ニコラスと二色型色覚
色盲とは、色がわからないこと、と捉えられがちだが、別にモノクロの世界が見えているわけではない。
「さっきの四色型色覚とは逆って考えればいい。色を感じ取る錐体の種類が少ないから、感じ取れる色の数が少ないってことだね」
「なるほど?」
ニコラスの説明はだいぶ噛み砕いたものだったが、ニノンとアダムの頭上にはまだクエスチョンマークが浮かんでいる。ニノンは共感覚持ちであり、アダムは一般的な三色型色覚の持ち主だから、二色型色覚の感覚がわからないのも無理はない。
それを見て、アイカはすかさず新しいパネルを出す。この[美術館]の従業員をしているため、この手の疑問に関する解答がスムーズにできるのだろう。
アイカが出したパネルには、文字ではなく、色のグラデーションがついたグラフが縦に並んでいた。そのパネルを固定して、更に文字の書いてあるパネルを出し、解説する。
『一番上のカラフルなグラフが四色型色覚の見え方です。その下が一般的な三色型色覚の見え方。更にその下三段は二色型色覚の赤、緑、青の錐体が欠けたそれぞれの状態の見え方です』
「赤の錐体が欠けてるのと、緑の錐体が欠けてるののグラフ、ほとんど同じ色合いに見えるね」
ニノンが二つ並んだ二色型色覚のグラフをなぞる。それを眺めながら、ニノンの言葉を咀嚼し、アダムがぽん、と手をついた。
「なるほど、よく色盲のやつの例で出される、赤の傘と緑の傘を間違えるって話はこういうことなのか」
アダムの目を通して、つまり三色型色覚にわかりやすいように色で表現しているのがこのグラフだ。赤の錐体が欠けた場合と、緑の錐体が欠けた場合の赤と緑に相当する部分の色は灰色がかった黄色に見える。つまり、赤と緑の判別は黄色みが強いか灰色が強いかの些細な違いでしかなく、三色型色覚向けに表現されても区別が難しい。ということは錐体が一種類欠けた状態の二色型色覚の人物はもっと見分けづらいということである。
「赤の傘と緑の傘はミステリー小説なんかで見たことがあるわね。文章だけだと理解ができないけれど、こうして色グラフで見比べると実感が湧くわ」
ニコラスの言葉にアイカが頷き、新たにパネルを出す。
『色盲と言われると、モノクロにしか見えないと言いますが、二色型色覚の方は完全に色が見えないわけではありません』
『錐体の種類が増えると、見える色の種類が増えるのとは逆に、錐体の種類が減ると見える色の種類が減るというだけで、全く色が感知できないというわけではないのです』
『世間一般がイメージする色盲がモノクロの世界というのはかなり稀な存在である錐体を一種類しか持たない一色型色覚の方の感覚が一番近いでしょう。けれど実際に多い色盲というのはこういった二色型色覚で、色が全然ない世界に見えるわけではないのです』
アイカの解説はわかりやすい。ニコラスも感心して溜め息を吐く。
この店の店主に恩返しするために、アイカはたくさん勉強したのだろう。頭がいいのもあるが、その頭の良さを発揮するためには知識を自分のものにするための努力が必須だ。事このような専門分野の場合は才能だけではどうにもならない。
アイカは話せない分、他者に知識をアウトプットする術が限られている。そんな中で、試行錯誤し、わかりやすいパネル形式での説明ができるようになったのは彼女の努力の賜物だ。店主が四色型色覚の持ち主であるということも幸いしているだろう。
「それで、色の区別が難しい二色型色覚の人間が、その人なりに色を塗って、細かな濃淡や感覚的に感じ取った色の違いを重ね塗りして完成させたのが、さっきの四色型色覚用の絵ってわけだね」
ニコラスの言葉に頷きながら、アイカは広げたパネルを片付ける。手伝うよ、とアダムは手近のパネルを重ねてまとめ、アイカに手渡した。アイカはぺこりと頭を下げる。
それから、アイカは新たなパネルを取り出す。
『この作品はひっそりと活動している色盲芸術家団体の方から寄付していただいたものです。ご主人様の[美術館]の意図を理解してくださった方々が、自分の作品もほんの一握りの誰かには認めてもらえるかもしれない、という希望に賭けて、預けてくださったものです』
