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コルシカの思い出  作者: 九JACK
200話突破記念
39/47

傷さえも愛おしく

「教会には行かないってさ、ミアちゃん」

 晴れ空の下、アダムがそう告げた。ルカが気のない様子で、そう、とだけ答える。

 ペリドット邸での騒ぎは、警察沙汰にまでなった。

 というのも、ミアの「お父さん」──あの執事の犯罪行為が明らかになったのだ。

 ミアの父親は主人であるペリドット伯の夫人を無理矢理犯し、子どもを作っていた。それがミアだった。伯爵夫人はそのことで世を儚み、けれどミアだけを残していった。ルカやアダムには理解できない「母親の心」というやつだったかもしれない。

 ミアはペリドット伯の下に贈られ、ペリドット伯はミアを密かに育てさせた。父親の目の届かないよう、ストリートで。

 不貞行為の産物と言えど、子どもに罪はなく、ペリドット伯はラピスラズリの目を持つリュカと同様、アンバーの目を持つミアのことも愛していた。だから、二人を姉妹のように接するよう仕向けた。

 宿屋の女将さんの言っていた噂話は半分は外れていた。ミアの存在を疎んだのは、ペリドット伯ではなく、執事の方だった。

 執事からすれば、不貞の証拠であるミアの存在を主人に握られていることは、心臓の冷えるものであったことだろう。そのため、ミアを決してペリドット伯に会わせることはなく、心ない言葉や所業を捏造して、「伯爵はミアを嫌っている」という噂の種を撒くような真似をした、というわけである。

 ミアへの虐待については立件が難しい。けれど、執事はそれよりももっと深い罪を重ねていた。

「ペリドット伯の殺人未遂──バレたなら消しちまえばいいってこった。毒を盛ってたとかなんとか。よくやるよ。バレなきゃいいと思ってたんだろうが、人殺しはさすがに、なあ」

「そうだね」

「ミアちゃんは小間使いのように使われて、絵画修復家を探させてたんだと。まあ、知識のあるやつは、手を見ただけで職業当てるらしいからな。あの子、感受性も豊かだし、洞察力も普通の五歳児のそれじゃない。ルカを修復家と見抜けたのも偶然じゃないらしい。絵の具とか洗浄液とかの匂いをかぎ分けたんだと」

「へえ」

「で、ミアちゃんが教会に行かない理由なんだけどな、ミアちゃんがキズモノだかららしい。まあ、全身にひどい痣があってな……それに、ピエロをやって物乞いするのは楽しいって言ってたよ。お姉ちゃんが今でも見に来てくれている気がするって」

「そう」

「……ルカ」

 アダムは静かに低く、ルカの名を呼ぶ。ルカは温度のない声で、なに、と応じた。動いていた筆先が、ぱしりと手首を捕まえられることで止まる。

 うつら、とアダムに振り向いたルカのラピスラズリは淀んでいた。目の下に色濃い隈をこさえている。心なしか、頬が少しこけているように見える。

「聞いてねえだろ、この修復馬鹿!!」

 アダムの雄叫びに、限界を迎えたルカがふらふらと倒れる。アダムはくいっと手首を引き寄せ、抱き留めた。

 譫言のように、ルカが言う。

「だって……あと、もうすこし……」

「それ、昨日も聞いたし、一昨日も聞いたし、一週間前も二週間前も、一ヶ月前も聞いたわ! 休め、アホ!!」

 怒鳴り散らしたものの、ルカが今回の仕事に執心するのはわかった。

 これは罪によって汚された絵を浄化する(なおす)仕事だ。そういう神聖なものだ。ミアの事情を知ったのなら尚更、何を差し置いても成し遂げたい、というのはわかる。

 アダムは目を回しているルカを軽くあやしつつ、ルカが修復していた大きな絵画を見る。事件のあった一ヶ月前の悲壮な姿から、確実にきらびやかさを取り戻した絵画は、それでも尚、痛ましく、慈しみを持って、輝いていた。

 無数の矢に刺された少女が、一本の矢の痛みに耐えられない少女に手を差し伸べる絵画。それは宗教画のように、荘厳で美しかった。慈しみに満ちたラピスラズリの瞳と、涙を流すアンバーの瞳の交錯。執事によって、修復が困難なように幾重にも塗り潰されていた少女の姿は、ミアの容姿に酷似していた。

 ペリドット伯が、この絵を大切に思っていたのは確かであるだろうと同時に、執事にとっては己の犯した罪の権化のような絵で、気が狂いそうだったのだろう。否、気が狂っていた。

