58:平家星
雪椿とレピド
「ご指名ありがとうございます……」
「おう、そう毎回拗ねんなよ」
セクハラでも嫌味でも大抵のことは人当たりの良い態度で受け流せる雪椿でも、微笑みの仮面が崩れる時くらいある。
苦みを堪えた素顔で挨拶の声も小さく平坦。
というのも、定期的に来るこの客の所為。
目の穴が空いてない黒いレースマスクで顔の上半分を覆っているのは「竜胆」と名乗る男である。
かなり大柄の為、ただ腰掛けているだけでどことなく威圧感があった。
全体的に淑やかなミッドナイトブルーで纏めた夕刻の装い。
そして少し癖のある黒髪に、華を添える銀のピアス。
月華園は顔と名前を隠すのがマナー。
しかし正体を知っている相手では、見ているこちらの方が妙な気恥ずかしさ。
彼の本当の名はレピド・ライト。
花街の若頭であり、伯爵家の次期当主であり、雪椿の主人であるノエの婚約者。
何故か彼女の元恋人と現恋人が一つのテーブルに着いている図なのだ、訳が分からない。
ちなみに薄荷は「何その地獄」と素直に呟いていたし、金手毬など大笑いしていたものである。
当然の話、雪椿の方も最初こそ気まずかった。
何しろ匂いに敏感なだけ、時折ノエが纏っている煙草の残り香が誰の物だか判ってしまったから。
慣れ親しんだラベンダーの匂いに混じる微かな苦み。
羨ましくて、憎らしくて、嫉妬は胸を苦しめる。
ノエと雪椿が昔交際していたことにショックを受けて辞めていった千歳葛もこんな気持ちだったのかもしれないと、初めて彼女に同情したものだ。
かといって、逃げるのも隠れるのも何となく負けた気がして「断る」という選択肢は蹴った。
これは馬鹿みたいな意地。
なのだが、人間とは妙な環境でも適応出来る生き物。
こんな状態が二年も続いていれば流石に慣れた。
正直なところレピドに呼ばれて悪いこと自体は無い。
酒で接客する店に共通するルールとして、月華園でも場内指名されるとそのまま給料に反映される。
独占されている間、疲れる愛想笑いで他の客と話さずに済み、ある意味自然体。
「何でも好きな物を頼め」と気前も良い。
ちなみに以前、お供でダヤンが一緒に来た時は白蓮も呼ばれたがマイペース過ぎてサポートに不向き。
フードメニューで一番高価なフルーツの盛り合わせを遠慮なく注文して、ほぼ食べることに徹していた。
通常ならばキャストの手で客に食べさせてあげる物なのだがここはSMショーパブ、媚びを売るなんてことはしない。
それにしても学生時代にノエと別れる原因になったダヤンとこんな形で再会するとは。
縁というものは皮肉で読めないものである。
「注文決まったか?」
「はぁ……まぁ、いつもので……」
メニュー表に視線を落とすこともなく一言のみ。
レピドが片手を挙げてボーイを呼び止め、注文を告げた。
要するに彼は何をしに来るかといえば、実のところほとんど普通に夕飯を済ませるだけで帰る。
確かにここ数十年で東洋の食文化も浸透してきただけあり、トワがこの国向けにアレンジしたメニューを取り入れてフードも人気の一つ。
彼女は貿易商の令嬢、他所で手に入り難い食材も「任せろ」と頼もしいことで。
とはいえ、レピドが雪椿を同席させる意味はまだよく分からない。
こちらは一定の警戒を保ち、笑顔を見せない無愛想。
実り無く盛り上がらない会話を幾つか交わすこともあるが、一体何が楽しいのだか。
それも指名料と奢りで割高だというのに。
「それで良い。何かお前、そこに居るだけで眩しい顔してるし」
「はぁ……でも顔なんか別に、ちょっと良えからって得ありませんし……」
容姿が美しいことなら雪椿も自覚くらいある。
昔は銀髪が悪目立ちするのを嫌がって、黒いフードを被って隠していた。
それを脱がせてくれて、代わりに帽子を与えてくれたのはノエだった。
彼女はどちらかといえば地味な方だったが、時折クールな無表情を解く様に惹かれていた。
最初はそうして遠くから見ているだけで良かったのに。
学生時代の綺麗な思い出に浸りかけていたら、紫煙の匂いで現実に引き戻される。
顔を上げた向かい側、咥え煙草に火を付けているレピドの姿。
台無しにされては苛立ちの一つも仕方あるまい。
彼が吸う銘柄はやたら鼻につく。
