還るべき場所へ
「メイちゃんに呼ばれたってどういうことだ? それでどうして人が消える?」
「あ、アダム、あんまり乱暴なことは」
「しねえよ。しても意味がねえ」
少し怒っているように見えるアダムをニノンが宥める。ただ、ニノンは不思議に思った。何故アダムは「意味がない」と言い切ったのだろう。
セドナはアダムの剣幕に気圧されるどころか、むしろ笑みを深めてすらいた。けれどそれを不気味には感じなかった。浮かんでいるのは安堵だ。
「メイ様の絵画はメイ様の意思をお持ちです。おそらくお二人はメイ様のお眼鏡にかなったのでしょう」
「意思……喋ったりするってこと? 私には何も聞こえないけど……」
ニノンの発言にアダムは考え込む。絵画の意思だの声だのを読み取る能力をニノンは持っている。そのニノンが何も聞こえないとはどういうことなのか。
セドナが出鱈目を言っている可能性は大いにあり得る。では嘘を言っているのか? と問われると、言葉に詰まってしまう。セドナの緑の目は純真無垢な透明度を保っているのだ。
「近くに行けば、ニノンにも何かわかるんじゃねえの? 案内を頼める?」
「もちろん。この先です」
セドナが示した奥には細やかな装飾が施された扉。ここまで来る中でいくつかの扉を目にしたが、ここの装飾はひときわ美しい。
「きっとメイちゃんはずっと大切にされてきたんだね」
ニノンがぽつりと呟くと、セドナはにこりとどこか得意げに笑った。
ニノンは気づいていないようだが、セドナはもう……
「こちらになります」
セドナが扉を開けると、その部屋の中央に絵画があった。大きな部屋なのに、絵画がぽつりと佇む姿はどこか寂しげだ。
その絵画には女の子が描かれていた。見た目はセドナと同じくらいだろうか。こちらに笑いかける女の子は黄色い髪をしていて、目は群青だ。
何より目を惹くのが深紅のドレス。こんなに深く、不自然な赤はない。アダムはあることに気づいてしまった。
セドナがにこにこと説明する。
「こちらがメイ様です。青い目と目映い金髪、そして緑のドレスが素敵でしょう?」
「え、セドナちゃ──」
ある指摘をしようとしたニノンの口をアダムが慌てて塞ぐ。ニノンに耳打ちする。
「いいか? それは言うなよ」
ニノンがわからないながらにこくりと頷く。
修復前の絵画だからか、声は聞こえないようで、ニノンはきょろきょろと辺りを見回した。
ルカの姿もニコラスの姿もない。
「ルカもニコラスもいないぞ?」
「あら? 私もてっきり先にお部屋に招かれたのかと」
セドナもあてが外れたように言うので、ニノンは不安になる。
そのとき──
「修復道具を取りに行ってたんですよ。じゃないと、始まりませんから」
生真面目を形にしたような声が、部屋の入り口からした。振り向くとそこには深い青い目の少年。傍らでは青年が荷物持ちをさせられている。
「ルカ! ニコラス!」
「アダムちゃん、あたしがいなくて寂しかった?」
「ちげえわ!」
合流して空気が緩む中、ルカはセドナに歩み寄る。
「これから修復を始めます。メイさんから事情は伺いましたので、あなたは待っていてください」
「事情……?」
セドナが首を傾げるのをそのままに、ルカはニノンに声をかけた。
「ニノン、仕事が終わるまで、セドナについていてくれる?」
「うん」
じゃあ、部屋の外に、とニノンを導き、それについて出ようとしたアダムの肩をルカは捕まえた。
アダムが振り向くと、ルカは切り出す。
「メイの絵のことなんだけど、修復作業をセドナに見せないようにしたい」
「ま、大体察しはついてるけどよ。たぶん、意味ないぜ」
「え」
アダムの反応にルカが固まる。ニコラスもどういうこと? と声を潜めて問いかけた。
「セドナちゃん、色覚障害みたいだ」
ルカもニコラスも息を飲んだ。そこでアダムは先程セドナがメイのドレスを「緑」と言ったことを告げる。
色覚障害、色盲。詳しいセドナの症状はわからないが、少なくともセドナは赤と緑の判別がつかなくなっている。それは色覚障害の中でも有名な症状だ。
