてしまったのだ。
場所なら分かっている、確実に第二音楽室。
ここで書き物に使ったことをはっきりと覚えている。
万年筆を贈られた時のことも。
去年のクリスマスプレゼントだったので、まだ新品。
衣食住は寮で足りているからと、初任給を同僚達へのプレゼントで使ってしまうなんてヴィヴィアはやはり良い子にも程がある。
ハンドクリームやキャンディは実用的かつ消え物なので皆ありがたく頂戴していたが、トワだけは綺麗に包まれた箱まで。
あまりにも真剣に差し出すものだから遠慮しつつも思わず受け取ってしまった。
決して安くはない、深い紫の光沢が美しい万年筆。
学園を追放されて月華園に来るまでにヴィヴィアからは数え切れないくらい感謝された。
もう良いと言うのに、結局のところここまで歩いて選択してきたのは彼女自身なのに。
十二月を飾る「歌姫ローゼ」と「淫婦リリー」の舞台も無事に幕を閉じた後。
月華園の面々も祝福を込めながら粛々と年末年始を過ごした。
ここら一帯の国で年越しの風習は大体同じ。
時計がゼロを指した瞬間に花火を打ち上げて、周りの親しい人達と頬にキスを交わすのだ。
欲望が眠らないロゼリットは夜こそ華やか。
真冬の清浄な闇に光が咲き誇り、歓楽街の皆で空を見上げた。
キスといっても恋人同士でもなければ頬の話。
蜘蛛蘭とヴィヴィアが微妙な空気になっていたのを見ないふりして、トワは背中を向けた覚えがある。
何にしても日々を楽しんでいるなら言うこと無し。
あんなことがあった後なのだ。
ヴィヴィアが学園から居なくなった後もトワはピアノを引く習慣を続けていた。
彼女がここに居た証を一つでも残さねば気が済まず。
誰とも知れぬ音色は噂となり「黒薔薇の霊」だなどと尾鰭が付いているらしいので笑ってしまう。
婚約破棄と追放の騒動自体は凪となったが、学園側には「ヴィヴィアはあれきり完全なる消息不明」ということになっていたのだ。
籍と身を預かるライト家から事実は伏せられ、それもまさか花街に居るなど誰も思わず。
流石に生死すら不明ともなると罪悪感は薄っすらと学園に残っていた。
冤罪であることを知っている為、目に見えて憔悴している生徒まで居る。
お前達が一方的な嘘で追い出したダークグリーンの髪の乙女なら、今頃舞台でピアノを弾いているよ。
名を変えて、姿を変えて、誰にも縛られず微笑んで。
それにしても、生徒の消えた校舎内は不気味に静まり返り何とも寂しい場所。
刻々と暗さを増していく時間帯である。
一月も半ばとなればお屠蘇気分も流石に抜けて、ただ凛と冷たい夕闇が広がるばかり。
闇が怖くて花街の住人なんて務まらない。
ただあまりにも広い校舎内を延々と歩き続けるのは溜息の一つも吐きたくなる。
先程まで残った教師達で集まって熱いお茶を飲んでいた職員室は一階の東の果て。
目指す第二音楽室は校舎の最上階、それも西側の果てにあるので丸っきり逆方向とあまりに遠すぎる。
屋内だというのに寒すぎてコートが必要。
非常勤のトワが登校するのは週に一度。
今日を逃すと来週になってしまい、後回しにした方がよっぽど面倒臭いことになる。
来た時に必ず見つかるとは限らないのだし。
無限のような階段もやっと終わりが見えてきた。
絨毯が敷かれた廊下はトワの靴底を受け止めて足音が立たず。
加えて、嗜み程度といえども長年音楽をやっている彼女は耳が良い。
だからこそ逸早く気付いた。
耳が痛くなりそうな静寂に混じる、その違和感に。
放課後の空気を引っ掻く啜り泣き。
幽霊か何かと身構えたが、そんな場合ではない。
あれは悲鳴だ、夕闇に呑まれて今にも消えそうな。
これは何かの運命か。
寄りによって、声の出処が第二音楽室だなんて。
鳴り止まない悲鳴は鋭くも幼い響き。
感受性の強い者なら、聴いているだけで耳を塞いで泣き出してしまいそうな女の叫び。
階段の壁に身を張り付けて、トワは死角から窺った。
すぐに飛び出しては行けない。
廊下の窓際なので残り火のような夕陽に照らされて、扉のガラスを覗き込む白い制服の男子が三人。
何故あの悲痛な叫びを聴きながら笑っていられるのだろう。
軽口を叩き合う後ろ姿からしても興奮状態。
女の悲鳴に、下卑た顔を見合わせる男達。
中で何が行われているかなんて言うまでもない。
恋人同士の逢瀬ならば、恋愛禁止の王立学園では違反とはいえどもまだ可愛らしい。
むしろそうであってほしかった。
扉一枚向こう、あれは暴虐に他ならない。
普通なら、他の教師を呼ぶ場面だろう。
