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第八十七話 大誤算

 戦場には陣太鼓が鳴り響き、ドン、ドン、と一つ二つなる。

 上杉軍が、一歩二歩と着実に近づいてくる。

 これでもかと言うほどに訓練を施された上杉軍の動きはなめらかであり、強行軍の疲れを感じさせない整然とした、美しいと形容しても不思議ではないものであった。

 その背後に、一列となって整然と居並ぶ毘の一字を前に、(おのの)かない軍勢などはこの世にいないだろう。


 そして、この小田軍も例外ではなかった。


「ひ、ひええ……おっかねぇ……毘沙門様の化身だってよぉ……」

 

「弓ひいても大丈夫じゃろか……罰が当たるんじゃぁ……」


 対する小田方は急な出陣で思うように旗本が集まらず、近隣の農民や浪人を寄せ集めた隊がほとんどを占める軍勢である。士気の底が違うほか、戦意を保つ精神力もまるで違う。

 馬に跨がり威圧する騎馬武者、整然と足音を響かせる徒武者、風にたなびいて尚びくともしない旗持ち衆。見るからに強そうな軍勢に早くも小田勢は潰走しそうになる。



 小田家本陣。


「戦わぬうちにこれとは……危ういですな」


 磨かれたような頭を輝かせ、しかめ面で唸ったのは赤松擬淵斎である。


「早くも窮地ですね。此方も何か手を打たないと……」


 行方刑部少輔は不安そうに上杉軍を眺める。


「……私が最前線に出る。そしてみんなを鼓舞してくる」


 氏治はすっと立ち上がると、台詞と共に歩を進め、旗本に馬を曳くよう手で合図を出す。


「そ、それはなりませぬぞ! 危険すぎまする!」


 赤松擬淵斎はバシっと机を手の平で叩くようにしながら勢いよく立ちあがる。これに氏治は振り返ると、目尻を少し吊り上げて厳しい口調で言う。


「何言ってるの! あの距離じゃまだ当分弓は届かないわよ! それに、今はほとんど横に間延びしただけの横陣になってしまっているけど、本来は偃月なのよ! 大将が前に出るのは当たり前じゃない! このままじゃまるで平たい鶴翼の陣だわ!」


 珍しく正論を言う氏治に、つい息をのみ、言葉を失う赤松擬淵斎であるが、氏治の身にかかわる事とあっては引くことができない。強い眼差しを返すことによって氏治を牽制する。


 その二人を見て、元来気弱である行方刑部少輔が意を決して口を挟んだ。


「……赤松様、お言葉ですが私は思うに、少々赤松様が氏治様に対して過保護すぎるのではないでしょうか? ここは戦場(いくさば)です。天命尽きれば、どこに居ようと流れ矢には当たるもの。そして今は乾坤一擲と氏治様が申されたのです。なれば、ここで是が非でも勝つ姿勢を見せていただかねば困りまする」


 しかし、正論よりも氏治の身の方が重いのか、赤松擬淵斎は顔を真っ赤にはらせ、泡を吹きながら怒鳴り散らす。


「なんじゃと!? この若造の分際でほざけ! 貴様は氏治様の御身の大切さがわからぬか!」


「されど! この戦に負ければ小田家には痛打となるは必定。正攻法で勝つ見込みがない今、できることはすべて行うのです。天命を待つのは万事を尽くした後に致すこと。それをせずに負ければ誰もが悔やみ、怨みの矛先が殿に向かぬとも限らぬのです! 赤松様は氏治様の民を愛する気持ちを御知りでございましょう! それ故に向けられる憎しみの恐ろしさを想像もつかないと申されるか!」


 つい行方刑部少輔にも熱が入り、身分差などを忘れて遠慮なく反論する。


「民は二の次ぞ! 氏治様の御身こそが第一! それにわしは先代政治より氏治様を託されておる! 氏治様の御身を危険にさらすことはわしが許さぬぞ!」


「赤松!!」


 赤松擬淵斎が叫ぶように言い放った直後、ピシャリと薄氷を穿ったような冷たい怒声が場に響く。


「う、氏治様……」


 二人の論争を傍観していた氏治だが、赤松擬淵斎の民を(ないがし)ろにするかのような一言が逆鱗に触れ、殺意の込められているかのような視線で睨みつけ、厳しい口調で赤松擬淵斎を呼びつける。