『絵画保管の都合上、サインはされていませんが、寄付していただいた作品のタイトルと作者の名前は書類に控えております。よろしければ、匿名でかまいませんので、絵画の感想をいただけませんか? 作者にお送りして、新たな作品を生み出す励みになるように』
その言葉に、ルカは一も二もなく頷いた。それに応じて、アイカが奥から便箋とペンを出してくる。
ルカが感想を書いている間、他の面々はアイカの提案で、[JOKERSHOP]の店としての側面である喫茶を満喫することにした。コーヒーに紅茶、フルーツジュースのみならず、軽食も取り揃えている。
ニコラスは紅茶、アダムはコーヒー、ニノンはオレンジジュースを頼んだ。あとはみんなでつまむ用にホットサンドを注文する。アイカは奥に引っ込んでいった。まさかアイカ一人で作るわけではないよな、と思いつつ、わりと早めにドリンク類が提供されたため、ゆったりと味を楽しむ。
「お、苦味と酸味のバランスがいいな。もしかして、豆取り寄せてんのか? 贅沢だなぁ」
メニュー表にはコーヒーは二ユーロと書かれている。お手軽なのではないだろうか。
紅茶も美味しいようで、ニコラスは香りを楽しんでいた。赤い水面から漂う芳しい香り。すっきりとした味わいとのど越し。飲み終えた後、鼻腔を抜ける華やかな香り。普通に喫茶店として良いレベルの紅茶である。
「オレンジジュースも美味しいよ! 酸っぱすぎず、甘すぎず。オレンジのさわあって感じ、私好き! ルカは何頼む?」
「グレープフルーツジュース」
「グレープジュースじゃなくて?」
「しっぶいなあ、お前」
などと歓談をしていると、奥の方からいい匂いがしてくる。ベーコンを焼いている芳ばしい香りだ。人の気配は相変わらずアイカのものしか感じられないので、やはりアイカが一人で切り盛りしているのだろう。
アダムがカップを手慰みながら、ぽつん、と呟く。
「ここの店主ってどんな人なんだろうな。アイカちゃんは随分敬愛しているみたいだけど」
「この時代に[美術館]を名乗るのは、相当な変わり者よね。知識人でもあるのかしら?」
絵画エネルギーが普及して以降、[美術館]というものが存在しなくなってから長い。そんな[美術館]の存在を知っていることからして、かなりの知識人なのは確実だろう。
それに違法にならない美術館として展開していることから、相当に頭が切れることもわかる。知識と知恵を兼ね備えた人物だ。そして計画を実行するための財力とコネクションがある。
そんな、わりと完璧に近い人間は、かなり性格が曲者だ。おそらく、アイカしか従業員がいないのは、ここの店主の採用基準のせいなのだろう。
まあ、あまり大々的にやると、ルーブルに目をつけられかねない。そういう点で考えると、こうしてこじんまりした小さな店にしている方がいいのだろう。そこまで計算づくだとしたら、店主はかなりの切れ者だ。
やがてトーストの焼ける匂いがしてくる。小麦の焼ける独特な芳ばしさ。何故かこれを嗅ぐと懐かしく、少し贅沢をしている気分になる。
バターの芳醇な香り、じゅう、ぱちぱちという耳だけでもう美味しいことがわかる音。野菜のフレッシュな香りとマスタードのまろやかでいて刺激的な香りが合わさり、食欲をそそる。
アイカがホットサンドを持ってくる頃には、ニノンとアダムは完全に腹ペコ青虫になっていた。
「わー、少し温まったトマトがとろっとしてて美味しい~」
「レタスのしゃきしゃきが残ってんのたまんねえな」
美味しい軽食に舌鼓を打つ。なんて贅沢なひとときだろうか、とニコラスは目を細めた。
ルカは感想を書き終えて、メニューをじっと見ている。
「何か頼みたいものでもあるの? っていうかあんたもちゃんと食べなさいよ、ルカ」
「ううん」
ルカから返ってきたのは否定寄りの曖昧な返事だ。声をかけたニコラスと共にアダムが呆れた顔をする。
ルカは関心のある物事に関してはとことん没頭する質で、没頭したら寝食も忘れるレベルである。その集中力は凄まじいものだが、寝食は最低限きちんとしてほしいところだ。
ニノンが甲斐甲斐しくルカの分のホットサンドを取り分ける傍ら、ルカはメニューをぺたぺたと触る。それから、アイカを見た。
「もしかして、まだ作品がありますか?」
アイカは少し切なそうににっこり微笑んだ。