人間の色を判別する機能は青の光を感知するもの、赤の光を感知するもの、緑の光を感知するものの三つが存在することで成り立っている。このうちのどれかが欠けていると、色が他と違って見えてしまうのが色覚障害だ。
その中でも赤か緑、どちらか片方の光を感知する機能がなくなった場合、赤と緑はその人にとって濃淡の違いはわかるものの、ほとんど同じ色に見えるらしい。
「そのドレスの赤が何の赤なのかはわかるが、隠したって意味はないぞ」
「……でも、メイに頼まれたんだ。セドナに気づかれないようにって」
「そっか」
アダムも聞きたいことは山々だが、ここからは修復家に任せることにした。
「ま、ニノンのやつが余計なことしないようにお守りでもしますかね」
「うん、お願い」
今は聞こえないという絵画の声も、修復が終われば聞こえるようになるだろう。それで結果、セドナが真実を知ることになろうとも、最善は尽くしたい。
アダムが出ていくと、ルカは作業道具を出し、エプロンをつけた。
洗浄液を用意しながら、ルカはメイと話したことを思い出す。
メイはあの荒野にただ一つ流れる川の向こうにいた。緑色のドレスを着て、プラチナブロンドの髪をした空色の目の女の子はまるで人形みたいに整った容姿をしていた。
「ありがとう」
「君が、メイ?」
「うん、メイはメイだよ。この川は渡れないの。ごめんなさい」
やはり、川は生死の境界を表すものだったようだ。
名も知られていないアルルという画家が死んでから、一体どれほどの月日が経ったか。それを考えたら、セドナの年齢は辻褄が合わない。
セドナに直接聞いたわけではないが、セドナの見た目の年齢はどれだけ多く見積もっても十五歳のルカには届かないだろう。それが、アルルが生きていた頃のことをまるで実際に体験したかのように語るのはおかしいのだ。
アルルのことはニコラスしか知らなかった。偉業を成しても必ずしも名前が長く語り継がれるわけではない。時が経つにつれ、すり減るものだ。年代的にルカたちでは知り得ないほど昔の話ということになる。それをルカより年下に見えるセドナが当事者として知っているのはおかしい。
その答えをメイは持っていた。
「セドナは本当はもう死んでるの。メイを守るためだけにお屋敷に居続けている」
「メイちゃんがセドナちゃんに気づかれたくないのはそのこと?」
ニコラスの問いにメイは頭を振った。
「違うの。メイの絵が修復しなきゃいけないのが、セドナの血がついちゃったからなの」
「血……」
「泥棒さんから、セドナはメイを守ったの。小さい体で一所懸命メイを抱えて……刺されたの」
それを聞いて、全てのピースが揃ったような気がした。
セドナの血がメイに染み込んだ。絵画が目当てだったであろう不届き者たちは焦ったことだろう。大量の血がついた絵画を修復に出せるわけもなかった。
そこで思いついたのが、絵画を塗り替えること。
綺麗な色に塗り替えてしまえば、一人の少女を手にかけたことを誤魔化せる。そう考えたのだ。
それなりのものに見えるよう、犯人たちが選んだのは、偉大な画家フェルメールの使った色たちだ。
コルシカ島の名産品であるラピスラズリを使ったウルトラマリンブルーと呼ばれる顔料。フェルメールはその青を引き立たせるためにインディアンイエローと呼ばれる黄色を併用していたとされる。
インディアン──かつて差別用語として使われた言葉が名前に入るこの色は牛の尿から作られる。貴重な鉱石を使ったウルトラマリンブルーと牛の尿から作ったインディアンイエロー、この二色を併用することで、何かしらを皮肉りたかったのではないか、と絵画エネルギーが発見される以前の世界では議論されたらしい。
特殊な顔料を作るのも手に入れるのも根気がいるものだっただろうが、それで殺人を隠蔽できるなら、安いものだったのだろう。メイはそういう理由で鮮やかに彩られてしまった。
