第九十四話 刀折れ矢尽き命果てるとも
第二次山王堂の戦いは小田家の圧倒的な敗北でほぼ決し、小田方は被害をこれ以上出すまいと手を尽くして退却に勤めた。
本陣で退却の号令を見届け、殿の任を預かった菅谷政貞は右翼にある自陣へと帰還して隊の再編成を急いだ。
「……と、言う訳で殿はこの菅谷勢で請け負う事となった。みな、今回も骨の折れる仕事と思うがどうか力を貸してほしい」
菅谷政貞は手勢を集めると手短に伝え、配置を指示する。
菅谷家の軍勢の中核をなす将は誰一人として臆する様子はなく、一様に熱気を帯びて戦意はこの上なく高まっていた。
「政貞様、殿はこの老人にお任せくだされ」
一人の年老いた足軽大将が一歩前へ出ると胸を叩いて死に役を買って出る。足軽大将の目は此処を死に場所と決めた重みのある視線を政貞へ向けていた。
しかし、菅谷政貞はそれを丁寧に断る。
「申し訳ない吉田殿。悪いが貴殿にこの軍勢の指揮が執りきれるとは思えませぬ。敵は上杉、半端に戦えば我等の全滅では足らずに背を向けている本軍が危ういのです。ご理解くだされ」
年老いた足軽大将は口惜しそうに歯を食いしばって俯く。己の力不足を嘆いているのだろう、拳を強く握りしめていた。
菅谷政貞は一同を見回すと、発言するものがいなくなったのを確認して解散の指示を出そうとする。
――が、
「お待ちくだされ義父上!」
手を掲げたその瞬間に義息子の政頼が大声を発した。
菅谷政貞は目を丸くして政頼へと向き直して言葉の真意を問う。
「どうしたというのだ、政頼」
「どうしたというのはほかでもありません。この栄誉ある晴れ舞台、この愚息めにお譲り下さいませ!」
菅谷政貞は高く掲げた手につかんでいた軍配を取り落し、天を一度仰ぎ見てからもう一度政頼の顔を見つめ直した。
「何を言っておるのだ、正気か……?」
我が目を疑うかのように何度も瞬きする父、政貞の目を、義息子、政頼は瞬きせずに力強く見つめる。
「某は常に正気にござりまする。先ほど申した通り、戦功を挙げて必ずや手塚様の腹の虫をおさめさせて見せまする」
「何を馬鹿な!」
「馬鹿ではございませぬ。父上は先ほど吉田殿には力不足故に軍は任せられぬと申したではありませぬか。某ならばこの軍勢の指揮もできまする」
「そのようなことを申しているのではない! ここで兵を率いれば死ぬぞ!」
「なれば、天下に武勇高き上杉相手に義父上は生き残れるのですか?」
菅谷政貞は怒気を込めて珍しく声を荒らげるが、政頼はそれに微塵も動じることなく毅然として応じた。
これに政貞は言葉を詰まらせる。
「ぅぐ……死ぬ覚悟はとうの昔に済ませて居る。ここでわしが残らねば」
「義父上! ……義父上は先ほどご自分の責任と、それで手塚様はお怒りで、自分は責を果たす必要があると仰いました」
「いかにも。それがなんだ」
政頼は一度瞼を閉じ、呼吸を整えてから鋭い視線で政頼の目を捕えなおす。この僅かなひと時に二人の間に流れる緊張は増し、政貞も緊張のために湧き出た生唾を飲んで構えた。
「その責から逃れようとはしておりませぬか?」
「な、何を!」
「若様! 義父上様に対して無礼ですぞ!」
この一言に政貞はおろか、その場に居合わせた年老いた足軽大将まで声を上げる。
「義父上! 勘当を賜っても構いませぬ、されどこの場はどうか某に。義父上は氏治様にはまだ必要なのです! ここで死んではなりませぬ!」
「何を申す! それならお主が氏治様につくのだ! お主も十分一人前に……」
政貞が言いかけると政頼は悔しそうに歯を噛み、一筋の涙を流す。
「父上……それは本心からのお言葉ですか……?」
「……」
政貞は政頼の悲痛な顔を見ると二の句が継げなくなり、開いた口は虚しくも虚空を噛んだ。
「私にはまだ義父上の代わりには力不足にございましょう……どうか義父上、私は親不孝で地獄に落ちる覚悟もできております。小田家、そして菅谷の家名のためなら三途の川で延々と石を積んで参りましょう。義父上がいったいどれだけの咎を背負っておられるのかは某には解りませぬ……されど、きっとそれは逃げては、捨ててはならぬもの。某にはそんな気がしてならぬのです。どうか、そのような格好の悪い姿を私に見せないでくださいませぬか……?」