 これには赤松擬淵斎も目を丸くし、動揺して語気が緩む。


「もうやめて……民だけじゃない、貴方たちも愛してるの。それなのにそんな仲違い見せられて、私のことも考えてよ……」


 氏治は胸を押さえ、俯きがちに震える声で訴えかけた。


「も、申し訳ありませぬ氏治様……さ、されど……」


 赤松擬淵斎は脂汗を掻きながら、必死に思いとどまらせようとする。

 しかし、先ほどまで泣いていたのではと思われた氏治が突如として顔を上げると、その目には涙は湛えられておらず、強い信念で何かを見据えようとしていた。


「前線で戦う皆も私も同じ一つの命。そこに貴賤などないわ。私が危険を負って一人でも生き残れる可能性があるなら私は進む。赤松、これは主命。私が前線で鼓舞して回るから、あなたは全力で本陣を持ちこたえさせて」


「は、ははぁ!!」


 氏治が厳しい口調で命令すると、赤松擬淵斎と行方刑部少輔は条件反射の如く頭を下げさせられていた。



 左翼、八幡隊陣地。


「敵は天下に名高い上杉軍……か。軍勢規模はどうだ?」


 八幡も視力は決して悪くはないのだが、物見の経験もあって、つかみである程度数を予想できる太兵衛に敵数の報告を指示した。


「おそらくは二千程度でしょうか。軍神と呼ばれる輝虎様です。無為に兵を投入することはないでしょうから、各方面に二千、本陣に予備兵力二千を置いているのであろうかと」


「なるほどな……奇襲を食らう気はないと。それに、こっちは各方面に千ずつの約三千。各方面に二千ずつ送った上杉は計六千。本陣が奇襲で壊滅しない限りは正攻法で勝てるわけだから、そりゃ下手な力押しはしねぇよな」


 太兵衛の報告を聞き、八幡は頬をひきつらせた。もはや奇策を打つこともままならないようである。正攻法では負けしか見えないのに正攻法以外の手を完全に封じてきた上杉の戦略に舌を巻くばかりで、良案は何も出ない。


「それに、大軍を一度に展開するだけならまだしも、連携を取るのはなかなかこの地形では困難でしょう。余計な危険は背負うつもりがないという事でしょうね。手堅い戦略です」


「感心している場合かよ。それと、寄せ手の大将は解りそうか?」


 八幡は個々の戦いで戦局を動かせると思うほどうぬぼれてもいないが、せめて戦法単位での勝利ぐらいはしなければと決意し、敵が自分の知っている武将であるよう願った。


「少々お待ちを……片喰(かたばみ)家紋……山の一字を軍旗にしてるところから、上杉家臣団筆頭、中条藤資殿の軍勢と思われます! あ、白地に日の丸紋! 色部勝長殿も寄せ手に加わっている模様!」


「はぁ!?」


(マジかよ……! いきなりにして上杉軍の宿老二人を相手か……というか、もしかしてどこの守り口でも宿老と当たるのか……? っく、飯塚殿! 頼むから一発逆転の策を何か講じてくれ……!!)


 向かう敵は後世に伝わる、八幡でさえも知る武将ではあった。しかし、弱点があるような武将ではなく、上杉で長年宿老を務める実力者である。隙を突くなど到底出来そうもない。


