ルカとマッシュポテト
アダムとニコラスが戻ると、ラーシュエが温かく迎えてくれた。
「寒くなかったかえ? ほれ、トマトスープ、いっぱいこさえたから飲んで飲んで」
「あ、ありがとうございます」
外套を脱いで、ラーシュエからトマトスープをもらう。器がほんのり温かく、その温みで指先が冷たかったことを知る。ニコラスがアダムを見るとばちりと目が合い、「な?」と言われた気がした。
トマトスープにはハーブもふんだんに使われているようだ。体が温まるし、心も休まる。
「ニコラス、大丈夫?」
「え、何が?」
ニノンからの問いかけにニコラスがきょとんとするとニノンは眉を八の字に曲げた。
「ニコラス、あんまり顔色よくなかったから。疲れてるんじゃない?」
気づかれていたようだ。ニノンにまで気づかれていたということは、ルカもわかっていたのだろう。そんなルカは黙々とトマトスープを食べている。
ニコラスは苦笑いをして、大丈夫よ、と言った。
「アダムちゃんに元気づけてもらったから!」
「いきなり抱きつくな!」
きゃいきゃいと辺りが騒がしいことなど聞こえていないかのようなルカは黙々と何をしているのかと思えば、新聞を読んでいた。
見るつもりはなかったのだが、アダムの目はその新聞の日付を捉えて、うわっと声を上げた。
「ルカ、そいつ一体どっから引っ張り出したんだよ? 滅茶苦茶古いやつじゃん。状態はいいけど」
「ん」
「ん、じゃなくてな……」
「おばあちゃんが見せてくれたんだよ!」
まともに取り合わないルカに代わり、ニノンが答える。
ラーシュエが旅の話を聞きたいというので、ルカが絵画修復家であることを話したのだ。するとそれに感銘を受けたらしいラーシュエが新聞を持ってきたのだという。
「何が書いてあんだ?」
「ずっと昔の絵画関係の事件だよ。環境活動家って知ってる?」
アダムとニコラスは顔を見合わせた。タイムリーな話題である。
ラーシュエがトマトスープをよそいながら、誇らしげに語った。
「絵画修復家さまは本当に立派なお仕事でねえ……昔の人が絵画にトマトスープやマッシュポテトをかけた事件から、絵画修復家さまが重要視されるようになったのよ」
「絵画修復技術の発展の基礎ともなった事件だよ。まあ、保護ガラスがあったから、絵画は無事だったらしいけどね」
なるほど、ルカが食い入るように新聞を眺めている理由はわかった。ラーシュエくらいの年齢だと、絵画エネルギーが発見される前の暗黒の時代も知っているだろうから、絵画を生み出す画家や、絵画を直す修復家はなくてはならないし、尊敬すべき対象なのだろう。
ニコラスの悩みが思わぬ形で解決した。
ただ、ここで疑問が生まれる。
「それじゃあ、なんでおばあちゃんはトマトスープを作るの?」
「トマトスープが好きだからさえ」
糸目をにこやかに緩ませ、ラーシュエは答えた。
「確かにそん時のそん人たちがトマトスープを投げたのは良くないごったど思うべ。けんど、それでトマトスープが嫌いになるわけでねえし、マッシュポテトも好きなままだ。お嬢ちゃんだって、絵画にケーキを投げられたって話を知ったって、喫茶店に美味しいケーキがあれば頼むべ? そういうことさ」
「うーん、確かに。悪いことした人が悪いんであって、トマトスープもポテトも何も悪くないもんね」
確かに、その事件はトマトスープが悪いわけではない。マッシュポテトも悪いわけじゃない。ケーキにだって、罪はない。
けれど、考える人はニコラスのようにそれらの紐付けられる食べ物を見るたび、心を痛めるだろう。それはトマトスープやマッシュポテトからしたら、とんだとばっちりである。
「まあ、そういうことがあったからこそ、トマトスープを店の看板にしてたこともあるのさ」
「トマトスープを好きでいてもらえるように?」
「んだ」
それに、とラーシュエは付け加える。
「美味しいもん食えば、とりあえず幸せになっぺ」
「あはは、それは確かに」
ニノンが朗らかに笑うのを見て、ニコラスは我が子を見つめるような優しい目になり、ラーシュエにトマトスープのおかわりを求めた。
ニコラスの気が逸れた隙に、と抜け出したアダムはルカのところに行く。その気配に気づいたルカが、ん、と首を傾げた。アダムはん、とルカの肩に顎を乗せ、新聞を見る。
新聞にはコラムとして「環境活動家について」という見出しが挙げられている。
