第九十三話 胡乱者
小田軍中央、右翼が劣勢となった頃、八幡率いる左翼方面の軍勢は上杉家に対して優位に戦局を進めていた。
八幡が仕掛けた火計によって、上杉軍の精兵部隊の一部が負傷、接近戦でないため討ち死にこそあまり出なかったが、返ってそのせいで負傷兵の収容や手当にさらなる人員を必要とした。負傷兵の手当てにこれ以上余計な人員を割きたくない中条藤資は兵を下げてじっと戦況を見守っている。
八幡に警戒した上杉軍右翼の兵は萎縮し、若干の士気の低下が窺える。
「流石は八幡様じゃぁ!」
農民たちは口々に八幡を誉めそやし、歓喜の声を上げるが、八幡は落ち着いた様子でそれに応じることはない。
「どうかなさいましたか?」
作戦の成功に何の感慨も見せない八幡を、不思議そうに太兵衛は眺めた。
「いや、この戦が終わってからの事をつい考えてな……まだ終わってもないってのに。とにかく本隊はもう持たない。負傷者から順に撤退できるように用意を。油や布とかさっき持ってきた物は柵の周りに配置しろ」
「は、はは! お任せを!」
太兵衛は八幡の指示通りに柵の周りに可燃物を配置し始める。
油だけは合図があるまでばらまかないがすぐに柵にかけられるよう手近な場所においておく。
太兵衛は本体が瓦解し始めているのを見て不安そうな表情になるが、頬を叩いて気を取り直すと八幡の次の指示を待った。
(これが天下の上杉軍か……地の利を最大限に使えるように工作していたから良いものの、普通にぶつかり合えばあっけなくこっちは全滅だな……今の小田軍では万に一つも勝ち目はなし、か。それにこの戦いでの傷もすぐには癒えないだろうし、これは上杉に降伏するようにうまく家中を説得するしかないか……)
「伝令! 中央の軍勢にて中核をなす武将が尽くお討ち死に致しました! 中央は崩壊、氏治様より総退却の号令が出ておりまする!」
「……っく」
八幡は歯を食いしばる。右手を見ると確かに上杉の軍勢がかなり食い込み軍勢が瓦解しているのが窺える。
「八幡様、多少の被害はやむをえません。一刻の猶予もありませんよ」
太兵衛の声に八幡は頷く。
八幡は振り返ると速やかに指示を出していく。
「わかってるさ。取り置いた油を柵にかけて火をつけろ。しばらくは敵の追撃を妨げる筈だ。川船は今どこにある」
「すぐ後方に二十五艘ほど」
「二十五か……岡沢九郎兵衛にそれで浮橋をかけさせろ。十艘あれば一つは橋が架かるはずだ。浮橋の一つは本陣方面に送っておけ、退却の手助けになる」
「はは!」
太兵衛は頭を下げると急いで細小川の方へと向かう。
八幡はそれを見届けるとすぐに油をまき、柵に火を放って正面の手勢に声をかけた。
「火をかけても油断するな! 四人ずつ組になって引き揚げろ! けが人には手を貸してやれ! 残りの奴は弩を継続して撃つんだ、そうすれば敵は警戒して近寄れん!」
「おぉ!!」
八幡隊の前に設置した柵は勢いよく燃えて中条隊との間に壁を作る。二つの隊の接近を遮る意味でもそうだが、燃えさかる火と煙は視界を奪い、二つの隊は互いの視認が困難となる。
上杉軍は柵を引き倒して消火し、急ぎ追撃をしたいと考えてはいるが、不規則に火の中から放たれる矢や礫に阻まれて近づくことさえできない。
撤退の用意を着々と進める八幡の下へ太兵衛が帰還する。
「八幡様! すでにいくつか浮橋が!」
「ん、どういう事だ?」
「と、とにかくこちらへ」
何事かはわからないが浮橋がすでにできているというのは悪い報ではない。
不思議には思うが慌てることなく太兵衛に続いていくと、いくつかの川舟に頑丈な組紐と掻盾を組み合わせた即席の橋が架けられていたのである。
このこと自体は渡りに船とばかりに喜ばしいことであるが、命じてもいないのに誰がやったのかと驚き唖然としていると視界の隅で小さな影が動いた。
「雀羅!? お前いたのか!」
八幡は呼んでもいない雀羅がその場にいることに驚き、雀羅は八幡の反応に不服そうに頬を膨らませる。
「なんですかその言い方は! 失敬な! 不本意ではありますけど、忍びってのは主の影ですよ? 特別な命令でもない限り常に傍にいるものなんですよ」
「そ、そうか。で、それは?」
そっぽを向いてつんとした態度を取る雀羅への反応に困った八幡は話題を変えようと浮橋を指さした。すると、雀羅は待っていましたとばかりにドヤ顔で鼻高々に説明を始める。