「くそ、飯塚殿だ、飯塚殿に指示を仰ぐ。伝令を飛ばせ! とりあえず俺らはここを死守だ!」


「は!」


 太兵衛が頭を下げ、慌てて伝令の指示を出そうとしたその時である。逆に、伝令が八幡隊の詰所に駆け込んできて叫んだ。


「急報!」


「どうした!」


「飯塚様の軍勢が崩れました! 一部の隊を残して引き上げております!」


「はぁあ!?」


 息切れする伝令が速足で告げたのは、そんな思いもよらぬ情報である。

 左翼大将、飯塚美濃守光重(いいづかみののかみみつしげ)の兵が恐怖の伝染によって隊が浮足立ち、敵との交戦もままならずに敗走を始めたと言うのである。これは、後崩れといい、士気の低い軍勢に時折見られる現象であった。


「後方で立て直す故、八幡隊も敵をうまく捌きつつ退路の確保に努めろとのこと。続けて死守など考えるなとの命令です!」


「ふ、ふざけるな! 戦も始まっていないというのに……!」


 八幡は歯を食いしばり、手の平に爪痕が残るほど強く拳を握る。

 逃げていいなら自分だって逃げたい一心だが、氏治の身を思うと、身代りになってやるぐらいのつもりで死守してやらなければとも思い、退くに退けないのだ。


「飯塚殿の隊が、いくら外様領主の集合体とはいえ……さすがにこれはッ!」


 太兵衛も怒りを滲ませているようで、身分差がなければすぐにでも此処で口汚く罵っただろう。太兵衛も極限の状況で、僅かな理性を働かせるのがやっとである。


「後ろから攻撃されないってことは内通はしてないんだろうが……くそ、ここが取られたら氏治達の横腹を食いつかれる。お前ら! 防衛線を広げるぞ。そしてここは絶対に死守だ! いいな!」


「おお!!」


 民兵主体の八幡隊だが、返ってそれが良かったのか、氏治の御身を守るというと全員が覚悟を固め、連携した動きをし始めた。


(冷静になれ……戦場を味方につけるんだ。目の前は湿地、地形的には動かなければ有利。馬防柵も十分備えてある……後は判断を誤らなければ、いける!)


「……全軍、弓と弩を構えよ。当初の予定通り、敵が深田にはまり次第つるべ打ちにして壊滅させる。それまでは怯える(てい)で敵を出来る限りひきつけろ!」


 長く一列に伸びる防柵の後ろで八幡の軍勢およそ三百は二段になり、弩や弓を構えて上杉軍が射程圏内に入るのをじっと見つめる。やはり本陣でもそうであったように、この左翼においても上杉軍が一歩、また一歩と近づくだけでみるみる戦意が落ち込んでいた。


「皆、怯えることはない。敵はこの地形を思うようには進めまい。それに、我等の有利に地形をつくり、柵を立てたのだ。万全の備えに身を寄せ戦うのだ!」


 八幡に続き、副官である太兵衛も隊の締め付けのため必死に声を荒らげる。

 本陣よりはこの柵がある分だけやはり兵の精神負担が減っているのか、八幡隊は思ったより冷静に行動できていた。


「敵が……泥にはまりませんね」


 当初の策では、上杉軍が完全に泥地、深田に足を取られた直後に矢を雨の如く降らせることで初撃の内に痛打を浴びせ、その後の白兵戦を有利に進める予定であった。にもかかわらず、上杉軍の行軍速度はそこまで鈍らず、あまり隊列の乱れを見せない。


「……歩速がほとんど鈍らないのは確かにおかしいな……これ以上は敵も隊列を正してから駆け足に切り替えるんじゃないか?」


「いえ、おそらくまだかと。敵は泥地には足を取られていないようですが、走るには不都合で体力を奪う地形です。駆け足になるのは八幡様が弓で敵の眉間を狙い撃てる距離になってからでしょう」