政貞は悔しそうに拳を太腿に力強く落す。そうして決意を固めると、いつも通りの表情や空気を纏い、親子ではなく城主と家臣という立場の表情、胸に響くような重みのある声で命じた。
「政頼……相解った。殿の任はお主に譲ろう」
「有難き幸せにござりまする。では、お父上、お元気で」
「うむ……しかと役目を果たせよ」
「御意にござりまする」
政頼は寂しげな笑顔で政貞を見送る。ある程度距離を離れたのを確認すると、今まさに矛を交えて敵の足止めに力を尽くしている味方の下へ駆けつけて弓を取り出した。
「聞けぇ! 越後の龍に集いし北方の猛者たちよ! 我こそは小田家宿老菅谷家の嫡子政頼也! 我こそはと思うものはこの首とって手柄とせよ!」
政頼が大音声で叫んだこの台詞は上杉軍の本陣まで届き、これを聞いた輝虎は興味を持って陣幕から出て川べりに張り付く小田家の寡勢を見た。上杉輝虎が陣幕を出ると、後に河田長親も続く。
「ふむ……」
「どうかなさったのですか輝虎様」
「あれを、見て見よ」
「はて……?」
上杉輝虎は川べりを指さし、河田長親は目を凝らして眺める。するとわずか二百ばかりの兵が泥地を渡りきった数千もの大軍にもまれて呑み込まれようとしていた。
「小田軍は強い……佐竹義昭殿が『右大将家以来の名望とすぐれた才覚は完全に失われてはおらぬ』と書状に書き記すだけのことはある」
「そこまででございますか? 私などには策も無しに敵に当たる愚か者にしか見えませぬが……」
氏治を思いのほか褒める上杉輝虎を見て、河田長親は不思議そうに首を捻る。
「それは……そうかもしれぬ。だが、氏治公は将兵の力を最大まで引き出すすべを知っておる。悲しいが軍神と称されるわしであろうとも、その境地には今だ至らぬ」
「氏治殿にかような力が……? されど、大将の器には……」
上杉輝虎は徐々に削られていく小田家の殿の軍勢を清々しい表情で眺めるが、河田長親はただその方向を向くだけで焦点を合わせていない。
輝虎の真意を探ろうとすることにすっかり気移りしてしまっている。
「否、それもまた大将の器。わしがあの場に立って兵を指揮したとて、兵どもはああも奮戦はすまいぞ」
「何を仰せですか。上杉の兵は死中に活を求めよと輝虎様の教えに忠実に従いその勇猛さは今や天下に鳴り響いていると言いますに」
「果たしてそうであろうか。仮にそうであっても、小田家の兵はその上を行く」
「上、ですか……この我等が上杉の上を行くとは如何に……」
「小田の兵は死中に活を求めておらぬ。死中には死を、多くの敵を道ずれにして死をと思っておる。故に矢玉を恐れず勇猛なのだ。生への未練を断てばこそあのようにして戦える……その証拠に、我等上杉は最弱と言われる氏治公に手痛い被害をこうむっておる」
「……確かに……想像をはるかに上回る負傷者ですね……特に右軍が手ひどくやられたようです」
上杉輝虎の言葉に改めて戦場全体の様子を見直す。
すると、兵の力、将の力、兵の数、戦略などどの分野においても欠陥の存在しなかった上杉軍が、戦の要素におけるすべてに欠陥しか存在しなかったはずの小田軍から手痛いしっぺ返しを受けているのである。
河田長親は考えれば考えるほど、原因が理解できないで頭を悩ませた。
「流石は公方様の血を引くだけのことはある。これぞ源氏の流れにある真の大将の器やもしれぬ……」
「にわかには……信じがたいことでありますが……」
上杉輝虎は納得顔で頷いているが、河田長親は戦場をただ目を細めて訝しむように眺めるだけであった。
唐突に輝虎は馬を曳いて、小姓の支えで馬上に上がると小さな盃に一杯の酒を汲み、それを一息で飲み干すと愉悦の笑みを浮かべた。
「ふむ。氏治公の器が誠か否か、ここで試そうぞ」
「は……?」
「皆の者!! 深追いは致すな! そこに名乗りを上げし菅谷政頼殿の心意気、誠敵ながら天晴れ也。政頼殿に免じて追撃は取りやめとする! 代わりに政頼殿の首を平らげたものにはこの戦の第一の勲功を授けようぞ!」
上杉輝虎が大音声で号令をかけると、川を渡って追撃をかけようとしていた一部の軍勢以外は行動を止め、先頭にいる軍勢がこぞって菅谷政頼率いる二百余りの軍勢に躍り掛かる。
ただでさえ多勢に無勢だった政頼は、此処に来ていよいよ攻撃に激しさが増したのを見て覚悟を新たにした。
