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第九十話 諸将の奮戦

 上杉軍、中条隊陣地


「伝令!」


 中条藤資と色部勝長は配下の部将に部隊を預けると詰所へと帰り、休憩がてら周囲の戦況を確かめていた。


「敵の中央が瓦解したか?」


 色部勝長がくすりと小さな笑みを浮かべて問う。

 しかし、伝令は冷や汗を流しながら一礼して言葉をつづけた。


「我が軍の前線部隊が敵の火計にかかって多大な被害! 前線は兵がひしめいて逃げ場が無く混乱が続いておりまする!」


「なん……だと……?」


 色部勝長は目を丸くして地に膝をついた。中条藤資は相変わらず床几から腰を挙げずに、


「すぐ追撃に移れるように兵の密度を高めたのが仇となったか……」


 そう呟いて嘆くのであった。


 上杉の前線部隊は薄く水のはられた水田に飛び込んだものも多く、隊列が完全に崩れきって、さらには盾などを失った状態で八幡隊の眼前にその姿をさらすこととなったのである。当然八幡隊はこの機を逃さず連射を繰り出して上杉軍には死傷者が続出した。


 さらに、士気が下がった上杉軍は八幡隊とかなり距離を取る事となり、迅速な追撃は完全に諦めることとなる。



「もう少し……もう少しなはずだから、皆あと少し堪えて……」


 鼓舞を終えた氏治は、最前線にいるのは危険だからと兵士に諫められ、前線を少し離れた位置で全軍に斉射の号令をかける頃合を見計らっていた。

 氏治の表情は緊張から強張り、失敗は許されないという重圧の所為か顔が少し青白い。


「なんで、なんでよ……! 止まらない、敵はなぜ足を取られないの!?」


 この時、氏治の目論みは完全に的を外していた。

 第一次山王堂の戦いでは結城勢に対して優位に戦いを展開していたが、当時北条家家臣であった太田資正を始めとした江戸衆の来襲に加え、後退時に泥濘に嵌った小田軍は散々に討ち死にを出して大敗している。

 この時の記憶を参考に川の前で布陣し、敵を侮らせておいて眼前の泥濘に誘い込み、身動きができなくなったところへ矢を雨霰の如く降り注がせる。これが氏治の思い描いた構想であった。


 が、山王堂に先に着陣したのは上杉軍である。

 まして、率いる将は戦の天才上杉輝虎ともなれば、戦において手抜かり等するはずも無く、当然地形は事前に調査済みである。

 となれば、何処の田が浅く、また深いか。地面が緩いか、藁を撒く程度で踏み固められるのかといった進軍上不都合な泥濘と、十分に行軍可能な地面とを選り分けて図面に書き印、諸将で相互に情報共有することで備えは万全となっていたのである。



「全軍! 放て!」


 前線で突如として命令にない号令がかかる。当然氏治は動揺するが、間もなくして斉射は開始され、戦闘の火蓋が切って落とされる。号令をかけたのは将来を有望視される若き名将豊田治親であった。