 戦国時代、法螺貝が鳴ったからと常に重い甲冑で全力疾走できるわけでもなく、一定の距離まではゆっくりとした足並みで、にじり寄るように距離を詰めることも多い。

 今回の上杉軍も、泥地に不用意に足を取られぬよう冷静な足並みで小田軍に迫ってきたのである。


「眉間にしっかり当たるかは置いといて……約四十から五十メートルか。ならまだしばらくかかりそうだな……ん?」


 太兵衛の本気か冗談かわからない台詞に少し気を楽にしたところで、八幡は一つの事に気が付いた。


「どうかなさったのですか?」


 何かに気づいた様子が見て取れたため、太兵衛は何事かを問う。


「そ、そうか……お前ら! よく聞け! 今すぐ柵の前へ出て田の深さを計れ!」


「そ、そんな御無体な! 敵に弓を射かけられっちまいますよ」


 八幡の素人の様な指揮ぶりに兵は動揺し、怯えを見せ始める。


「今ならまだ射程範囲じゃない! 急げ! でないと死人怪我人が増えるぞ!」


「皆の者! 八幡様の下知に従え!」


「お、おぉ!」


 太兵衛が続けて言葉を添えたおかげで辛うじて兵は下知に従う。八幡は続けて命じた。


「田の深さが解り次第深田の前に立てた柵は引き抜き、浅田や広い畦道、水位の浅い湿地の前に二重三重の壁をつくるのだ!」


「し、しかしそれじゃぁ穴だらけですよ! 上杉の軍勢をどうやっておさえるってんです!?」


 八幡の指示に兵は抗議を見せる。


「安心しろ! 上杉は深田を歩いてはいない。深田から侵入を試みればむしろこちらのもの。当初の予定通りそこでつるべ打ちすればいい。畔や浅田からの侵攻のみを抑えることに終始せよ!」


「は、ははぁ!」


 八幡がようやく要約した説明をしたおかげで兵は納得し、迫りくる上杉軍の恐怖に怯えながらも必死に、かつ円滑に作業を進めた。


(しかし、最初に立てた柵はまだしも、慌てて差し替えた柵は杭が深くまで打ち込めないか……これでは馬の一蹴りで張り倒されそうな……そうだ!)


「皆! ありったけの米俵運んで来い!」


 続けて出される命令に兵は理解が追い付かない。これは太兵衛も同じらしく動揺している。

 この期に及んでさすがに今から米を炊くとは言わないにせよ、食料である米をいったい何に使うのか全く見当もつかないのだから仕方がないのだろう。


「い、いきなりどうされたのですか! 八幡様!」


「いいから持ってこい! そして新しく差し替えた防柵の前後において土嚢代わりにする!」


「そ、そんな勿体ない! は、八幡様! それだけはお許しを!」


 八幡の指示に、当然ながら我が子の様に大切に稲を育ててきた農民たちは反発し、米を捨てるこの所業を承服できずにいる。


「もったいないだ? 何言ってんだ! どうせここにおいておいても上杉にやられれば一粒残らずあいつらの腹に入るんだぞ!? 悔しくないか。あいつ等に略奪されるはずの米で俺らの命が助かるならそれに越したことはないだろうが!」


「そ、そりゃぁ! ……そうですが」


 何となく理解はできても、やはりすんなりとは納得がいかないらしく、農民たちは歯を食いしばった。


「あのな……俺だって元農民だ。 むしろ今も半農民だ。皆が米を大切にしたい気持ちは痛いほどわかる。しかしな、考えても見ろ! 田んぼさえ守れれば米はまた作れる、けどお前らの命は一つしかないんだぞ!? 農民なら米のために命をかけるんじゃない、田畑にこそが命をかけるべきだろうが!」


 ようやく道理を理解した兵は、確かに目の前の米の可愛さのあまり、本来自分が守るべき目標であったものを見失いかけていたことに気が付く。

 急ぎ全軍で行動すると、上杉軍による威嚇の為の弓の第一射目が放たれる頃に、辛うじて作業が終わる。


「太兵衛、けが人はどうだ」


「は、負傷者が六名出ましたがどれも傷は浅く戦線は外れるつもりないとのこと。用意は出来ました、さぁ! こちらも参りましょう!」


 太兵衛が言い終えるとほぼ同時に上杉方の陣太鼓が激しく鳴り響く。

 突撃の合図である。

 上杉軍はどっと鬨の声を上げ、畔を踏み鳴らして続々と近づいてくる。


「おし、全軍! 反撃だ! 一列目構え……」


「放て!」

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