可能性と挑戦
「お兄さん?」
ニノンが答えを求めるように哀音を見る。哀音はすうっと目を逸らした。
兄弟仲が良くないのだろうか、と察して、ニノンは悲しげに眦を下げる。ニノンには、しばらく会えていない姉がいるから、兄弟仲が悪いという話を聞くと、なんとも言えず、悲しい気持ちになってしまう。
ベルはお構い無しに続けるが。
「日本のアニメ文化の復活に関しては、汀兄弟の活躍の影響が大きいというのが、界隈では有名でしてね。哀音さんのお兄さん、相楽さんはプロジェクトには参加していないようですが、彼のイラストレーションは、『ジャパンカルチャーの復活』なんて騒がれるくらい、古き良き文化を踏襲したものだったんです」
時代が時代なら、神絵師と呼ばれていたでしょうね、などというベル。「神絵師」という単語はぴんと来なかったが、意味はなんとなくわかる。
人間はざっくりと「神様はすごい」と認識し、抜きん出た才能の人物に「神」という形容を使うことがある。
「絵師と画家の違いは未だにいまいちわかんないっすけど、哀音さんのお兄さん、すごい人なんすね」
「……ああ」
アダムの言葉に、哀音は瞑目する。
その気配に、ニコラスがあら、と少し緊張を漂わせる。ニコラスほどになれば、なんとなく、相手の話題が快いものか否かくらいは雰囲気で察せられる。快くない話はあまり聞きたくないものだが、哀音は何やら、話したい様子だ。
「兄は、心を壊してしまった」
「え」
ニノンとアダムの表情が凍りつく。ルカは少し目を伏せて、コーヒーにミルクを注いだ。
「よくある話だ。盗作なんて、普通の絵画でも跡を絶たない。機械にやらせたら、もっと容易になるんだよ。それを人間じゃなくて、機械がやったことにされたら……機械が悪いっていうのか? なんて、屁理屈を出してくるんだ。タチの悪いやつは」
「そんなの、機械を使ってんのは人間なんだから、人間が悪いに決まってんだろ」
「そこが難しいんだよ」
春子が溜め息のように告げた。
「ベルさんの言う通り、絵画エネルギー供給の効率化を図るなら、機械に描かせるのが速いって考えたやつは、日本にもいた。日本は生成AIについては他より色んな悶着があったけど、なんだかんだ、文化が根づく社会だったからね」
「色んな悶着?」
「あー、学習素材云々とか言ってた話か」
そう、と春子が頷く。哀音が目線をよそにやったことから察するに、その辺りに地雷が埋まっていそうだ。
ニコラスがコーヒーを一口飲み、唇を湿らせる。それから、意を決したように、口を開いた。
「機械の学習素材に使われた絵師は、心なんて存在しないかのように扱われたんだろう。機械を使う人々からすれば、人じゃなくて機械が描いてる。機械に心なんてないんだから、褒めなくてもいいし、尊厳を気にする必要なんてない。……そういう、機械を使う側の人間の心の無さが、今も昔も、人の心を殺めるんだろうね」
もう一口、飲もうとして、カップの中が空であることに気づく。けれど、ニコラスはそれを口に出すことはなく、底にうっすら残ったコーヒーブラウンをすうっと目に映しながら、カップを置いた。ソーサーが静かな音を立てる。
哀音の青い眼差しが、ニコラスを注視していた。ニノンやアダム、ルカまでニコラスを見ている。そんな大したことを言ったつもりはないのに。
「……なんだい?」
「やけに実感が籠ってんなー、と」
アダムの率直な言葉に、ニコラスは苦笑した。苦々しい実感。心当たりはある。
「いい? 生成AIの学習素材に消費される絵。あの話はどうしたって、絵画エネルギーに還元される絵画ととてもよく似ているの」
「あっ」
ニノンが思わずといった様子で口を塞ぐ。
人のために必要な消費。絵画そのものが褒められるわけではない。そこに与えられた付加価値は、果たして作者が本当に欲していたものなのだろうか——様々な観点や論点が、共通している。
暗黒の時代を乗り越えた先で生きる彼らにとって、あまりにも身近な話なのだ。
「そんな……絵画エネルギーが生まれる前から、人は、人の絵を消費して生活しているの?」
「そうよ」
「むしろ、そういうのがあったからこそ、『絵画エネルギー』を受け入れるのに、抵抗が少なかったのかもしれないね」
春子が浅く笑う。それは思わず零れた笑みのようでいて、自嘲や皮肉の滲む恣意的なものである。