「な、なんで私の指示もなく……!?」


 氏治は自分の指示でない動きに焦りを見せ、額を嫌な汗が伝う。


「氏治様、此処も時期に危険になりまする。ひとまず本陣の方で指揮を」


 行方刑部少輔に促されて氏治はようやく本陣へ帰還を果たす。

 氏治が床几に腰を落ち着けた頃、戦はまだ始まって間もないというのに各戦線からは早くも伝令が送られ、尽く劣勢と伝えられる。


「左翼より伝令! 飯塚様の軍勢の士気低下が著しく、敵との干戈を交えずして潰走。浮足立った部隊を再編成するのに時間を要するとのこと!」


「な、なんですって!? じゃぁ、今左翼は八幡だけ……八幡はどうしてるの!?」


 氏治はようやく腰かけた床几の温まる間もなく驚きのあまり立ち上がる。


「八幡殿は飯塚様の隊の一部を吸収して防衛体制に入った模様です」


「っく……どうすれば」


 氏治は伝令に左翼側の戦局に少しでも異変があれば迅速に知らせるように厳命して下がらせる。

 一人の伝令が本陣を発つと、入れ替わるようにして次の伝令が本陣を訪れる。


「菅谷様より伝令! 負傷兵が続出、地の利を取り戻さんがため増援を願うとの由」


「ま、政貞が!? もう増援なんて……」


 頼りにしていた菅谷政貞までもが早々に劣勢となったことを知ると、氏治は更に顔をこわばらせる。動悸を抑えるように胸を押さえると、ゆっくりと床几に再び腰を下ろした。


 前線から聞こえる鬨の声は唸るように戦場に響き渡り、干戈を交える鉄の鈍い音も次第に強まる。

 当初はあまり聞こえなかった悲鳴や絶叫が徐々に混じり、戦場は段々と熱を帯びていることをこの小田本陣にまで知らしめていた。


「伝令! 御味方中央前線部隊劣勢! 負傷者が多く、すでに豊田様も御負傷なさっているとのこと!」


「な、なんで……早すぎるよ……どうしてこんなことに……」


 氏治は一度目を(みは)った後、すぐに目元に手を当てて俯いた。

 自分が予想していた戦況とまるで違うどころか、あからさまな劣勢であり、すでに敗北色が濃厚になっているのだ。


「右翼前線が崩壊! 先鋒を務めた足軽大将が御三方ともお討ち死にとの由! ただいま菅谷政貞様が自ら矛を振るって奮戦なさっておりまする!」


「え、えぇ……ど、どうしたら……」


 戦闘が始まって一刻と経たぬうちに届けられた早すぎる討ち死にの報に氏治は明らかな動揺を見せる。

しかし、酷なことに状況は待ってくれはしない。貧すれば鈍するという事か、劣勢を極めれば極めるほどに氏治の思考は鈍ってゆく。


「氏治様! 何故に御指示も出さず黙しておられるのです!」


 動揺したまま硬直し、何一つ指示を出せないでいる氏治に行方刑部少輔は苛立ちを見せる。

 怒鳴るようにして指示を求めた。しかし、氏治の顔は完全に恐怖と罪悪感に呑み込まれた色をしており、言葉を詰まらせながら言い訳をする。


「で、でもどうすれば……すべての方面に増援を送る余裕はないのよ……」


「氏治様、それでしたら私にお任せくだされ。氏治様は後方の仮設の宿営にて体を休まれませ」


「……わかった。ごめんなさい、私が力不足なばかりに……」


 行方刑部少輔に言われるがままに指揮権を譲渡し、自分の無力さに怒りをたぎらせつつ、無為に死んでいったであろう兵達を思って涙を流した。

 強く握りしめた拳を胸元にあてて俯き、嗚咽を堪える氏治をちらりと一瞥すると、行方刑部少輔もまた恐怖からか渇いた笑みを浮かべつつ、顏は前線へ向けたまま言った。


「仕方がございませぬ。敵は天下の上杉軍。もとより勝算の薄い戦なのですから」


「……でも」


「?」


 行方刑部少輔は氏治へと向き直り次の言葉を待つ。


「でも、ここにはいさせて。せめて本陣には……皆が戦っているというのに、私だけ本陣よりも後ろに隠れているなんてしたくないの……ごめんなさい……」


 配下の将兵を心配し、その被害のほどを考えて不安になっているのか、氏治は弱気になり、僅かに体を震わせながら懇願するかのように行方刑部少輔に語る。


「……氏治様がそれでよろしいのならば、仕方がありませんね。……さぁ、皆の者! 百五十の兵力を一刻の間だけ右翼に貸し与える。伝令は先行して菅谷殿に伝えよ! 隊の編成を急げ! 一時的ではあるが中央前線部には私が出る。左翼に動きはないな?」


 行方刑部少輔もそれをどうすることもできず、気の毒に思いながらも慰めの言葉は思い浮かばなかった。

 何も慰めの言葉をかけることもなく馬に乗ると、手際よく兵士達に指示を出す。


「は! 左翼は奮戦し、地形を死守している模様! しばらくは動かないかと!」


「行方隊! 久々の槍働きだ! 穂先は()びてはおらんだろうな? 出るぞ!」


 行方刑部少輔は左翼の動きを確認した後、一時とは言え本陣に残さねばならない、消えかけた蝋のほの明かりの様に心細げな氏治を見ると、つい次の一歩を躊躇いそうになる。

 しかし、これも止むを得ないのだと割り切ると、後ろ髪を引かれる思いのまま本陣を発った。


(みんなを巻き込んでこんなことに……行方にも気を遣わせて、最低だ私……)


 氏治はまだ幼いとも言える年齢だがそれなりに戦場経験はある。

 前線からひりひりとした空気がその肌を撫で、そこからでさえ味方の劣勢ぶりが感じられた。

 氏治は未曽有の危機と被害に強い罪悪感を抱き、涙をこぼしそうになる。


「伝令! 右翼方面で手塚様の部隊が孤立した模様! 中央最前線では一騎駆けを行った沼尻播磨守様がお討ち死に! 前線で槍を振るっていた苅間城代、岩室兵庫殿も重傷を負われて軍勢の指揮もままならぬ状況とのこと!」


 が、状況は一滴の涙をこぼすことすら許さない。


 すぐに涙をぬぐい、虚勢であっても部下を不安にさせまいと精一杯平常心、若しくは強気であるかのような振る舞いを見せ、悲しみに顔を歪ませたりなどしない。


(沼尻のお父さんが……私の所為で……引退間際だったというのに……)


 悔しさや悲しみに歯を食いしばることで堪え、ただひたすらに戦況が好転することを祈るしか氏治にできることはなかった。

 次々と本陣にもたらされる戦死の報に、氏治の胸は張り裂けんばかりの思いだが、前線中央部ではさらなる命の灯火(ともしび)が龍の息吹によってかき消されそうになっていた。


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