ニコラスと防護ガラス
「へえ、そんなことがあったのね」
天気のいい昼下がり、胸の透くような青い空。その中に漂う雲のようなふわふわとしたクリームが皿の上にたっぷり乗っている。ミントとベリーが雲の中で楽しそうにダンスをしているような一皿。この喫茶店の人気メニューのケーキであった。
ニノンはラーシュエの家を出てから、近くの喫茶店に行きたいと告げた。最初はニノンの駄々だと思っていたのだが、ラーシュエからおすすめされたのだ、と聞いて、なんとなく行ってみることにしたのだ。
勧めてくれたラーシュエの前でそんな話をされれば断りづらいというのもある。幸い、あまりお金にも困っておらず、紹介されたケーキの値段もサイズもお手頃だったため、大して断る理由もなかった。
ラーシュエが出してくれた朝食はトマトスープにトースト。マッシュポテトとベーコンのチーズ焼きに両面を焼いた目玉焼き。かしこまりすぎない味にほっと一息吐いた一同は、ラーシュエにどこか母性のようなものを感じていた。まあ、全体的な印象はお母さんというよりおばあちゃんだが。
その喫茶店でラーシュエと戸棚のガラスの話をした。ニノンの能力のことは知っているから、不思議がりはしなかったが。
「絵画を守ってたガラスねえ……」
「ガラスは溶かして再利用できるからね。そういうこともあるよ」
「つか、その能力、絵画だけに使うわけじゃねえんだな」
アダムの指摘にニノンは少し切なげに微笑んだ。
「たぶん、ずっと絵画の傍にいたから、絵画の記憶が移ったんじゃないかって思うの。リーザさんのこと、大好きだったんだろうな」
ケーキのスポンジは口に含むとしゅわりと溶けてなくなる。生地にレモンでも入っているのか、仄かな酸味が抜けて、クリームの甘さを中和している。
ガラスはスプレーからも、小石からも、ケーキからも、人々の心ない言葉からも、モナリザを守ってきた。トマトスープをかけられたひまわりも、マッシュポテトを投げられた積みわらも、ガラスによって守られた。
人間の悪意から守るために張られたガラスたちは、絵画エネルギーが発見されたことにより、不要となって、日常生活の中へと溶けていった。文字通りの話だ。エネルギーに変換されて消える絵画に守るためのガラスは必要ない。
なんだか言葉にすると物悲しいものである。
ニコラスが紅茶を一口飲み、それから訥々と語り始める。
「でも、その子たちはニノンに出会えて、あのおばあさんに出会えて、よかったんじゃない? 守るものがなくなっても、役目があるって、いいことよ。
石炭燃料がなくなって、エネルギーショックは起こってしまった。そんな暗黒の時代から、絵画エネルギーが生まれた。絵画が人々の生活のために必要とされる時代。それが今よ。当時の環境活動家とやらにとってはやたら皮肉の利いた世界なことでしょうね。
でも、防護ガラスは防護ガラスじゃなくなっただけで、ガラスとしての役割が残って、ラーシュエさんに出会って、ニノンに出会った。これってすごいことよ。ガラスなんてどこにでもあるのに。加工されるとき、砕かれてばらばらになるのに、奇跡的に『声』が残って、声なきものの声を拾う人と出会った」
きっと、出会うべくして出会ったのよ、と紡ぐニコラスをアダムが肘でつついた。
「随分とロマンチックに語るじゃねえか」
「あら、夢があった方がいいわよ。少年少女」
からかうようにニコラスは言葉と共にアダムの唇に人差し指をふに、とあてがった。アダムがぞぞぞ、とドン引きする。ニコラスはにこにことしていた。
「うん、そうだね。夢っていうか、意味っていうか、そんな感じのものがあった方がいいよね」
「ニノン、頬っぺにクリームついてる」
「わわ、ルカ?」
どやぁ、としたニノンの頬をルカがナプキンで拭った。アダムがそれを見てくつくつと笑い、ニノンが顔を真っ赤にしながらアダムを睨む。
いつもの旅する四人の光景だ。
こんな和気藹々とした日常がいつまでも続けばいい。それは理想で、夢だ。夢は永遠には続かない。何故なら、夢を持つ人はいつか死んでしまうから。
夢を持っていなくても、人間という生き物はいつかは死んでいってしまう。世界に爪跡を残して死ねる人間なんてそうはいない。そういう意味では今でも僅かながらに知る人のいるかつての環境活動家はすごいのかもしれない。
けれど、そんな残り方でよかっただろうか。人々の心に残ったのは彼らの「悪事」だ。悪いことほど戒めとして伝承されやすい。そんな残り方でよかったのだろうか。
彼らの夢が何だったのか、新聞記事からはわからない。そこにはただ、彼らが絵画を傷つけようとしたことが載っているだけだ。彼らがトマトスープをかけながら、マッシュポテトを投げながら言った言葉は感情の乗らない誌面上の言葉としてあるだけで、彼らがどういう夢のために熱量を持っていたのかは全く伝わっていない。
何も伝わらない悪事を世界に残すより、誰かの心を、たった一人の心でも温められるような夢の方が報われるはずだ。
そういう意味で、この子たちが夢を持てるように、とニコラスは目を細め、ルカ、ニノン、アダムを見る。
きっと私たちの旅の話なんて、世界に爪跡を残すような大事件になりはしない。英雄にも悪党にもならなくていい。今を噛みしめて、思ったことを口にして、悩んで。苦しみながらでも夢に辿り着けたなら、きっと彼らは報われる。
大丈夫、私たちだって、出会うべくして出会ったのだから。
これにて、緊急企画「環境活動家について」は一幕となります。
思想を持つことは悪いことではないです。夢を叶えようとすることを応援はしても、否定はしません。ただ、その過程の行いが誰にどう思われるのか。何がその行いの果てに残るのか。それを考えて行動してほしいな、と思います。