最近の環境活動家は何故絵画を狙うのか。それは彼らからしたら絵画に一ミリも価値というものが感じられないからだろう。いじめと同じだ。人は好きな人にトマトスープをかけたりしない。マッシュポテトを投げたりしない。嫌いな相手にはその価値を貶める目的で様々なことができる。つまりは理性のはたらかない状態になるということである。
彼らの主張として「絵画と、地球と人々を守ることのどちらが大切なのか」というものがあるが、そこは土台が違う。石炭燃料の使用により、環境破壊が進んでいることは確かだ。だが、絵画と環境破壊は紐付けられるだろうか。
絵画は自然の美しさ、人の美しさから生まれたものだ。それを否定するのはむしろ環境破壊とそう変わりないのではないか。
クロード・モネの積みわらに至っては農業の経過である「積みわら」という行為に対し、「こんな絵画が我々の飢えや凍えを癒してくれるのか」といった主張までなされている。積みわらは機械のなかった時代の人々の知恵によって生まれた作物を食べやすくする手法だというのに。そこにマッシュポテトを投げるのは、過去の名もなき知恵者たちに石を投げつけるようなものだ。
絵画の意味も知らないで、心無い行動に出られるのが現代の若者である。断片的な情報のみを盲信し、盲目に陥った愚者だ。もっと若者はたくさんのことを学び、本当に不必要なのは何か、主張の正しさを行動として表す正しい方法を見出だしてもらいたい。
「『絵画の意味』……」
ルカがふと呟いた。
「きっと、俺たちは絵画の意味も知らないで、エネルギーの恩恵を受けている。無知は罪とかいうけど、これも、そうなのかな」
「ルカは違うよ」
ルカの疑念を否定したのはニノンの透明な声だった。
撫子色の髪がふわりとこちらを向く。すみれ色がルカの夜空とぱちりと合った。
「ルカはちゃんと絵画に向き合ってる。その絵のことを知ろうとしなくちゃ、修復なんてできないよ」
ニノンの言葉にアダムも同調する。
「やろうと思えば、絵なんてそいつの価値観でいくらでも『綺麗に』できる。でもお前がやってんのは直す……元の姿に『戻す』ってことだ。この記事の言葉を借りるなら、お前の修復家としての行動は修復家として主張したいことを正しく主張できる方法でやってるって思うぜ」
ルカはに、と仄かに笑んだ。
「うん」
俺はね、とルカが語り始める。
「絵画修復家がこの事件の後、注目されて、今の俺の仕事に繋がっているとしても、こんな事件、起こっちゃいけなかったと思ってるんだ」
「どうして?」
「こんなことしたって、誰の腹も膨れないよ。意味がないもの」
「──意味がないことは、しちゃいけないのかえ?」
そこでルカに問いかけた人物に一同が驚く。
「ど、どうしたの? おばあちゃん」
「どうもないさ。気になったんだ。意味があるかどうかなんて、そん人そん人で違うべだ。エネルギーに変換するために絵を描くことが、修復することが、意味のあることだと思うか?」
「エネルギーになるから、一応意味はあるだろ」
アダムが困惑気味に反論すると、ラーシュエはきっぱり首を横に振った。
「エネルギーに変換するのは『意味』でねえ。『意義』だ。『大義名分』っても言うな。意味と意義は違う。修復家さんは、どう思う?」
「俺は……」
ルカはす、と背筋を正して答えた。
「ぶつけられたマッシュポテトの味も知りたいです。だから修復します。修復することで、新しい意味が生まれることがあるかもしれないから」
誰かが何かのために描いた絵。絵画エネルギーのなかった時代は、エネルギーにする以外の意味しかなかった。文学でも言われることだが、作品にどういう思いが込められたか、その正解を知っているのは作者だけだ。作者の誰もが意図を公表するわけではない。公表されない意図を想像して楽しむことが、人々にとってその作品の価値で、意味だったのだと思う。
絵画を元の姿に戻す修復をする自分と在り方が似ていると思った。ルカの修復は作者がどんな意図でどんな画材を使ったか、推測して、修復するものだから。
「修復前と修復後の絵画では、見え方がかなり違うこともあります。あるいは『修復前の絵の方が好きだった』という人もいるかもしれません。そういうのが『意味』なんじゃないですかね」
経年劣化でしか得られない趣があったりする。いつかの「夕暮れ時」のように。
「いい修復家さまでえがった」
ラーシュエが糸目を垂れさせた。
「いやいや、変なことを聞きました。老い耄れの戯言と思ってくださいな」
「いえ」
何か見えた気がするので、とルカは言った。