メイを見る限り、メイは淡い色を使って塗られたようだった。メイの目の色は心当たりがある。
露草の色水。これはこれでなかなか手のかかるものなのだが、それだけ丁寧に繊細に描かれたということなのだろう。おそらく綺麗な金髪は向日葵の色を抽出したものだ。
植物由来の淡い色は塗り直さなければならないだろう。メイがアルルの描いたそのままの姿を望むのなら。
「わかった。君を必ず直すから」
「セドナちゃんも、あなたが直ったらきっと喜ぶわ」
メイは少し気まずそうにはにかんで頷いていた。
そういうわけで、奇妙な空間から戻ってきたルカとニコラスは急いで花を探した。
露草の色水を作るのが難しい理由は手順以上に材料の入手にある。露草はすぐに枯れてしまうのだ。
「じゃあ、ニコラスは色水作りをお願い。この色を落とすのは大変そうだ」
「わかったわ」
なるべくなら、そのままの姿で洗浄を終わらせたいが、今回はそうもいかないだろう。
淡い色の塗料にべったりと塗られた血。絵の具で酸化の様相までは再現できない。にも拘らず、赤いドレスの色にムラがないのは血をそのまま塗ったからだろう。気が狂っている。
けれど、ルカの目的は犯人を探してとっちめることではない。傷ついた絵画を直すことが修復家の役目だ。そう信じている。
そうして絵画が望むままに、画家が望んだままに、還れますように。
「と、まあ、フェルメールっていう有名な画家と同じ彩色を再現されてりゃ、そりゃ修復は必要ないって思うわな」
「なるほど……」
アダムはメイに使われていた上塗りの色を説明した。これでも画家を目指した身だ。そういう知識は蓄えている。
「正直、AEPへの還元に問題ないなら、本当の色じゃなくてもいいって思ったんだろうな。これまでここに来た修復家は」
「でも、ルカはそうじゃないよ。きっと元のメイちゃんに戻してくれるから」
「ありがとうございます」
修復作業は時間がかかった。セドナは作業に集中させてやれ、というアダムの言葉を聞いて、ニノンと二人がかりで宥められながら過ごしていた。
「メイちゃんの絵が元に戻ったら、セドナちゃんはどうするの?」
ニノンの何気ない質問だった。
セドナに動揺が走る。
セドナはずっとメイを守ることだけを目的に生きてきた。この屋敷でずっと。化け物と謗られようと、幽霊と呼ばれようと。
メイが直って、ルーブルに提出したら、セドナの役目は終わりだ。もうセドナに命を与えてくれるアルルはいない。
「わた、私、は……」
震える声で呟いて、セドナは走り出した。アダムの制止も聞かず、絵画の置かれた部屋へ。
どうしたらいいのかわからなかった。ただ、自分のいる意味がなくなるのが、唐突に怖くなったのだ。
けれどそれは。
「修復完了しました」
そう告げて差し出された一枚の絵画によって拭い去られる。
微笑みを湛えた空色の目の女の子。日の光を浴びて煌めくような繊細な金糸は、セドナの覚えているそのままだった。
役目がなくなったなんて、悲壮感はない。これをセドナはずっと望んでいて、ようやく叶えられたのだから。
追いついたニノンたちが息を飲む。
「ああ、ああ、メイ様……」
「セドナ。一緒にいこう。アルルのところへ。……帰ろう」
「はい、はい……」
絵画からそのまま出てきたような女の子が、セドナに手を差し伸べる。セドナがその手を取ると、すうっと体が透けた。
手を取り合う二人はまるで姉妹のようで、美しい愛の形を残して消えた。
その後、アルルが遺したメイの絵画はセドナが話していたメビウスという壮年に引き取られ、ルーブルに提出されることとなった。
還元率が悪くとも、これで彼らの望みは果たされるのだろう。
絆があれだけ強ければ、きっと同じ場所に還れるはずだから。
そうしてルカたちは呪われていた屋敷を後にした。
もう誰も呪われることはないだろう。あそこに降り注ぐのは祈りなのだから。
コルシカの修復家、八周年おめでとうございます!!
今回はここまでです。