しかしここから職員室まで往復するにはあまりにも遠すぎる。
飛んで行ける訳じゃあるまいし。
強姦は抵抗出来ないようにと酷い暴力と一式。
殺意があろうが無かろうが、結果的に手遅れとなったらどうにもならず。
今にも女生徒が命までも奪われてしまうかもしれないのに。
この場は正面突破しか手はあらず。
悍ましさを深呼吸で吐き出してから、トワの低い声が静かに響いた。
「……お前達、何をしている」
せめてトワが男なら男子達も怯んだろう。
しかし性的興奮で馬鹿になっている時に女一人で立ち向かったところで肉やら穴やらとしか見えないらしい。
「丁度良い、こいつをヤッちまおう」なんて加虐性を獣のように滾らせる始末。
コートは羽織っていただけなので、胸倉を掴まれたらトワのシャツは簡単にボタンが飛んでしまう。
力加減まで獣になっていて理性はどこへやら。
背後から男子に腕を掴まれてトワは重々しく溜息を吐いた。
危機が迫っている身だというのに、ただひたすら「面倒臭い」の色一つで。
泣き真似でトワが俯いたのは単なる助走。
勢いをつけて後ろへ首を引き倒すと、男子生徒の顔に直撃した。
こちらも痛みで一瞬だけ目眩も起きたが効果覿面。
人体の急所は集中線。
特に鼻血が噴き出した時、喧嘩慣れしてない者は狼狽える。
星が散るような衝撃、大量の血、呼吸が出来なくなることによる思考力の低下。
そうこうしている間に後ろ手で襟を、もう片手で袖を。
トワに掴まれたら一巻の終わり。
そのまま床に投げて叩き付けたるは、まず一人目。
創作物内の柔道では戦闘時にポンポンと相手を投げ飛ばしているシーンがありふれているが、大変危険が伴うので試合外ではお勧めしない。
とある大会の決勝戦で片方が受け身を失敗し、背骨が折れて畳ごと救急車で運ばれて行った大騒ぎをトワは見たことがある。
深刻な後遺症が残ることだって。
喧しい、そんなの知ったことか。
襲う気で来るなら殺す気で向かい合ってやる。
武術の達人の女だとしても、力では中学生の男子にすら勝てないという。
多数なら尚更の話であってトワの方が不利。
ただ、それはお互いに丸腰の場合だ。
こちらには花街でも常に持ち歩いてる十手がある。
卑怯でも罪に問われても、こちらに暴行を加えようとしたからには容赦しない。
十手はそれこそ十の使い道。
極めれば最強、これを持っている限りトワは負ける気がしない。
男子の懐に飛び込んだかと思えば狙いはもっと下。
逆手に持ち替えて、足の甲を砕く勢いで柄を突き立てる。
汚い悲鳴を上げた男子の脚を払って倒して二人目。
振り被ってきた三人目の腕を十手で受け、痛みに痺れて怯んだところを鈎で固定すると相手は逃げられない。
トワの空いた方の手が顎先に掌底打ち、鋭い膝蹴りが制服の腹に沈み込んで終わり。
それにしてもこの面々には見覚えがあると思っていたのだ。
奴ら全員、王太子の騎士を気取っていた取り巻き達。
お前達は騎士か、豚か。
豚では女王様に決して勝てない。
トワのまたの名は鳥兜。
「騎士道」を花言葉に持ち、植物界最強の最強の毒でもある。
しかし本題は彼らを倒すことではなく、扉を塞ぐ物を片付けただけ。
音楽室の凶行を止めねば。
いや、しかし妙なことに今は悲鳴が怒号と鈍い音に摩り替わっていた。
どちらにしても嫌な予感に異様な空気。
「……もうやめろ!」
飛び出して間に入ったトワの手が血に染まる。
残酷なことならSMで幾らでも慣れていたが、飽くまでもエンターテイメント。
噎せ返る鉄錆の匂いに顔を顰めながらも網膜に焼き付いた。
平穏な場所だった音楽室が惨状に変わった様を。
夕陽を浴びて伸びた男女の人影。
桃色の髪と衣服は乱れきって血塗れ。
男子に馬乗りになって小さな凶器を突き立てているのは、次期王妃のロード。
白薔薇と謳われた可憐な少女が今や悪鬼の姿。
対する男子は一見して誰だか判らなかった。
その顔は熟れて弾けた柘榴。
きっと外の取り巻き達でも同じだったろう。
この息も絶え絶えの肉塊に等しい物が、彼らにとって理想の神と崇めている王太子だなんて。
床に散った赤い髪と割れた眼鏡。
守りを失った眼球は何も見えなくなって虚ろ。
同時刻、月華園でも一騒動起きていたことをトワは知らなかった。
突然、糸の切れた人形のように床へ倒れ伏した女が一人。
ミッドナイトブルーの髪にラベンダーの蝶々。
暗褐色の双眸を堅く閉ざした瞼。
静かに呼吸こそしているが、その指一本すら動かず。
「……ノエさん?」