生成AIの学習素材として、ある程度の絵師の絵が消費されることを、人は「文明の発展のために必要な出費」と考えたのだ。絵画エネルギーに関しても同じ。違いがあるとすれば、絵画エネルギーの方が、生活に直結するものであるため、「仕方ない」と飲み下しやすいくらいなものだ。
何事にも、多少の犠牲はつきもの。だからある程度、割り切って生きていかないといけない。
「でも、気にしてしまうのが、絵を描く人間だ」
ルカの呟きに、ニノンが反応する。出口の見えないトンネルの中、導くような声。
「全く気にしないで生きなきゃならない。そうできない方がおかしい、悪い。おかしいのかもしれないけど、悪いとは思わないよ、俺は。例えば、画家が『完成させられなかった』と言った女性の絵は未完の作品としてエネルギーに変換されることなく残っているけれど、それは悪いことじゃないと思う。絵画エネルギーのことを知らない時代の人っていうのもあるけど、それだけ、こだわりが深かったってことでしょう? だとしたら、きっと」
そこまで言い、口をつぐむ。
きっと、なんだ? きっと「かなりのエネルギー還元率になったはず」? それでは何か違う。こだわり抜いた絵が、絵画エネルギーの時代の評価を受けて、何になるというのだろう?
それに、今、話しているのは、心の話だ。絵画が、ニノンに語りかけてしまうような、そんな心を宿す絵を、人が描ける理由。そういう話をしたい。
「きっと、心の声が、強かったんだね。でもたぶん、口から出せる声は、大きくなかったんだ」
ルカの言葉を受け止め、ニノンが紡いだ言葉が、砂糖のようにしんしんと降り積もる。注がれたそれは、きっとこの場の誰もが欲しかったものだ。
大きな声を出せないから、描いた。そんな「絵画」まで飲み込まれたら、苦しくて、どうしようもなくなる。
「……そうだったのかも、しれないな」
哀音がソーサーの縁を撫でながら、こぼした。
「兄貴は、生成AIに自分の絵を学習させることを許可していたんだ。契約書もあるし、生成AIが利用されれば、賃金も発生した。普通の人からしたら、その条件で何が不満なんだってなるだろう。……でも、そう」
生成されたのは、汀相楽が描いたみたいな何かばかりで。自分の絵にしか見えないのに、それは確かに自分の絵ではなくて。
それだけでも、やきもきしていたのに。
「兄貴の絵は、『AIが描いたみたい』なんて言われるようになったんだ。自分で線を引いた。トレースなんてしていない。でも、絵柄が似てる、というだけでは、世間の声は終わってくれなかった」
「AIの学習元は、基本的に公表されないからな。昔からその辺の権利は難しいんだ」
公表されないからこそ、権利の保証がないのだろう。
契約書も交わし、了承はした。想像力不足だと言われるかもしれないが、果たして、そこまで想像が及ぶものだろうか。
「こういう透かしやノイズ加工が使われることが多くなったのは、そういった犠牲が出てからです。痛みには実感が伴わないと、人は動けないんですよ」
ベルが明朗に紡ぎながら、カップの底をスプーンで掻き回す。
対策をきちんと取っていなかった人間に「想像力不足」という言葉をかけることがあるけれど、人間は人間が思うより、想像の及ばない結果を生み出す。そういうものが、絵画になり、評価を得ることもあれば、人を傷つけ、貶めるだけで終わることもある。
「まあ、ここでああだこうだ言っても、どうにもならないことではあります。僕は僕の役割を果たしましょう」
ベルはそうして、哀音から渡されたファイルを鞄に仕舞った。ルカが疑問を口にする。
「それ、どうするんですか? 修復技術で取り除くには、文字と絵が一体になってしまっていますが」
「まあ、デジタルイラストは、絵の具の層でできているわけではありませんからね。……スキャナーで読み込んで、文字やノイズだけを選択して除去。それを完了したイラストを、再出力します」
「それは……元の絵と同じって言えるの?」
ニノンの疑問に、ベルはからからと笑う。
「それがデジタルイラストというものですよ。愉快でしょう? でも、これのエネルギー還元率が高ければ、生活はもっと楽になります。
絵画エネルギーのシステムと、生成AIのシステムは、とても相性がいいんです」
これは、挑戦なんですよ、とベルは笑み、席を立った。