「吸い過ぎじゃないですか?」
「長生き出来るとも思ってねぇよ」
心配でなく嫌味から出た雪椿の言葉は通じない。
ただ、次の質問なら決まった。
「それなら竜胆さん……もしあなたが死んだら、僕はノエさん貰いますけど良いですよね?」
密かに深呼吸してから一息に吐き出した。
怒るのか、動揺するのか、それとも笑い飛ばすのか。
それでは、レピドの返事は。
「ワン公……お前がフラれたんはそういうとこだぞ」
本名は仔犬座プロキオン、ノエの飼い犬、そういう訳でレピドは雪椿を「ワン公」と呼ぶ。
そこはさておき、これは流石に予想外。
瞼を伏せ気味に、至って真面目な低音で打ち返されてしまった。
結局のところ痛い部分を突かれて感情が掻き乱されたのは雪椿の方である。
「あいつは俺の所有物じゃないだろ」
「はぁ……」
「というか、俺が死んだくらいで絶望するような女じゃねぇしな……」
「……そうですね」
これは自分で口にしておいてダメージを受けてしまったらしい。
煙草の苦い溜息を長々と吐いて、レピドが項垂れる。
きっとここにノエ本人が居ても同じこと。
どんなに悲しんでも憔悴する想像がつかない、男の支えなど要らぬとばかりに。
この二人が惚れてしまったのは、そういう女。
「結婚するなら、否が応でもあいつは今後の人生ずっと周りから俺の付属品として扱われるからな……
個人として扱ってくれる相手は一人でも居た方が良いだろ。だから"貰う"とか物みたいに言うなよ」
考え過ぎのようで、これは事実。
祖母や母が当主だったライト伯爵家で育ったレピドは夫婦が対等という価値観で、彼自身もノエとそうであろうとする。
しかし世間一般では夫の方が上と見られるものであり、爵位を持つ身分なら尚更。
支えたり守られたり、従順なだけの女ではとてもあの家は無理。
ヒロインでは駄目なのだ、いっそ悪女でなければ。
そしてレピドに指摘された通り、相手の意志を忘れてしまうのは雪椿の悪い癖。
若気の至りとはいえ嫉妬で壊してしまった。
手を伸ばしたら応えてくれたもので欲が出て、独り占めしようとしたのが間違い。
誰の物にもならない人だったのに。
「俺に何かあった時じゃなくて、あいつに何かあった時に頼める相手が欲しいだけだよ……まぁ、根回しだ」
「そんなん竜胆さんに言われんでも分かってますし、僕はあなたのそういうところが苦手です」
「俺は俺のこと嫌いな奴わりかし好きだけどな」
「ああ、そう……」
話にならない、雪椿にとってレピドも理解不能の範疇。
これだけ変わっているが為にノエとの関係を黙認している訳なのだが。
子供の頃に別れてから、大人になって再会するまで決して短くない約五年間。
ノエの方も同じだけ歳を重ねているのだからもう結婚してしまっている覚悟だってあった。
今という現実が奇跡の重なった結果なのだ。
再び逢えたことも、許してもらえたことも、近くに置いてくれたことも。
傍目では実に奇妙な関係。
千切れて、結び直して、縁の糸とは分からない。
「ご注文の品お待たせしました、ごゆっくりどうぞ」
無機質に近い声と共に、湯気を立てる皿が届いた。
運んできた店員は事務的な空気で手早くテーブルに並べて去っていこうとする。
その手を、伸ばした腕で雪椿が捕まえた。
振り返った店員の髪はミッドナイトブルー。
ラベンダー色のリボンがくるりと揺れて、ノエが首を傾げる。
「待ってノエさん、置いて行かないでほしいんよ……」
「あらまぁ……でも私に対する愚痴とかなら、本人居たら言い難いでしょうし」
「いや……俺らは、まぁ、お前の同担みたいなモンだよ」
悠々と頬杖を突きながらレピドが笑う。
仮面の下はどうしたって愉快そうで、まったく腹立たしいことである。
仔犬座の名を持つ雪椿はかつてノエの中にシリウスを見た。
自分と対となる巨犬座、地球から見える中で太陽の次に明るい恒星。
あなたは僕の一等星。
さて、この星座にはもう一つ欠かせない存在がある。
屈強で好色な巨人であるオリオン座、これらを結んで冬の大三角。
なぞらえれば、レピドが間に入ること自体は不本意ではあれど納得ならしていた。
決して言ってなどあげないけれど。
それこそ多分ずっと、誰かが欠けてこの関係が終わっても。