「盆暗大将が考えそうなことくらい賢いこの雀羅様にはお見通しってことですよ! 浮橋も数が多い方がいいと思ったので私自慢の組みひもで橋の長さを伸ばして置いてあげたんですよ。感謝するといいです」
八幡を嘲笑するように解説しつつ、自信満々に胸を張って見せるが八幡はやや苦笑いしている。
「……橋の数が増やせるのはありがたいが、重量は耐えられるのか?」
「大鎧みたいな甲冑さえ脱げば問題ないですよ。逃げるときなんて脱ぎ捨てるでしょ?」
「そうだけどな……その橋じゃ不安定だし、それだと騎馬武者が渡れないじゃん……」
「ぁ……で、でも馬より人の方が大事じゃないですか! 馬なんて捨てて行けばいいんですよ!」
決まりの悪そうに僅かに頬を染めながら体を伸ばして反論する。八幡はそれを適当にあしらいつつため息を一つ吐いた。
「……まぁいい、このあたりはまだ浅いから馬で難なく渡れるしな。十艘は中央へ回しておいてくれ。浮橋は三本もあればここの人数は速やかに引き上げられるだろうから」
「な、何で私がそんな使い走りみたいな真似を……」
雑用を任されたことに不服そうに顔を顰める雀羅だが渋々と従い、八幡は太兵衛に退却の指揮を任せた。
「さて、中央が完全に崩れる前に退却しよう。殿は俺がするから太兵衛は退却の誘導を頼む」
「はは!」
細小川を渡った先で集結していた飯塚隊は、八幡隊が浮橋を設置するのを眺めていた。
「あの若造、無事に退却できそうですな」
飯塚美濃守に馬を並べた飯塚兵部少輔が不意に口を開く。
少しの間をおいて飯塚美濃守はそれに答えた。
当初、八幡隊が川向うで奮戦している間、苛立ちまぎれに手の平を打っていた指揮棒は今では帯に収められていた。
「うむ。ちと予想外であったが、端から退路を確保しておったとはな。少しは見どころがあるやもしれぬ」
「見どころ、ですか」
「左様。まだ大局は見えぬようだが、伸びしろはあるやもしれぬ」
「伸びしろ、ですか。そういえば、先ほど本軍から、総退却の指示がありましたな。殿は、菅谷殿とのこと」
二人は何の動作もなく淡々とした会話であったが、この報告を聞くと飯塚美濃守は僅かに口角を上げて小さく微笑する。
「彼奴、死んだな」
「お味方の死を喜ぶとは、趣味の悪い」
飯塚兵部少輔は顔を見てもいないにもかかわらず、笑っていることを察して毒づく。
「貴様が言うか。それに喜んではおらんよ、ただ、運の無い奴と同情しておるのだ」
「そのような性格だから、家中で浮くのです」
「どこへ行っても馴染んだことの無い貴様が言うな」
二人は無表情のままで言葉のどつきあいを終えると、ぴたりと言葉を発するのを止める。
遠くから干戈を交える音や悲鳴が聞こえるだけで近くに音のするものは全く無くなる。
しばらくの静寂の後、不意に思い出したかのように飯塚兵部少輔が口を開いた。
「それと殿、手塚様の軍勢が、敵中に孤立したようですな」
飯塚兵部少輔がふとどうでもいいことの様にこの報告をすると、飯塚美濃守はゆっくりと首を向けて眉を顰めた。
「……誠か? 全くあの猪武者は……お主に百ばかり兵を預ける。それで奴の救援に向かえ」
「手塚様に、救援、ですか。あの方なら、己ひとりで、どうにかできそうなもの、ですが」
「奴と百鬼夜行は小田家には必要だ。致し方あるまい。それにここらで一働きでもせねば後で疑念の目を向けられたりと面倒だ」
「今更、かと思いますな」
飯塚美濃守は理由を説明するが、飯塚兵部少輔は相も変わらず不気味な無表情で八幡隊の戦況をじっと見つめていた。
飯塚美濃守は呆れたように息をついて頭を掻くと、少し怒気を込めて厳しく命令した。
「わかってはおる。しかし働いて損はあるまいよ。くどくどと言わずにさっさと行かんか」
「御意」
ようやく飯塚兵部少輔は重い腰を上げ、兵を率いて小田軍右翼方面と走り出した。
徒武者を置いて三十ばかりの騎兵で先行する飯塚兵部少輔の背を見ると飯塚はため息交じりに小さく笑い、天を仰いだ。
「さぁて、悲しきことよな。いがみ合うとて同じ小田の屋根に生きる輩どもよ。うぬらの死を糧に、娘殿が立派に育てばよいがな。髑髏になるとて、草根の影より、かの娘の行く先を見守っておれ」
誰にも聞こえない声で呟いた後、小さく息を吸うと手勢の全員に聞こえる声で命じた。
「全軍、退却」