「来たか……皆の者! 敵を討つことを考えてはならぬ! 矛を、刀を振り払うのだ! 何としてでも氏治様が戦場を離れるだけの時を稼ぐぞ!」
政頼は弓を構えると箙に収められていた二十四本の矢を矢継ぎ早に撃ち放つ。そのうちの十九本は見事に命中して上杉の多くの兵を負傷させる。
「矢が尽きたか……」
「若様、あなたはこれから菅谷家の柱となって小田家を支えねばなりませぬ。どうかお逃げくださいませ。この場はどうか老い先短いこの年寄りに……」
年老いた足軽大将は愛しい我が子を見るような目で政頼を気遣い、是が非でもこの若い灯火を消させまいと説得を試みる。
しかし、政頼は左右に首を振る。
「吉田殿、それはならぬ。将が部下と共に死を覚悟したというに、それを見捨てて一人逃れるなど末代の恥。それより吉田殿には最期のお願いがござりまする」
「……聞きましょう」
「では某の馬に乗り、どうか某が菅谷の名に恥じぬ勇敢な討ち死にを遂げたと義父上にお伝えください。そして、今までご嫡男がいるにもかかわらず、血のつながりの無い某にも等しく真の愛と慈しみを注いでくれた義父上に深く感謝しています。と」
「……」
「それさえ約束くだされれば、某は何の心残りもなく逝くことができまする」
「しかと、承知仕りまする……!」
年老いた足軽大将が涙ながらに深く頭を下げると、政頼は一度だけその肩を軽く叩き、戦場へと歩みを進める。
老いた足軽大将は政頼の馬で川を超えるとある程度距離を取り、物陰から目を凝らして政頼の最期を見届けるために足を止めた。
「皆! 某からの最期の言葉だ! 聞いてくれ!」
政頼は歩みを進めながら、味方の死体の傍らにあった鑓を拾い上げて高く掲げた。
「ここまで戦い抜いてくれたこと、本当にうれしく思う。そして最期の願いだ!」
菅谷家の兵がほとんどを占めるこの軍勢は、菅谷の次代当主として期待の高かった政頼の言葉に涙を流しながら気勢を上げた。
一日中戦い続けで、傷を負っていない者など誰一人としていないこの軍勢の何処にそれほどの底力があったのかと、上杉の将兵も目を見張るほどに菅谷家の軍勢は雄叫びを上げている。この殿に生き残りの道はないと悟っていた将兵も、政頼の口から出た「最期の言葉」に様々な感情が高められて昂っている。
「某と共に、死んでくれ!」
「おぉ!!」
「さぁ、小田家へ命を捨てて忠節を尽くすは今この時ぞ!」
この言葉を皮切りに、戦線を広げて時間稼ぎと川を渡らせないことを重視していた陣形が瞬く間に鋒矢の陣へと組み変わる。政頼は本来大将が位置すべき最後尾にはその身を置かず、走り出して最前線へと切り込む。
「うおぉぉぉおおおお!!」
雄叫びを上げると、味方の戦列を切り崩して三人の足軽が手柄首欲しさに政頼へ突撃してくる。
政頼は、拾い上げた鑓を先頭にいた足軽の胸へ投げ込むと、全力で駆け寄ってきた足軽は避けることができずに胸の中央へ鑓を突き立てられた。その後すぐに抜刀して二振りで残った二人の足軽も鮮やかに切り伏せる。
「あの殿の将は手ごわいぞ! 五人組でかかれ!」
「っく!」
その後、太刀を交えつつさらに三人を切り伏せて見せるが、その間にも味方は次々と討ち死にを遂げる。ついには供回りの数名と各所に散り散りに孤軍奮闘する二十余りの兵のみとなっており、とうとう上杉の兵に囲まれてしまう。
「よもやこれまでなのか……」
刀は折れ、その鞘を杖によろめく政頼を一人の足軽が襲う。
「手柄首もらったぁぁああ!!」
「まだ死ねぬ!」
政頼は鞘で足軽の打ち刀を受け止めると距離を詰め、たちまちその体に密着する。
「なんだと!?」
足軽は動揺しつつも距離を取ろうと後退る。だが政頼はそれを許さずに押し倒した。
すかさず身を返そうとする足軽の頭を押さえつけ、政頼は折れた刀でその首を押しつぶし、掻き切る。
一瞬、柱のような血しぶきが政頼を襲い、顏の半分が赤く染まる。
「まだ、まだ……某は……」
最後の供回りも討たれ、疲労の限界も相まって地面に膝をつく政頼に足軽共がジワリと距離を詰める。
手柄首を前に生唾を飲んで機会を窺う足軽は狼のごとき目つきで政頼を見つめる。
と、そこへ厳つく重みある声が鳴り響いた。
「貴様ら、待てぇい!」