 ルカ曰く、修復痕がいくつもあったという。そのたびに、執事が塗り潰して、己の罪科を隠してきたのだ。だから、ルーブルに永遠に提出されない絵画となった。

 一ヶ月、ルカはこの絵画の修復に心を傾けた。手を差し伸べるラピスラズリの目の少女は日系の面差しをしていて、ルカも他人事と思えなかったにちがいない。

 さすがに一ヶ月もかけただけあって、ルカの譫言もあながち嘘ではなくなっていた。もう、この絵画の完全修復は近い。

 ミアが教会に孤児として行かなかったのには、もう一つ理由がある。教会に入ると、自由時間が利かなくなるのだ。だから、ルカが直した絵画を見られないまま……絵画の中に息づく、リュカにお別れを告げられないまま、ルーブルに送られてしまう。それは、「お姉ちゃん」との再会を果たしたくて、修復家を探していたミアにとっては、酷なことだろう。

 ミアの記憶の中で、リュカは生き続ける。けれど、まだまだこれから先の長いミアは、死んでしまった人のことに踏ん切りをつけて、前を向いて生きていかなければならない。

「夢があるんだ」

 ミアは病室に見舞いに来たアダムに告げた。

「わたしとリュカお姉ちゃんは違う。でもね、リュカお姉ちゃんが、わたしに優しくしてくれたように、わたしもいつか、誰かを助けられる人になりたいの。……だから、あの絵を、ルーブルに送られる前に一目でいいから、本当の姿を見たいの。わたしがリュカお姉ちゃんみたいになれるように」

 ミアのその言葉は切実で、五歳児のものとは思えない重みを伴っていた。

「人は何故書くか。創作の中でなら、会いたい人に会えるからだって言葉が、どっかの本にあってな」

 アダムは眠ったルカに語りかけるように独白した。

「きっと、ミアちゃんにとって、この絵画が修復されることで、リュカちゃんに会えるってことになると思うんだ」

 だからってお前は無理しすぎだけどな、とアダムはルカの額をぴん、と弾いた。ルカは少しも呻くことなく、深い眠りに落ちている。

 アダムはそれにふっと笑った。

「だから、お前は正しいと思うよ」

 それはそれとして、ちゃんと休め、と小言を添えながら、アダムは簡易ベッドにルカを横たえ、毛布をかけてやった。

 そこに、ひょこ、とニノンが顔を出す。

「ルカ、寝た?」

「ああ」

「でも、だいぶ修復が進んだみたいだね。声がきちんと聞こえるようになってきた」

 ニノンは絵画の声を聞く。それは描き手の祈りだったり、思いだったりするものだ。時に、それを他人に伝播することもできる。その力を「才覚(センス)」と呼んでいた。

「ペリドットさんのこの絵画への愛があったかく伝わってくる……絵画の修復が終わったら、ミアちゃんにも見せてあげないとね」

 そう紡ぐニノンに、アダムは渋面を浮かべる。

「それはいいが、お前まで無茶するなよ」

「うん」

 才覚(センス)を使いこなすには、ニノンに肉体的負担がかかる。鼻血を出して、倒れたこともあった。

 それはニノンの優しさであるけれども、できるだけ誰にも傷ついてほしくないとアダムは思う。

 だってもう、人がたくさん傷ついた事件(ものがたり)の幕引きだから。


 快復したルカが、罪人の重ねた黒塗り(うそ)を引き剥がし、無事、絵画の修復は完了した。ペリドット伯も快方に向かい、少し寂しそうにしながら、修復された絵画をルーブルに提出する、と宣言した。

 妻も愛娘も亡くし、失意に陥っていたのは本当だ。けれど、ペリドット伯はミアを見守っていく、とルカたちに告げた。

 ニコラスが一行を代表して告げる。

「是非、そうしてちょうだい。ミアちゃんは年齢不相応(アダルトチルドレン)になってしまったけれど、信じられる大人が見守ってくれているだけで、充分心強いでしょうから」

 そう残し、去る旅の一行をペリドット伯は呼び止める。

「もう行かれてしまうのですか? せめて、御礼をもっと形としてお贈りしたい」

 それに答えたのは、ルカだった。

「いえ、依頼料は十分すぎるほどいただきましたし、俺は──傷ついた絵画がそこにあったから、修復しただけです」

 そんなルカの言葉にペリドット伯が呆気にとられる中、ルカに飛びついたのは、ミアだった。

「ルカお兄ちゃん、ありがとう。お姉ちゃんを直してくれて、ありがとう。ルカお兄ちゃんは違うって言ったけど、やっぱりルカお兄ちゃんはわたしの運命の人だよ。……わたしの運命を変えてくれた人だよ。だから、ありがとう」

 涙声でそう告げて、ミアはルカの頬にちゅ、と軽い口付けをした。親愛と感謝の口付けを。

 ルカは驚いたものの、ミアのダークブラウンの髪を優しく撫でる。やはり手入れが行き届いていなくて、ぱさぱさだったけれど、その感触さえ、愛おしく感じられるほどに、ルカはミアのことを愛しく思っていた。

 決して恋情にはならないけれど、かけがえのない出会いだった。

 アダムの車に乗り込み、旅の一行は街を去る。

 その車の影が見えなくなるまで、ミアは彼らに手を振り「ありがとう」と叫んでいた。

これにて200話突破記念は完結となります。

改めまして、さかなさん、「コルシカの修復家」200話突破、おめでとうございます!!

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