精根尽きかけていた政頼はやっとの思いで首を持ち上げる。
どうやら馬上にいる武士は甲冑から見るに身分は良いようだ。いよいよ捕虜にされるのかと思った政頼は、辱めを受けてはならぬと脇差を取り出して己の首に突き立てる。
「待たれよ! 貴殿に物申す時間を下され!」
「……?」
政頼は返答する力もない。ただ手の力を抜き、糸の切れた人形の様に腕が慣性に従い前後に揺れる。
それを見て一息ついた馬上の武士は口上を述べた。
「我こそは上杉家中央軍を率いる先手の大将、柿崎景家とぞ申す。輝虎様は貴殿の働きを敵ながら誠に天晴れであるとお褒めになっておられる。延いてはその首、賤しき足軽にむざむざ取らせるのも口惜しき次第にて、貴殿が望むのならばその散り様を飾るに、上杉の武の象徴たる某と最期の決闘をするとよかろうとの仰せである。如何か?」
政頼はふっと小さく息を吐くと満面の笑みを景家に向けた。
「その申し出、誠に有難く候。また、輝虎様ほどの御仁に天晴れとお褒め戴くは武人としてこの上なき誉。菅谷の名にこのようにして錦を飾れるは本望也。決闘を終えて、もしわが命尽き果てることあらば、よくよく感謝していたとお伝えいただきたい」
この返答を聞くと、景家は満足そうに頷いて政頼の足もとへ鑓と刀を放り投げた。
どちらもそれなりの名品であり、そこらの足軽が持つようなものとは別格の装備であった。政頼が刀を拾い上げるのを見てから景家は馬を下りた。
「わしは鑓を使うが、政頼殿は刀のままでよいのか?」
「……刀は義父上との思い出が多くあります故」
「左様か。では、参る!」
柿崎景家が先手を打って鑓を突き出す。政頼は鑓の柄に刀を沿わせてかわすと、刀で柄を削るように沿わせ続けて景家に接近する。しかし、景家もまた鑓を横なぎにする要領で政頼を押し飛ばす。
「うぐ!」
「手負いであるというのに、まだ動けるのか」
「小田家は、最後の粘りが持ち味なのだ!」
「ぬぉ!?」
走り込んでの突きと見せかけた下段からの切り上げに景家は反応できない。
突きが来ると読んだ景家は薙いでかわそうと構えたところ、素早い切り替えしによる下段からの切り上げ、それならまだ躱し様もあるが、政頼は初めから矛先を狙って切り上げたために景家の鑓先は弾き上げられてしまったのだ。
そこから素早く刀を返しての袈裟切り。
景家も機敏に反応して左肩の大袖で防ぐ。しかし政頼の剣筋は鋭く大袖は見事に二つに割れて肩口に浅手を負った。
だが、景家もここまでは想定の範囲内であったのだろう。矛先を切り上げた政頼は景家との距離を縮め切れておらず、刀が届き切っていないことに景家は気が付いていたのだ。
「甘いわぁ!」
「がぁ……」
袈裟切りで体位に隙のできた政頼に、景家はすかさず石突で政頼の鳩尾を強く突いたのである。これにはたまらず政頼も胃液を吐きだしてよろめく。
「太刀筋や反応の速さは見事であった。されど、若さゆえに隙の多さが仇となったな」
「ぬ……グガ……ゴホ」
政頼は言葉を発したいらしく景家を強く睨むが言葉が出ない。
景家は政頼の呼吸が整うのを待った。
「……お見事」
「その目つきにしてその言葉か……理性高き菅谷の家よ。この期に及んで犬畜生の様にやけにならぬその気高さ、戦場で同胞としてみることができたならどれだけ素晴らしいであろうか……誠に天晴れよ」
景家が悲しげにつぶやくと、政頼はこの状況においても照れ笑いのような微笑を見せた。そして両者とも得物を構え直すと空気が変わり、あたり一円は静まり返る。どうやら戦場に残るのは小田方では政頼を置いて他にいないらしい。
上杉の全軍がその決闘の趨勢を見守る。
「いやぁぁぁあああ!!」
「はぁぁあああああ!!」
両者は矛と刀を互いに三度交えた後、体の位置を交差させた。決着である。
政頼はぼろぼろの鎧を鑓で切り上げられて、薙刀で切られたかのような傷口が鎧に広がっており、そこを中心に徐々に服と鎧が赤く染まる。刀を受けた景家は前立ての左半分が切り落とされていた。
「良き、死出の土産と、なり、まし……た……」
「若き英傑よ。地に帰りその身を癒せ」
政頼が地に倒れるとともに上杉軍から歓喜が上がった。この決闘の決着と共に、戦の決着も上杉軍の圧倒的勝利で幕を閉じたのだ。




